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日本語教師こんぶの会

私たちの「今」を考えるということ

2021.08.25 08:35

ブログ強化月間は一応終了したのですが、ご訪問いただきありがとうございます。

このブログは月間中に下書きしたにも関わらず、ブログ更新者の体調不良、ワクチン接種による倦怠感、その他諸々の倦怠感(つまりやる気が出なかった😅)により、約2週間放置されていたものを、一応出しておこう、というものです。


いきなりですが、皆さんは気分的に乗らないときとか、前向きになれないときなど、どうしますか?

私は、もう乗るまでそのままにしてしまうことのほうが多いです。

(その結果、ブログを2週間放置、という事態に陥りました😂😂)

そこそこ長い(もう折り返して幾星霜💦)人生を生きてきて、もがいたり無理に何かをしようとしても、なかなかうまくいかないことのほうが多いので。

それで、惰性のままグズグズしつつ、「あの本、読もうかな。でも、ま、いっか」とか「へえ、こんな研究会があるんだ。行ってみようかな…あ、でもちょっと忙しいな」などと言い訳しつつ、何とか日々の仕事をこなす…のです、今回のブログ更新者は。


でも、さすがに時間がたってくると、「もうそろそろ何かしないとな」と思ったり、ちょっと気分転換になることをしてみようか、と思ったり…。

でも体が言うことを聞かない、グズグズ…の繰り返し。

そんな自分から何かやる気になかなかならないときは、外からの刺激がいいこともたまにありますよね。

自分から初めての研究会に出たり、本を読んだりするのはあまりに億劫なので、そういうことはしないんですが、「こんぶの会」のMTGは基本毎週あるのです!

で、そこには顔を出せます、慣れているところなので😅

そして、それが刺激になって、徐々に具体的に体を動かせるようになってくる、ということがあります。


「こんぶの会」のメンバーの中には、「論文を読むのが趣味」というツワモノがいます。

私なんぞ、必要に迫られないと読まないので、「すげ~」としか言いようがないのですが、その「論文を読むのが趣味」という人に教えてもらったのが、「日本語教育の危機とその構造―『1990年体制』の枠組みの中で―」です。



博士論文ですが、非常に読みやすいのですんなり読めます。

題名の通り、筆者は現在の日本語教育に非常に危機意識をもっており、それを「1990年体制」との関りの中でとらえようとしています。

「1990年体制」については以下のようにあります。

日本の移民政策は「1990年体制」と呼ばれることが多い。1990年に改訂施行された入管法によって、その基本的枠組みが定められ、現在に及んでいるからである。それは単純労働移民を認めないとする日本政府の基本方針を堅持したまま、人手不足に悩む産業界の要請に応じて、サイドドアから単純労働移民を導入する統合政策なき移民政策である。


私自身はこの1990年体制の申し子のような人です。

1990年代に大学の日本語教師養成課程を修了して、日本語教師になった者ですから。

実は当時から単純労働者不足を補うために留学生(当時は就学生)を活用しようという動きは少なからずあり、いわゆる悪徳日本語学校も横行していたことから、それを何とかするために日本語教育振興協会が作られたような記憶があります。

(調べてみたら日振協の設立は1989年でした)

現在、日振協に拘束力はないし、いわゆる留学生に対する日本語学校以外にも日本語教育機関はたくさんあって、どこがどういう所轄なのかとか、私もよくわかっていない部分があるのですが、思うことはあります。

それは、「目の前の学習者だけを見ている」ことで十分なのか、ということ。


日本語教育をめぐる状況は大きく変わりつつある(いや、変わらないのか🤔)のではないかと思います。

2019年に「日本語教育の推進に関する法律」(以下、日本語教育推進法)がやっと成立しました。

この法律を作る際にも「移民政策を優先すべき」という議論もある中、それを待っていると何も進められなくなるという政治的な問題があるため、とりあえず日本語教育の責任の所在を明らかにするための理念法だと理解しています。

この論文そのものは日本語教育推進法が成立する前に出されているの、法律には触れられていません。

ただ、同上法は移民政策を「とりあえず横に置いて」成立したものなので、正面切って移民政策を論じようとしている論文筆者にとっては、相容れないものかもしれません。


この論文の論点は、結局のところ、日本語学校や日本語教師は「統合政策なき移民政策」である1990年体制に協力しているのではないか、ということです。


うーん、既視感ありありですね。

少し日本語教育史をかじった人なら知っていると思いますが、日本語教育が大いに発展?したのは日本の植民地や占領地域においてです。

そこでは、多くの日本語教師(植民地では国語教師)が、「よかれ」と思って一生懸命現地の人々に日本語を教えました。

中には強権的な人や権威を振りかざす人もいました。

一方、ある地域ではそれが肯定的に受け入れたこともあるでしょう。

学習者と教師との間には、麗しい人間関係が築かれた場合も、もしかしたらあるのかもしれません。

でも、だからと言って植民地支配や軍事占領を肯定するわけにはいかないのですよね。

それと、よく似たことが日本の国内で起こっているとしたら…?


言語というのは厄介なものですよね。

ナショナリズムとか、政治、経済などとダイレクトに結びつきやすいものです。

もしかしたら、「道具」としての言語だけを切り取って、「私は学習者が必要な道具を提供しているのだ」という方もいらっしゃるかもしれません。

そのように割り切れたら、どんなに楽だろう、と思います。

私が、日本語教師になった当初から、「日本語」よりむしろ「教育」の方に惹かれていたのは、その辺を自分でごまかせるからかもしれません。

私は、学習者には私のやり方が合わなければ、それを言ってほしいし、間違いがあればそれを指摘してほしいと思っています。

大学院のときの英語の先生が、「私はEducatorだから、ただ英語の知識を教えようとは思わない。皆さんには多くを学んでほしいのです」とよくおっしゃっていたことを思い出します。


最近、「公認日本語教師(仮称)」に関わる「日本語教育の推進のための仕組みについて(報告)」が出され、パブコメを募集していますね。

Twitterでも、この「報告」についてさまざまな議論がなされているようです。

こういう議論は大切だし、その中から自分の考えもまとまっていくこともあると思います。

自分が「公認日本語教師」を名乗れるか名乗れないかも大事ですが、この制度によって何がなされようとしているのか、をとらえていきたいと思います。

それは、どんな社会であってほしいのか、という願望とも結びつくのではないか、とも思っています。


私たちは常に「今」を生きているのですが、それがただ「目の前の出来事」にだけ集中してもいいのかな、という不安が常に私はあります。

もちろん、「目の前の学習者、目の前の出来事」はとても大切なのですが、それだけになってしまわないようにするためにも、たまには立ち止まってこんな論文を読んでみることもアリかな、と思っています。


日本語教師という仕事が国家資格化されるかもしれない今だからこそ、自分の「今」をできるだけ大きな視点から見られるようにしたい、と思うのです。


結局何が言いたいの?と言う内容になってしまいましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。

徒然なるままのブログ更新として受け流してください~