素敵♡二宮金次郎の真髄
『精一杯尽くす【いま】を重ねる』…それが二宮尊徳(金次郎)の真髄であると、7代目子孫の中桐万里子さんが、おばあさまを通じて二宮家で代々語り継がれてきた「金次郎の実像」がとても面白いのでご紹介します(^^)/
薪を背負う銅像でお馴染みの二宮金次郎のイメージって。
「質素倹約の権化」「爪に火をともすような厳しい節約家」ですが、実際には「ケチ」が大嫌いな人間で、自分がそんな大嫌いな「ケチ」と混同されることをひどく嫌がった、そうです。
若い頃から、お伊勢参りなどの観光旅行をしたり、当時は贅沢だった銭湯通いが大好きだったり、なんだかんだとお金を使うことが上手だったようで。
自らの行為を「ケチ(吝嗇)」ではなく、「倹約」と呼び… 今でいう「貯蓄」ではなく、「備蓄」と言い換えるとわかりやすい(^_-)-☆
その土地の収穫状態や災害頻度、人口の変動予測や、歳入と歳出のバランスなど、異変を含めたあらゆる状況を綿密に調査したうえで、どの程度の備えがあれば安心した暮らしができるかを計算して「備蓄」するよう勧めていた。 やみくもにただケチケチと貯めてゆく行為(貯蓄)を、むしろ愚かなことと軽蔑してさえいた、そうです。
身長 182cm・ 体重 94kg
生真面目、ケチ、堅物な人物じゃなく、むしろ冗談、遊び、ユーモアたっぷりのチャーミングな人柄だった金次郎。
忍耐や自己犠牲や苦難や困難の連続で、ひたすら艱難辛苦、いばらの道をゆく…だけの生き方だったら、あんなにも大勢の人の心は揺さぶれなかったし、荒れ果てた600もの村を再建など到底できなかったでしょう。 だって、人は、それがどんなに正義や理想だとわかっていても、苦しそうでつらそうな背中を追うことはやっぱりためらうもの。
猛烈な実践主義者だった金次郎が、いつだって大事にしたのはとても小さな行動でした。
大きな野心を抱いて行動したり、途方もない高いハードルを用意したりなどということはまったくしない。
大きな田んぼを前にして勢いだけで飛びかかるような行動でなく、最も大切にしたことは、小さな目の前の田んぼを、鍬で大地を掘り返し、春に苗を植え、草取りをし、実りを待つ。
ただ、それだけ。 これこそが金次郎の有名な言葉『積小為大(せきしょういだい)』です。
小さな苦労や我慢をコツコツしなければ大きなことを成し得ないというお説教ではなく、
小さなことで得られる現実的な喜びや自信がなくては、大きなことには立ち向かえないというう意味。
小さな行動から、小さな実績を積む。 そうすることで現実を一つずつ整理し、自信や落ち着きを手に入れ、少し高いハードルに挑むための前向きな勇気が生まれるもの、であると。
…(;´∀`) ワタクシ、間違って解釈しておりました (;´∀`)…
田の草は あるじの心 次第にて
米ともなれば 荒地ともなる
この金次郎の言葉のとおり、主(あるじ)の心、そしてその心からはじまる行動次第で、目の前は荒地ともなり、米(実り)ともなる。幸せは、誰かが与えてくれるようなものでなく、自分の心、そして行動こそがすべてを幸せへと生みなおす尊い力を持っている…と。
そして、金次郎が亡くなる前に人生を振り返って遺した言葉が…
余が足を開け、余が手を開け、余が書簡を見よ。余が日記を見よ。
戦々兢々として深淵に臨むが如く、薄氷を踏むが如し。
裸一貫から巨万の富を築いたり、荒れ果てた600もの村を再建したり、さまざまな指導や革新的なアイデアが繰り出される自信たっぷりに映ったであろう金次郎の内面は、実は途方もない緊張感につきまとわれていた。
どんなに経験や実績があっても、成功へと向かう安全な一本道など最期まで見つかりはしなかった。だからこそ、細心の注意を払って現実を観察し、丹念に調べ、最大限の工夫を重ね、ただただいつもベストを尽くすことに集中した…
…ワタクシ、数ある偉人伝の中でやっぱり二宮尊徳が一番好きです♡
偉人の皆様の真髄はすべてみんな同じなんですけどね(#^^#)

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