人の目を気にしなくなったら、どこに行ってしまうのだろうか?
島根に帰ってきた。やっぱり島根は落ち着く。空は広く時間はゆったり流れている。
石見空港に降り立ち、益田から江津までの汽車の中で、こんなことを考えていた。「人の目を気にしないとしたら、自分はどこに行き着くのか?」ということを。
人の目を気にしていない人はいない。
僕だけではなく、ほとんどの人間が「人の目」を気にして生きている。おそらく全く気にしていない人などこの世にはいないだろう。日々の生活の中で、大なり小なり人の目を気にしているものだ。
例えば、僕は道端で「あいさつ」をすることが苦手だ。島根では比較的知らない人でも道端ですれ違うときに挨拶をすることが多い。挨拶をすることが良いことであることは理解しているものの、つい知らない人とすれ違うときに、うつ向いてしまうときがある。
これは僕が勝手に「返事が返ってこなかったらどうしよう」と不安に思ってしまうからなのだ。もしくは「変なやつと思われたらどうしよう」と勝手に想像してしまっているからなのだ。
僕の心の中にいる弱気なアドバイザーが、「やめたほうがいいぞ」と囁くのだ。
これは僕の個人的な例ではあるが、もっと些細な事をいれれば1日の中で何百回も「人の目」を気にしているのではないだろうか。
「人の目を気にする」とは心のブレーキである。
こうやって僕が挨拶を苦手だと思うように、人の目を気にしてしまうということは、いわゆる「心のブレーキ」になってしまっている。人の目を気にしたことで、本当にやるべきことから目をそらし、やらなくてもいい状況を頭のなかでつくっているのだ。
そして、ブレーキをつくることで、その代わりに僕らは安心感を得ている。「これをしたら嫌われるかもしれない、だから辞めておこう」「これを言ったら、嫌な思いをさせてしまうかもしれない、だから辞めておこう」そうやって、どんどん出来ないこと、やりたくないことをやらなくてもいい理由をつくって安心しているのだ。
逆に言うと、心のブレーキである「人の目」が気にならなくなれば、1速から2速、3速から4速へと、勢いをつけたレーシングカーのように、どんどんスピードを上げていくことができるのだ。
人の目というブレーキが外れるとどこに行くのか?
では、人の目を気にしなくなったらどうなるのだろう?僕はそこに興味を持ってしまった。僕は人の目が気にならなくなったらどこに行ってしまうのだろう?正直なところ考えたくない質問だった。これほど恐ろしい質問は無いのでは無いかと思うくらいに感じた。
人の目が気にならなくなったら、僕はもっと自分勝手に生きるだろう。愛想笑いをやめて、会話を人に合わせることをやめて、嫌々やっていることをやめて、無理に人との付き合いもせず、メールやLINEも気を使わずに返したいように返すだろう。
これを考えたときに、僕はこんなにも人の目を気にしながら日常的に我慢をしているのかと、少し愕然とした反面、しょうもないことばかり浮かんできたので可笑しくなってしまった。
人の目を気にしなくなったら何が出来るだろう?
もっと自由に楽しいことをしているだろうか。楽しいイベントをたくさん企画しているだろうか。着の身着のまま放浪の旅でもしているだろうか。お金に縛られること無く、好きな人と好きな暮らしをしているだろうか。
明日から少しずつ「人の目」を気にしない生活を意識してみようと思う。心の中にいる弱気なアドバイザーを「大丈夫だよ」と励ましながら。
あでゅ。
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