仏王処刑21-9月虐殺恐怖政治の始まり
2021.08.20 11:53
国王が居なくなったチュイルリー宮前のカルーセル広場に堂々と置かれたのがギロチンである。これは人道的な死刑のために作られた。それまでの処刑は、車裂きなど残酷で、見世物的要素があった。これは革命の精神にのっとったものだが、今度は多数の人間が機械的に処刑されることになった。
立法議会は、特別軍事法廷を設け、1千人以上を逮捕、その多くは、国への宣誓拒否をした聖職者だった。なんと国立聾学校の校長で尊敬を集めていたシカール神父も捕らえられて、牢獄に入れられる。
何と英雄ラファイエットにも逮捕状が出され、彼は逃亡。司令官不在の仏革命軍は1792年9月2日、ヴェルダンでプロイセンに敗北。普軍はパリへ進撃を続ける。動揺する議会で、司法大臣だったダントンは「大胆、大胆、さらに大胆」という有名な演説を行った。まず身内の裏切り者を処分せよ、というのだ。
9月2日、パニックになっている市民は、牢獄に押しかけ、現場の「人民裁判」で逮捕していた人間を即殺害した。シカール神父は間一髪で逃げられた。が、アントワネットに忠実な元女官長ランバル夫人や王妃侍女は虐殺された。ポリニャック夫人は早々に亡命していたが。カルメル修道院も虐殺され、約1500人が犠牲となった。さらに各地で虐殺が起こりとの数は1万人を超えた。