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一号館一○一教室

アク・ロウヒミエス監督『アンノウン・ソルジャー』

2021.08.27 01:16

人間の尊厳と
歴史の巨大な歯車と


315時限目◎映画



堀間ロクなな


 「いまからオレたちはよその支配地に入る。盗賊になるってわけさ。だがな、この境界線を超えるのは自分たちの国を守るためなのだ」



 この発言は、現在、アフガニスタン全土を掌握しつつあるタリバン幹部の口から出たものではない。アク・ロウヒミエス監督『アンノウン・ソルジャー』(2017年)の序盤に現れるセリフだ。わたしがこのフィンランド映画と出会ったのは、2019年6月に東京・京橋の国立映画アーカイブで開催された「EUフィルムデーズ」でのことだった。それから2年のちに、およそ状況が異なるとはいえ、このセリフが示すような事態が現実の世界の一角で再現されようとは想像もしていなかった。



 フィンランドとソ連とのあいだで戦われた「冬戦争」が1940年3月に終結し、フィンランドは独立を勝ち取ったものの、東部のカレリア地方など国土の10%をソ連に奪われる結果となった。これにより、第二次世界大戦下でソ連への侵攻をうかがうナチス・ドイツとタッグを組んで国土回復を実現しようと、1941年6月から3年6か月にわたって行われた「継続戦争」の諸相を映画は丹念に描いていく。スクリーンいっぱいに針葉樹林と透明な湖水が広がる風土を背景として、みずからの農場と家族を守るために立ち上がったロッカ伍長(エーロ・アホ)を中心に、機関銃中隊の面々が激しい戦闘を重ねながら、ようやくいまはソ連領となったカレリア地方へ踏み込むときに口にされるのが冒頭のセリフだ。



 やがて、フィンランド兵たちの果敢なゲリラ戦法はソ連の正規軍を押しやり、カレリア地方の首都ペトロザヴォーツクの奪還に成功する。かれらに向かって、町に残ったソ連人の女教師は「あなたがた占領軍のボスはヒットラーなのよ!」と詰め寄り、若い兵士が「オレたちは悪人なのか?」と問いかけると、彼女はおもむろにスターリンの演説のレコードをかけてみせる。これまで祖国を取り戻すための大義になんの疑いも抱かなかったのが、戦争の大義なんぞ双方の立場によってまったく異なり、おたがいに相容れることはないというごく当たり前のパラドックスに気づく。たんに当事者が都合よくデッチ上げた口実でしかない。そんな戦争の鉄面皮な顔つきが垣間見えるシーンだろう。



 いまのアフガニスタンをめぐっても、タリバンの大義、アメリカの大義、ヨーロッパ各国の大義、あるいは中国やロシアの大義など、そこになんらかの利害関係を有する者の大義はそれぞれ異なり、どうしたって調和しようのないものをぶつけあっているのが実情に違いない。そうした戦争の力学のなかで、では、現地の邦人などの救出のために自衛隊機を派遣した日本の大義は奈辺にあるのだろうか?



 フィンランド兵たちは勝利の美酒に酔ったのも束の間、第二次世界大戦の戦局がナチス・ドイツを劣勢に追い込んでいくのにつれ、北方の戦線でもソ連軍が凄まじい反撃に転じてたちまち退却を余儀なくされ、おびただしい血が流れ多数の犠牲者を出したあげくに、1944年9月休戦協定が結ばれる。映画は、かれらの「われわれはすべてを失った」と無惨に打ち砕かれた姿を描く一方で、ラストシーンではシベリウス作曲の交響詩『フィンランディア』を厳かに鳴り響かせながら、こう結ばれる。この戦いによって、第二次世界大戦でドイツとともに敗北した枢軸国側のうち、フィンランドだけは戦後に他国の占領を免れることができた、と――。



 おそらく、人類が編み出した戦争という愚行にあって、ひとりひとりの人間の尊厳などは歴史の巨大な歯車を前にしてあまりにもささやかだろう。そうした見方に立つなら、20世紀に繰り広げられた世界大戦とは、まさしくヒットラーとスターリンに象徴されるとおり、しょせんキリスト教世界におけるヘゲモニーの争奪戦以外のなにものでもなかった。



 そして、覇権国アメリカでの同時多発テロによって幕を開けた21世紀の戦争は、今世紀の半ばにキリスト教圏の人口とイスラム教圏の人口が拮抗し、世紀末には後者が上回って、人類の信仰のマジョリティをイスラム教が占めるという分水嶺のもとで突き進んでいる。現在のアフガニスタンをめぐる情勢も、そうした歴史の巨大な歯車に逆らうことはできず、むしろそこでひとりひとりが打ち砕かれながらも人間の尊厳を見出していくことの意義を、この『アンノウン・ソルジャー』は痛烈に訴えかけているのだと思う。