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じゅんじゅんホームページ

テレビ。

2021.08.22 15:57

最近、テレビを頻繁に観ている。

厳密に言えば、BGM代わりに流している。

こういう見方は、正直あんまり良くないと思っていた。

きちんと観てもいないのに、電気の無駄遣いじゃないか、と。

しかし、いざテレビを付けたまま作業をしてみると、なんだか、ちょっと良い。

ながら見で、ニュースやバラエティ、アニメまで、さまざまな事柄がなだれ込んでくる。

中には、普段まったくもって興味のない映像や情報もたくさんある。

スマートフォンで検索したり、ざっと見たニュースの中から気になった見出しをクリックするという情報収集が基本だった私には、新鮮な感覚。

今までは入力、クリックといったワンクッションの都度、小さな決断をしていた。

その中には、自分の倫理にそぐわないものや、持論から逸れたものを避けるという決断も含まれる。

なるべく公平に情報や見解を見聞きしていたいと思っていても、それらの採用係が自分自身である以上、知らず知らずのうちに偏ってしまうものだ。

自分の好みや興味のある事柄で時間や頭を満たすというのは、とても有意義だ。

でもあまりにそれが過ぎると、世間知らずが凝り固まり、知らない世界に直面した際に大きく転び兼ねない。


好きでもないものを探るべきとか、自分と反対の意見に論破される経験を積むべきとか、そういう根性論の話ではなくて、

「そういう世界もあるよね。」

という想像力を持って物事を眺めるべきで、予期せぬ情報や体験というのは、そういった幅を広げてくれる教材のような存在と思う。

どうしようもない絶望に直面した時、自分の視野の枠がガラガラと崩れていく感覚を覚える。

耐えられないのなら、今持ち合わせているキャパシティ自体を崩してしまえば、堪える必要がなくなる。

そうやって人は気付き、諦めていく。

諦めることで、キツくなったベルトを緩めるように、身動きがしやすくなる。

「"諦める"という言葉には、"明らかにする"という意がある。」

と本で読んだ時、世間的にどこかマイナスイメージのあるこの言葉に救いを感じる訳が分かった気がした。


先日、大食いな女子アナ何名かに、デカいステーキやらなんやらを食べさせるという番組がやっていた。

うわばみのように口を大きく開き、我先にと分厚い肉を飲み込んでいく、綺麗な女子アナたち。

普段絶対に選び取らないであろう映像を眺め、いろんなことを思った。

噛みきれない量を頬張り、口も閉じられないまま

「おいひい〜!」

と言う彼女の顔は、どちらかといえば美味しいより苦しい感じがして、これは大変なお仕事だな、とか。

こぼした食べ物がテーブルに落ちるシーンで、いかにも笑いどころですよと言わんばかりの"ポヤン"という間の抜けた効果音とフォントが重ねられていて、この編集センスには理解し兼ねるし、そもそも食べる瞬間の"ガブリ"という効果音も、豪快さを出す為だろうけれど少々品がないな、とか。

気付けば作業そっちのけで目を向けていた。

アレコレ思いを巡らせ視聴していたが、噛まずに食べてゆく姿に自分の喉も連動して気持ち悪くなってしまい、途中でチャンネルを変えた。

だめなんだよね。

癖のあり過ぎる歌声聞いても、喉が痒くなっちゃう。

私の声帯は、目にした通りに動く癖があるらしい。


それはさて置き、普段絶対に選び取らない情報を目にして、とても刺激を受けた。

死角から水平チョップを喰らったような感じだ。

以前勤め先の社員食堂で、定食のお皿に顔を突っ込むようにして食べる人を見て、モヤっとしたのを思い出した。

私がモヤっとしようが、どう思おうが、そういう人もいるのだ。

犯罪でもない限り、

「ちょっと!お下品なのでやめて下さいます!?」

なんて言う権限は、私に無い。

そういう人もいるんだなあ、という距離感を保つのが最善策。

ある程度の距離を保つ為には、逐一ビックリしないことだ。

「えぇ〜!ワンちゃんじゃああるまいしー!」

などと一々衝撃を受けていては、自分から不快感を引き寄せているのと同義である。

経験と想像力をもって、諦める。

そういう人もいる可能性あるよね、と脳内で明らかにしておく。

それが上半身裸で逆立ちして食べる人とかだったら充分ビックリしてもいいと思うのだが、ある程度想定の範囲内というのはある。

その中で、自分にとって好ましいか否かが存在するわけで、自分の良し悪しが世界を作るわけではないのだ。

SNSで意見を提示すると誰かに同意してもらえたり、徒党を組んで正当さを主張出来たり、そういった事が手軽に出来る世の中であるので、その辺がごっちゃになってしまいがちなのかなと身を持って感じる事がある。

勿論、自分の意見で世界が変わる事もある。

歌って、それを良いねと言ってもらえる事だってある。

けれども無作為に照らし合わせれば、圧倒的に不都合や好ましからざる事象の方が、多い。

どう足掻いてもそれは変わらなくて、だからこそきちんと照らして、念頭に置いて生きていくべきなのだ。

自分は絶対にしないけれど、ポイ捨てする人もいれば、わざと意地悪を言う人も、世の中には居る。

不快感を覚えるかもしれないシチュエーションを予め察知して避けるのも、大切な蘇生術。

きちんと明らかにして、きちんと諦めて。

そういう回路を経て、自分の受けるダメージを軽減したり、生きやすくしていけるのかなと思う。

だいぶ話が逸れたけれど、テレビは多彩な情報発信機であり、自分こんな事思うんだなと気付けたり、新しい世界を広げられる道具でもあるのだなと。

食いしばり改善の為に、リラックスして脱力してねと歯医者さんから言われた。

形から入るタイプなので、今日はティータイムを導入した。

戴き物の美味しいお紅茶と、おやつの鉄分ウエハース。

いやあ。

すごく優雅。

温かい飲み物を嗜むと、"自分、人間エンジョイしてるじゃんね"、としみじみ思う。

どこから目線なのか。

前世か。

せっかく人間に生まれて無事大人と呼べる歳になったので、丁寧な暮らしをしてゆきたい。

大人は最高だな。



9月3日のイベントの詰め作業で、パソコンと延々にらめっこ。

気晴らしがてら買い物から帰宅して、いつも通りテレビのスイッチを付けた。

キッチンで手を洗い、食材を冷蔵庫にしまったりなんだりして戻ると、テレビが付いていない。

はて。

リモコンの押し具合が甘かったかなともう一度ギュッと押してみる。

モニター端のランプが赤から緑になるはずが、うんともすんともいわない。

リモコンの電池を交換してもダメで、仕方なく本体のスイッチを押す。

暗いままだ。

まさか。

コンセントの抜き差しもしたし、差し込み口にフーッとしてみたりもしたが、全部ダメ。

最終的に、赤いランプも付かなくなった。

はい。

テレビ、壊れました。

せっかく地上波に意義を見出した所だというのに。

戴き物なので損害はあってないようなものなのだが。

まあいっかと思ったが、先日予約録画しておいた『おぼっちゃまくん』が観れないことに気付いて、ちょっと焦る。

そんな。

せっかく録画したのに。

悔しくて調べ上げたら、アプリを落とせばスマホで再生出来るとわかって一安心。

良かったあ。

吉幾三のオープニング曲『茶魔さま』が最高に良いのだ。

リアルタイムで放送中の番組もスマホアプリで視聴できるそうなので、画面は小さいけれどしばらくはこれで事足りるだろう。

わざわざテレビを買うのもなあ。

ジモティーをこまめにチェックしてみるとしよう。

いままでありがとう、そしてさようなら、我が家のテレビジョン。

おやすみなさい。