Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

魂の選んだ環境の下

2018.08.25 09:07

Facebook・三浦 直樹さん投稿記事 パラリンピック、始まりましたね!!

私は医師としてのキャリアが小児科で、NICU(新生児特定集中治療室)にも勤務していましたので、先天的に大変な方々とのお付き合いも多かった。

肉体だけでなく、脳や神経の疾患の患者さんも多かったので、そういう方々の生活フォローにも関わらせていただいていました。

皆さん、疾患の程度により生活は変わりますが、本当に大変な環境を乗り越えながら生活されている。

当事者や、現場にいる人間にしかわからない世界があります。

また、当時はお子さんに対する保険制度が今ほどよくなくて、皆さん、経済的にもかなり苦労をされていました。

そんな環境にもかかわらず、苦労を乗り越え、前向きに競技に取り組まれている姿は、ただただ感動でしかありません。

『人に歴史あり』、とよく言われますが、本当にお一人ずつインタビューさせていただくと、事故や病気などで後天的に大変だった方も含めて、間違いなく壮絶な人生を送られています。

それを踏まえると、もう毎日、その姿を観させていただいていだけで号泣です。

私自身、今まで関わらせていただいた方の姿も浮かんできます。

人間って、凄い。

パラスポーツに関わられなくても、素晴らしい生き方をされている方もたくさんおられます。

本当に生きているだけで、生かせていただいている事だけでも凄いことだなと、あらためて実感しています。

どんな状況でも、諦めさえしなければ、出来ることはあるのだと。

思考は物理的に安定した人生を求めますが、魂は成長を求め、様々な環境や境遇を迎えます。

その与えられた境遇、魂の選んだ環境の下で、出来ることを日々、淡々と行うのみですね。

皆様のご健闘を心よお祈りいたします。

ちなみに、私は個人的に障害者とか、ハンディキャップという言葉が嫌いなので、文章では使いません。

『病人』という言葉も嫌いです。

あえて使うのなら、『チャレンジパーソン』かな?

しかし、これも完全にはピンときてなくて、みんな同じで、全て個性だと思っています。


https://www.news-postseven.com/archives/20210607_1666108.html?DETAIL 【目と鼻のない18才の娘【後編】第三者の助けを借りて親子が見つけた光】より

 もし、「見えない」「話せない」重度障害の娘が生まれたら──アメリカ在住の倉本美香さん(51才)の長女・千璃(せり)さん(18才)は「無眼球症」と呼ばれる障害を抱えており、生まれたときから眼球がなかった。

 千璃さんが初めて手術を受けたのは生後10か月のこと。埋め込んだ器具は幾度となく目の中から飛び出し、たった2週間で再手術となることもあり、以降、千璃さんは義眼治療だけで約30回もの手術を受けた。

 希望を込めて行っていた義眼手術だが、後々、思いがけない形で美香さんを苦しめる原因となる。日本で1冊目の著書が出版されると、「視覚のない子供に義眼を無理に入れる治療を受けさせるのは親のエゴ」と、大バッシングを受けた。「目も鼻もない18才の娘」は何を教えてくれたこととは──。

第三者に助けを求めたことで千璃の可能性が広がった

 異国での手術と仕事に追われながら、美香さんは千璃さんを含む4人の子供を育てた。

「いちばん下の子が生まれてすぐは、まだ誰もひとりで歩けなかったはずなのですが、4人の子を連れてどのように外出していたのかまったく思い出せないんです。そんなときでも、メモ程度ではありますが、ずっと千璃との日々は書き残していました。おかげで、こうして振り返ることができます」

 現在、倉本家には、高校1年生の長男、中学3年生の次男、中学2年生の次女の3人が美香さん夫婦と一緒に暮らしている。

 千璃さんは、10才から寮がある学校へ通い始めた。「家族が面倒を見ず、障害者を施設へ送り込んだ」と思われはしないか、本当にそうしていいのだろうかと、決断してなお迷いもあったが、歩行、食事、排せつといった基本的なことすべてに介助が必要な千璃さんには、親がいなくなっても生きていける力を身につける必要があった。

 ニューヨーク州の北部にあるスペシャルスクールは、広大な敷地の中に、学校と寮、病院、成人向けの職業訓練センター、農園や酪農場などが点在しており、肢体や発達に障害を持った人たちが一緒に過ごしている。生徒の数は約270人で、そのうち、自宅が遠方で通学が困難な生徒たち約150人が寮生活を送っている。

 千璃さんの通う教室の生徒は6人。4人の教師に手厚く見守られている。授業は午前9時から午後2時半までで、生きていくために欠かせない「食べる」という行為を自分ひとりでできるようにすることを目標にしているのも、この学校の特徴だ。

「それまでは、異国の地で親にすら心配をかけられないと、自分たち夫婦だけで抱え込んでいました。空に向かって『助けて』と言ったことは何度もあるけれど、いざ人に会うと何も言えない。不器用で、甘えることができなかったんです。私は“自分にはできない”とも言えなかった」

しかし実際問題、千璃さんには人の助けがいる。そして、障害を持った娘の成長を考えたとき、親の力だけでは限界がある。

「周りの人に“助けて”と口にして、ようやく光が差してきました。米国には、しかるべきサポートや施設があり、自分たちができないことは専門家に託してもよかったんだと、ようやく気づいたのです。

 いま、千璃は歩けるようになりましたが、あのまま私がつきっきりで面倒を見ていたら、それもままならなかったかもしれません。複雑な思いでしたが、寮制度のある学校で専門家の助けを得たことで、千璃自身の人生の可能性が広がったんです」

 学校や寮での様子は、朝昼晩とレポートが送られてくる。最初こそ泣いてばかりだった千璃さんだが、環境に慣れてくると、しだいに笑顔も増え、できることも着実に増えていった。

「千璃が12才の冬のことです。平日に、普段の千璃の様子が見たくて、夫とふたりでスクールを訪れました」

 千璃さんは担任教師と一緒に、日課になっているペットボトルのゴミ捨てをしていた。

「実際はほとんどの作業を先生がやってくれているんですが、千璃が“自分の仕事”を持っていることに感激しました」

 ゴミ捨てを終え、廊下から教室へ戻る道すがら、教師が千璃さんに白杖を持たせた。

《「ほら、千璃、一人で歩いてごらん」

 私は固唾を飲んで見守った。千璃は白杖を持ったまま、ゆっくり足を前に運んだ。足を少し開いたまま、体を少し左右に振りながら、じっくりと千璃は歩いた。(中略)私は目の前の奇跡が、現実であることを噛みしめながら、思わず涙した》(『生まれてくれてありがとう』/小学館より)

 寮生活になったからと、家族の時間をおろそかにしたわけではない。週末は家に帰ってきて、必ず6人そろって過ごすことを家族のルールとした。弟や妹たちも彼らなりに千璃さんのことを理解するよう努め、美香さんが千璃さんの世話をしているときは決してわがままを言わず、それどころか、あれこれ手伝ってくれるようになっていた。

“千璃ちゃんはどうして目が見えないで生まれてきたんだろう”

 姉の宿命に、疑問を投げかけることもあった。ささやかな幸せがそこにはあった。

自分たちの夢や人生を、千璃が理由で諦めることはあってはならない

 2020年、アメリカでの新型コロナウイルス感染拡大の猛威は、日本以上に深刻だった。千璃さんは、帰宅はおろか、学校での面会も禁止となり、パソコンの画面に映し出されるリモート面談だけがコミュニケーション手段となった。しかし、初めての試みはうまくいかない。

「目が見えない千璃にとって、声が聞こえることと、スキンシップは一体化しているんです。“ママの声がしたら、私の頬を触ってくれる”というふうにとらえている。リモート面談では、声は聞こえても触れることができないため、千璃には状況が理解できず、パニックになってしまいました」

 アメリカではワクチン接種が進んでおり、千璃さんはすでに2度の接種を受けている。しかし、まだ帰宅は認可されていない。

「ようやく、学校で15分の直接面会が許されるようになりました。とはいえ、それも予約制なので頻繁に会えるわけではありません」

 今年3月には、久々に家族6人で顔を合わせることができた。千璃さんが病院の健診を受ける前に、集まることがかなったのだ。

「アメリカでは法的に18才が成人の年齢です。今年の3月11日に千璃は18才になったのですが、成人すると保険や医療費の制度が細かく変わるため、そのまえに今後の治療方針を相談しようと、医師から提案があったのです」

 健診の経過も良好で、コロナ禍の不自由さがまだ続くことを除けば、千璃さんをとりまく環境は何の心配もないように見える。しかし、千璃さんが成人したことは美香さんにとって新たな課題の始まりでもある。

「スクールの決まりで、21才になったら卒業しなければなりません。私たちはあと3年弱の間に、千璃の“この先”を決定する必要があります。同じ敷地内に大人用の施設もあるのですが、空きがないので望んでも入れません」

 さらに、頭を悩ませるのが医療費の問題だ。アメリカでは、法的に扶養義務のある年齢までは親が加入している医療保険の対象となるが、それ以降は自立した1人の大人とみなされ、扶養には入れない。

「いったん障害者と認定されれば、半永久的に公的サービスを受けられる日本の『障害者手帳』のような支援制度はアメリカにありません。何もサポートがないわけではありませんが、情報を自力で探し出し、申請する必要があります。『千璃のこの先をどうしよう』と、最近は頭をよぎることが増え、闇を抜けても、第2、第3の闇が待ち構えているという状態です」

 今年3月、美香さんは日本で出版した2冊の自著を英訳し、1冊に再編集した。本のタイトルにつけた『Born(e)』には、「不自由や障害を背負い、耐えたことで実りを得る(borne)よりも、すべての人がありのまま(born)受け入れられる社会になってほしい」という願いを込めた。

 英語版を出した背景には、よりたくさんの人たちに千璃さんの物語を伝えたかったことはもちろん、千璃さんと最も近しい存在である3人の弟妹たちに読んでほしいという思いがあった。

「わが家の子供たちはアメリカで生まれ育ったので、日本語の読み書きがあまり得意ではないんです。日本語版もパラパラ見ていたようですが、内容をどこまで理解できているのかは微妙でした。英訳本を読んだ長男が、本を片手に声を殺して泣いている姿も見かけました。“わが家のストーリー”をようやく理解した彼らの意識も、新たな方向へ進んでいくのではないかと思います」

ただし、美香さんの信念として、将来、弟妹たちに千璃さんの世話を強制することだけは避けたいと考えている。もちろん、千璃さんが姉であるという事実が変わることはないし、家族として仲よくしてほしい。だが、自分たちの夢や人生を、“千璃ちゃんがいるから”という理由で諦めることはあってはならないと思っている。

「ことあるごとに、子供たちには『面倒を見なくちゃいけないと思わないでね』と伝えています。末の娘は、将来お金持ちになって、千璃のことも助けてくれると大きな夢を話してくれますが、その気持ちだけで充分です」

障害者施設での殺傷事件で犯人が語った言葉に全身が震えた

 かつては孤独と闘ってきた美香さんだが、その道のりは大きな輪をつくり、各方面へ広がっている。今年4月には、美香さんの著書を原案にしたリーディングミュージカル『DUSK』が東京で公演された。その情報は多くのメディアで報じられ、反響を呼んだ。

「最初の本を出してから、もう9年が経ちます。いまも本のメッセージを大切に取り出して、私たち家族に起きたことはみんなに無関係ではないと、誰かが伝えてくれることはとても感慨深い。人の優しさに触れた気がしました」

 2冊目の書籍『生まれてくれてありがとう 目と鼻のない娘は14才になりました』は、台湾でも翻訳され、今年4月から同国の出版社で刊行されている。世界各地で、さまざまな形で、親子の物語に関心が寄せられている。“障害も個性”──そんな言い方をする人もいる。だが、障害は特徴の1つではあるが、“個性”というきれいごとで片づくものではない。

「ミュージカルを見るため、この春、久しぶりに日本に帰りました。かつては、日本から届いた批判の声によって傷つきましたが、いまは、千璃の話をもっと聞かせてほしいという声がたくさん届いています。学校で子供たちに話してほしいという声も多く、日本も多様性を受け入れようと変わってきていることを肌で感じました。それが皆さんへの恩返しになるのなら、どこへでも行って、伝えていきたいと考えています」

 アメリカに拠点を置く美香さんだが、日本で起きたある大事件を忘れていない。2016年の、相模原障害者施設殺傷事件だ。

「19名の尊い命が失われた事件は、アメリカにも衝撃的なニュースとして伝わってきました。“障害者は世の中のお荷物、世の中からいなくなるべきだ”という加害者の言葉に、全身が震えました。

 体が大きくなり、介護が必要になった障害者を家族だけで世話するには限界があります。施設に子供を送り出さざるを得なかった親御さんたちの思いと、その先でわが子が殺傷された気持ちを思うと、本当にいたたまれない」

 障害者は不幸をつくることしかできない──犯人の主張は、日本社会にあまりにも暗い影を落とした。子育てを通して、数えきれないほど何度も闇の中をさまよってきた美香さんだが、犯人のその主張を真っ向から否定する。

「千璃は、『生きるとはどういうことだろう』『幸せって何だろう』と、私たちに考えるきっかけをくれました。千璃の存在によって、勇気づけられた人たちもいます。千璃とは言葉でコミュニケーションを取ることはできませんが、会うたびに私は“生まれてきてくれてありがとう。生きていてくれてありがとう”と言葉にして伝えています」

 この先も、母と娘は歩み続ける。暗いトンネルをくぐることも、光が差すこともあるだろう。まだ誰も歩んだことのない道の先を見据えている。