闇と黄金の道筋【HOME塾物語002 2017神奈川県公立高校入試問題を添えて】
第一話はこちら。
「さぁ、それでは答え合わせをしようか」
日比野大和先生はいつもの明るい調子で言った。生徒たちは揃って「えー」と声を上げた。
「えー、じゃない。皆さん、何しに来たんだっけ?」
そう言った教室長の僕、木村聖人の方を全員が揃って睨みつける。今日は受験生たちの自己採点イベント日。もう既に自分で自己採点をした生徒もいるが、折角だから高校生への準備も含めて、みんなで採点がてら復習をしようという趣旨だ。
すかさず雛雪さんが生徒全員へ印刷された入試問題の答えを配る。神奈川県の2017年度入試はマークシートの導入で、少し簡単になったと言われている。それでも、数学の難問に苦戦した生徒も多い。今日はその解説がメインだ。
大和先生は一問目からスムーズな解説を続ける。さすが元社長。頭もいいし、喋りもスムーズだ。この塾の元講師だったと言うが、いまだに信じられない。
説明の落ち着いたタイミングで僕がみんなに向けて言う。
「問2の(エ)、比合わせの術は大丈夫かな?平面図形は高校でも出てくるからね。あとで復習プリントを配りまーす」
「えー」と一同。嫌な役は教室長の僕の役目だ。うん、そう信じてやっている。
「次は問4の(ウ)、関数の難問だね。これは解けた人が居るかな」
30人の生徒の内、ポツリポツリと手が挙がる。そのうちの一人、人気の進学校を受験した優子さんにやり方を書いてもらうと、自然に拍手が巻き起こった。説明も立派だ。偉い。
「でも、配られた方法とやり方が違うんですけど大丈夫ですか?」優子さんが不安そうに言う。
大和先生が笑顔で切り返す。
「参ったなぁ。僕の解法よりもいい出来で、立場がないよ」
生徒たちが笑う。優子さんもほっとしたようだ。
教室長の僕が、ここで用意してきたとっておきの文言を放つ。
「数学はこんな風に答えまでの道筋が一つじゃないことが、素敵なところだね。正解はいつも、一つじゃない。さぁ、次の問題だ」
ちょっとワイワイガヤガヤしていて紛れてしまったけれど。
「これは確率の問題だね。サイコロ二つの問題は表を書いて…そう、数えたもの勝ちだ」
大和先生が表を書きながら説明をする。
「えー、面倒臭い」と生徒の一人が言ったのを、大和先生は見逃さなかった。
「そう、面倒臭いんだよ。でも、面倒臭いことを避けたら、この問題は出来ない。数学も、日常も、面倒臭いことが本当は大切だったりするんだよね」
その後も解説は続き、大和先生のわかりやすい説明と、雛雪さんの様々な配慮で、イベントは大成功だった。例によって、僕の高校生活のすゝめの話は時間が足りなくてカットだったけれど。
そして、この時はまだ知る由もなかった。そう、いつだって未来には何が起こるかわからないから、僕らは出来る限りの準備をしなくちゃならない。でも、それが及ばない時も、確かにある。これから起こった事件で、僕らは改めてそんなことを知ることになるんだ。
それは、一本の電話から始まった。
希望の春が過ぎて、あの時イベントに参加した受験生たちも散り散りに高校生活を始めた頃、高校生になっても塾に継続して通ってくれていた優子さんのお母さんから電話が入った。
「あの、今日は体調がすぐれないみたいなのでお休みさせて下さい」
最初は、そんな当たり障りのない電話だった。もちろん、体調不良は心配だったけれど、環境の変化からくる風邪とかかな、と少し安易に考えていた。
でも、翌週も、そのまた翌週も、優子さんは来なかった。
お母さんは「体調不良」と言うばかりで、さすがに不安になった僕は、「優子さん、塾に行きたくないとか言ってます?」とやんわりした感じで聞いた。お母さんは少しの沈黙の後、「…実は学校に行けてないんです」と暗い声で言った。
現代の高校生は、大変だ。入学前からSNSなどでつながりを持ち、グループができる。初めて会う日でも、顔と名前がわかっていて、すぐに馴染む。でも逆に、そこでうまく輪に入れなかった生徒は不安を抱える。ネットでのつながりも、彼らにとってリアルであり、大切なつながりなのだ。
「そんなの気にしなくていいよ」と大人は言うけれど、子どもたちにとって、それは深刻な悩みだったりするのかもしれない。特に、真面目な優子さんにとっては。
この時はまだ、時が解決するだろう、と僕もお母様も、少し楽観視していた。時間が立てば、SNSで乗り遅れた生徒も、だんだんと溶け込んでグループに馴染むんじゃないかと。でも、もっと早く気付くべきだった。優子さんが学校に行けていないという事実の裏に隠された、悪意に。
「いじめ?」
僕が素っ頓狂な声を出したから、早智は慌てて指を立てて静かにというポーズをした。早智は先日のイベントにも参加していた新高校一年生で、優子さんの幼馴染でもある。
「ごめん、ごめん。え、でも、いじめってどういう」
あたふたしている僕の言葉を遮って、早智が続ける。
「昨日、優子の高校のなんか良くない噂を聞いたんだよね。なんかSNSでいじめみたいなのが流行ってるらしいって」
「え、そ、それってどういう?」という僕の言葉はまたスルーされた。
「グループLINEで仲間外れにしたり、あることないこと書いたり、勝手にドッキリ仕掛けて裏で笑ったりさ。話聞いただけで腹たってくる感じ。陰湿なんだよね。もしかしたら優子、それに巻き込まれたのかもしれない」
SNS自体にもうとい僕には最初はそれが何かよくわからなかったが、授業の後に大和先生や雛雪さんに詳しく説明してもらってようやく、その悪意の正体が掴めてきた。そして、早智と同様、とっても腹が立ってきた。
早智には、優子さんと話してくれないかとお願いをした。これは僕だけのお願いではなくて、お母様からのお願いでもある。子どもが元気がないと、やっぱり一番こたえるのは親だ。
そして、その夜、塾に電話がかかってきた。
「し、室長ですか?」
丁寧な、透き通った、優しい声。一瞬でわかった。優子さんだ。
「優子さん?」
「うん」
僕はなるたけ優しい声で言葉を続けた。
「こんな夜分にどうしたの?体調は大丈夫?」
「早智が、教室長が心配してたよ、って言ってたから。体調はもうすぐ大丈夫になると思う。一応、その報告だけ」
「そうか、ありがとう。その、色々、無理はしないようにね」
そう言うのが精一杯だった。色々言いたいことはあったのだけれど、いざというこの時、何にも出てこない。なんて言ってあげればいいのか、何ができるのか、僕にはわからない。少しの沈黙。優子さんは何を求めて電話をかけてきたんだろう。どんな言葉をかけたら、少しでも楽になるんだろう。
「えっと、それだけでした。夜分にすみません」
電話を切ろうとした優子さんに咄嗟に言う。「え、あ、ちょっと待って」
向こうで手が止まった気配。
「あの、あのさ。今更改まって言うほどのことでもないんだけど…塾は、僕らは、いつも優子さんの味方だから。それだけは、忘れないでいてね。なんかあったらすぐ電話かけておいで」
少しの沈黙の後、「うん、ありがとうございます」と優子さんは言った。笑っているのか、泣いているのか、そのどちらでもないのか、よくわからなかった。
そして、電話は切れた。
「教室長失格だ…」
いつもの屋上。うなだれる僕の話を、大和先生は静かに聞いてくれていた。
僕は、教室長として、優子さんに何にもしてあげられなかった。もしかしたらSOSだったかもしれない、もしかしたら掛けてほしい言葉があったのかもしれない。でも、僕は何もできなかった。
「ねぇねぇ、聞いてるばかりじゃなくて、何か言ってくれない?大和先生」
そして、今、酔っ払って講師にからんでいる。
「うーん、僕は、何かしてほしかったわけじゃないと思いますよ」
久々に大和先生が口を開いた。「え?それってどういうこと?」僕は目を丸くさせた。
「beの理論ってご存知ですよね?」
beの理論とは、存在承認のこと。「あなたはここにいるだけでいいよ」というメッセージを伝えることで、子どもたちは活き活きと毎日を過ごすことができる。生まれてきてくれた時はこの存在承認が容易だが、時間が立つと「ハイハイが出来たね」(do行動承認)や「テストで100点取れたね」(have結果承認)が目立ち、存在承認をすることが難しくなる。でも、人は本来「ここにいるだけでいい」存在だという理論。
「そして、それは僕ら大人だって同じでしょう」
大和先生が笑って言った。
「優子さんはもちろん、僕や、木村塾長だって、ここにいるだけでいい存在なはずです」
…ここにいるだけでいい存在。
「それって、ただ電話しただけで教室長の役目は果たせたってこと?」
「さぁ?」大和先生はまた笑った。
「正解は一つじゃない。それが、数学と人生のいいところでしょう?」
翌日、僕は優子さんの家にもう一度電話をした。お母さんが出て、「優子、今日は学校行ったんです」と少し複雑そうに言った。お母さんも、何かに気付いているのかもしれない。
僕は思い切って、少し時間があるかどうかを訪ねた後、お母さんにもbeの理論の話をしてみた。
「やっぱり学校って行かなきゃならないものでしょうか」
その話の中で、お母さんからふとそんな言葉が出た。僕は「塾の先生という立場は一回置いておいて個人の考えで申しますが…」と前置きをして、話し始めた。
「僕はもう限界だ、と思ったら、行かなくてもいいと思っています。道筋は一つではなくて、僕らには、優子さんには、選択肢がある。実際、高校卒業の資格は、きちんと勉強をしていれば取れますし、学校へ行かないという選択肢を選んで、幸せになっている生徒もたくさん見てきました。何がベストの道なのかは私にはわかりません。でも、わかっていることもあります。優子さんやお母さんにとってベストなのは、優子さんがなるべく元気で楽しく笑って毎日を過ごすことだと私は思います」
そこまで言って、何かを少し言い過ぎたかなとも思ったが、見ないふりをした。言い切って、お母さんの反応を待った。
「ありがとうございます。優子とちゃんと話してみようと思います。私たちのベストのために、どんな道を選ぶのか」
少しだけ、声が震えていた。
そして、次の日の夜、優子さんから再び電話があった。
「室長?報告なんですけど」
ぴん、と背筋を伸ばして次の言葉を待った。
「私ね、頑張ってみる。高校、ちゃんと卒業するよ。負けない」
それは僕の想像を遥かに越えた、力強い言葉だった。
「お母さんがね、好きにしていいよって。高校に行かなくても色んな道があるって室長が教えてくれたんでしょ?私はどんな道をあなたが選んだとしても、あなたの選択を大切にしますって。それを聞いたらさ、ものすごく楽になった。何があっても、私は大丈夫って思えた。世界が、ばーっと広がったよ」
僕は聞いてるばかりだったけど、目からは涙がこぼれた。
「ねぇ、室長。これからの私に、何かアドバイス、ある?」
突然の優子さんの問いかけに、僕は慌ててしまった。そして、ふと、あのイベントを思い出した。
「ねぇ、優子さん。イベントの日にやった、確率の問題覚えてる?」
優子さんは一瞬「?」となったけど、すぐに思い出したらしい。
「面倒臭いことが大切なこと?」さすが。
「そう。数学と同じで、人生には何本も道があって、それが正解かどうかは誰にもわからない。でも、正解にしやすくする方法はある」
少し大和先生を意識して、力強く言い切ってみせた。
「面倒臭いことを、ちゃんとやること。それが、素晴らしい道への近道だよ」
あくる日。
優子さんは久し振りに塾へ来た。早智も一緒だった。
「じゃあ優子さんこっちへどうぞ。今日の担当は私です」と大和先生が優子さんを誘導した。
早智がこちらに寄ってきてニヒヒと笑いながら、つぶやいた。
「いい仕事したじゃん」
「うるさい」
そうは言ったけど、嬉しかった。もちろん、自分がいい仕事が出来たことなんかじゃなくて、優子さんや早智の、笑顔がまたちゃんと見れたこと。やっぱり、このお仕事の一番のご褒美はこれだ。
暗い場所もある。明るく輝く場所もある。でも、大事なのは、そのどちらに居たとしても、そこに居るだけで君は素晴らしいということ。成功も失敗も、あなたがするならどちらも素晴らしい。だから、そのどっちも大切にできる教室長でいよう。いつもなるべく近くで、失敗だったら糧に、成功だったら自信に、子どもたちのその「面倒臭い」を応援する大人でいよう。そんな風に、僕は思った。
「室長、このファイリング今日までですよ。面倒臭いからって後回しは禁物です」
あ、雛雪さん、ごめんなさい。まずは僕から、面倒臭いを大切にしよう。
つづく
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