恋になるまであと三週間
多くの学生達で賑わう大学所轄のカレッジは活気付いていて希望に満ち溢れている。
学んだことを未来への糧とするため日々を生きる若者の姿はとても眩しくて、とても正しくて、とても美しかった。
「…美しいな」
思わずそう漏れ出てしまった声を拾う者は誰もいなかった。
ロンドンどころか世界でも名門たるこの大学ではどの学生もどの教員も、もれなく全員が生き生きと輝いて見える。
それがウィリアムにはとても眩しくて、ゆえに己の後ろ暗さが際立つように思えてしまった。
前世というものを信じるかと問われれば、ウィリアムは誰に構うことなく是を選ぶ。
そうでなければ鮮明に焼きついた記憶の説明がつかないからだ。
平穏で恵まれた17年を生きてきたウィリアムなのに、残る記憶にはそれ以上に長い忌まわしくも凄惨なものが紛れていた。
フィクションの世界に出てきそうな19世紀末ロンドンの街並みは今でも鮮明に覚えており、そこで何を考え何を得て何を抱いて行動したのかすらも澱むことなく語り尽くせる自信がある。
忌まわしくも凄惨な、けれど何よりも尊いあの頃の記憶。
死をもってして犯した罪を償うなど、自分に酔っているにも程があった。
何をしようと償い切れるものではないというのに、かつてのウィリアムはそこから目を背けて逃げ出したのだ。
死ねば良いのだと簡単に考えてしまった。
己が死ねば己が守りたかった人達を守れるのだと、盲目にもそう信じてしまっていた。
そんな妄執からかろうじて目を醒ましたは良いけれど、血で穢れてしまったその身が幸せな死を迎えられるはずもなく、大切な人達と束の間の時間を共有しただけで結局離れてしまったように思う。
聡明な頭脳が思い出すことを拒否しているのか、前世たる己の最期をウィリアムはよく覚えていない。
ただ、最愛の人がそばにいなかったことだけはよく覚えていた。
「そこのお兄さん、どのカレッジ所属?良かったら一緒にランチでもどう?」
「お誘いありがとうございます。ですが今日は遠慮しますね、用事があるもので」
「そう?残念」
未だ学生ではないウィリアムにも気楽に声をかけてくる彼に断りの返事をして、明るく活気付いたこの大学をより好ましく思った。
己を高めつつより専門的な分野を学ぶことが出来るここへの進学を決めたのは成り行きだ。
前世同様に優れた頭脳を持ち合わせていたから、それに相応しい大学を勧められた結果がここに行き着いただけでしかない。
かつては飛び級制度を駆使して生き急ぐかのように学生を終えて教授にまでなったというのに、今では何に焦ることもなくのんびりと人生を謳歌しているように思う。
けれど今のウィリアムは知識を貪ること以上に優先したいことがあった。
たった一人、大事な弟。
そして魂を分かち合った大切な兄。
かつて三人で犯罪卿を名乗り共に生きてきた彼らと、どうしても会いたい。
彼らと会って、今度こそ日の当たる場所で堂々と胸を張って生きていきたいのだ。
バラバラになってしまったあの頃を覆い隠すように、今度こそ彼らと幸せになりたい。
そのためだけに生きているウィリアムにとって、もはや勉学など取るに足らない事象なのだ。
疎かにするつもりはないけれど、最優先にするほどのことでもなかった。
「…どこにいるんだろうね、二人とも」
これだけ多くの人が溢れていて、今までにも多くの人と出会ってきたはずなのに、どこにも二人の影は感じられなかった。
兄はともかく、弟とだけはまた兄弟として存在すると無意識に信じていただけに、記憶を取り戻してからの自分に兄弟がいないという事実には酷くショックを受けたことを、十数年経った今でもよく覚えている。
あの子だけは何があろうと自分のそばにいてくれるはずだと、そんな傲慢な気持ちを抱いていたウィリアムに神は気付いていたのだろうか。
だから引き離したとでもいうのだろうか。
それが前世で犯した己への罰だというのならば、ウィリアムは実に合理的だと納得する他ない。
あの子のために道を踏み外した自分からあの子を奪うのは、正しく理に適っているのだから。
だが、それでも今のこの平和な世界で絶対に再会を確信しているのだからウィリアムの精神も相当に強かった。
弟に向ける執念が前世以上に凄まじい。
絶対に彼らは同じ時代に生まれ落ちていて、絶対に再会が叶うという確信だけを胸にウィリアムは今を生きている。
「はい、確かに確認しました。郵送でも良かったのに、わざわざ持ってきていただいてすみませんね」
「見学も兼ねていましたので。それではよろしくお願いします」
カレッジ所属申込書を受付に手渡し、ウィリアムは事務棟を出る。
秋からこの大学に通う予定だが通学するには自宅は遠すぎるし、ここに通う学生はカレッジというコミュニティに所属することを余儀なくされる。
どうせ時間もあるのだから遠く離れたこの土地であの子を探すのも良いだろうと、今日のウィリアムはわざわざ時間をかけてこの大学へとやってきたのだ。
世界有数の名門なのだからかつての兄が通っていてもおかしくはないはずだが、案内資料に載っていた成績上位者による大学紹介に彼の名前はなかった。
あの人が誰かに遅れを取るとは思えないから、少なくとも一つ上の学年に彼はいないのだろう。
だが自分の目で見なければ納得出来ないと、ウィリアムはカレッジの中を散策することにした。
そうして真っ直ぐに足を運んだのは図書館だった。
たくさんの本があるところに自然と足が進んでしまうのは前世からの習性なのだろうか。
ウィリアムは興味深そうに棚を見つめ、近くにいる学生達の気配に意識を集中させた。
見かけるふわふわした金色にあの子の面影を探してしまう自分に思わず苦笑しながら、ウィリアムは図書館特有の匂いを嗅いで安心する。
目の前を過ぎる学生をぼんやり見てから本へと視線を向けてみると、どこからか焦がれていた声が聞こえてきたような気がした。
「兄様、この資料はどうでしょう?」
「見せてくれるかい?…ふむ、良さそうだ。借りて行こうか」
「分かりました」
聞こえてきた二人分の声に、ウィリアムの体に流れる全身の血が沸き立つように脈打った。
心臓がうるさいくらいに鳴っていていっそ苦しいのだけれど、今はそれどころではない。
本心を見せないよう抑えた声はとろりと甘い蜜のようで、色香を感じさせる低い声はあらゆる人の心を魅了出来るようだ。
ウィリアムはこの二つの声の持ち主が誰かを知っている。
もうずっとずっと探していた、己の兄弟だと確信している。
「ルイスっ、アルバート兄さんっ」
「なっ…え、な、…!」
「…っ」
視界から外れた場所にいたウィリアムが突然目の前に来たこと、彼ら二人には驚きだったらしい。
図書館に相応しくない大声を出したウィリアムのことを、かつての弟と兄は驚愕の瞳で見つめていた。
「ルイス…兄さん…!」
記憶の中にいるときと変わらない、大きな赤い瞳を見開いているルイスと、甘く垂れた瞳に微かな歓喜を覗かせているアルバート。
会いたかった二人だと、この二人で間違いないと、ウィリアムの本能がそう叫んでいる。
そしてそのまま一冊の本を手にしているルイスの肩を抱き寄せ、己の腕の中に抱きしめた。
「会いたかった…!ルイス、ルイス…!」
「あ、の…」
それこそ数百年ぶりに抱きしめたその体はやっぱり細くて、けれど記憶よりも温かかった。
ふわりと頬を撫でる金髪が擽ったいけれどもっと堪能しようと頬を擦り寄せ、戸惑う声を近くで聞いては己の心が膨らんでいくのを実感する。
今までずっと会いたくて、抱きしめたくて、守りたかった人がようやく今この腕の中にいるのだ。
やっと会えた、会いたかったと、ウィリアムは愛しい弟の名前を何度も呼んで力の限り抱きしめる。
けれどルイスの腕がウィリアムの背に回ることはなかった。
「…ウィリアム…久しぶり、だね」
「お久しぶり、です…アルバート兄さん」
「あぁ、本当に…元気そうで良かった…!」
いきなり抱きしめられて動揺したのか、言葉が出せないルイスに代わってアルバートが泣きそうに歪んだ表情でウィリアムを見る。
肩に触れた手が震えていて、彼も自分に会いたいと思ってくれていたことが伝わってきた。
視界が歪んでアルバートの顔が思うように認識出来ない。
そこでウィリアムもようやく自分が泣きそうになっていることが分かり、もう泣いてしまおうかと瞳を閉じて抱いていたルイスの肩に顔を埋めた瞬間。
「ど、どなた様ですか…!?アルバート兄様の弟は僕しかいないはずですが…!」
ルイスから困惑したように声が聞こえてきて、その言葉の内容に思わず顔を上げてしまった。
強く抱きしめていた体を離してその顔を覗いてみると、細く形の良い眉を寄せて唇を噛み締めている。
頬が赤いのは抱きしめられた羞恥心だろうか。
いやこれはそんな色事めいたことが原因ではなく、もっと幼い独占欲が原因なのだろう。
「兄様の弟は僕です!あなたはどなたですか!?」
「ルイス、ここは図書館だよ。声を抑えようか」
「ですが…!」
懸命に自分を威嚇しているつもりなのだろう、大きな瞳は釣り上がってウィリアムを睨みつけていた。
けれど悲しいかな、あまり迫力はない。
かつての弟が他人に向ける殺気はこんなものではなかった。
無意識にウィリアムを許しているのか、それとも平和な社会で爪を伸ばすこともなくなった猫になってしまったのだろうか。
そんなことを考えていたウィリアムの目に浮かんでいた涙は、一筋垂れたかと思えばそのまま続くことなく乾いてしまった。
「…ルイス?」
「どうして僕の名前をご存知なのですか?」
「あぁ、それは…いや…兄さん、もしかして」
「ご推察の通り、何も覚えてはいないよ」
「…そう、ですか」
「何のことですか、アルバート兄様」
「何でもないよ、ルイス」
アルバートにそう言いくるめられたルイスは不満そうに頬を膨らませるが、子どもじみていると気付いたのかすぐに表情を直してウィリアムを見る。
さらりと流れる金髪に見る者を惹きつける色鮮やかな緋色の瞳。
綺麗な人だと思わず見惚れていると、とくりと心臓が傾いて動くような心地がした。
「話したいこともあるし、ここを出よう。ルイス、その本はまた今度借りに来るから戻しておいで」
「え、ですが…」
「良いから。早く行こう」
「…分かりました」
アルバートの提案で三人は図書館を出て、すぐ近くに置いてあるテラス席へと場所を移す。
その間もウィリアムはルイスの腕を掴んだままで、振り解こうとルイスが腕を動かしても離すことはなかった。
不満げにウィリアムを見れば彼は寂しそうに微笑んでいて、思わずアルバートを見れば同じような表情でルイスを見ている。
本気を出せば振り解くことなど容易いはずなのに、ルイスは温かいウィリアムの腕に逆らうことが出来なかった。
「ルイス、彼はウィリアムといって、私が最も信頼を置いている人間だ。古くからの知り合い…それこそ弟と言って良い。そう警戒しなくても大丈夫だよ」
「初めまして、ルイス。君のことはアルバートさんから聞いていて知っていたんだ。ずっと会いたいと思っていたからつい抱きしめてしまった。驚かせてしまってごめんね」
「…いえ、兄様がそう仰るなら信頼に足りるお方なのでしょう。失礼な口を利いてしまいすみませんでした」
「僕が悪かったんだ、謝らなくて良い」
アルバートが先陣を切って会話を始めれば、主にルイスだけがぎこちない様子でウィリアムに話しかけた。
いきなり抱きしめられて驚いたけれど、嫌ではなかった。
アルバートのことを兄さんと呼ぶのは嫌だったけれど、アルバートが彼のことを認めているのならルイスが彼を拒否出来るはずもない。
ルイスは何故か寂しそうに自分を見つめてくるウィリアムの緋色から目が離せなかった。
「…ルイス、ウィリアムとは久々に再会してね。積もる話もあるから、二人だけで話がしたいんだ」
「……では、僕との予定はキャンセルですか?」
「すまない。今度必ず埋め合わせをするから」
「ごめんね、今日だけアルバートさんを貸してもらえるかな」
「分かりました…」
会話して早々にルイスは邪魔なのだと言われたようなもので、せっかく一日アルバートと過ごせるはずだったのに、という気持ちでルイスは落胆する。
下がった眉に申し訳なさが募るけれどここは心を鬼にしなければと、アルバートとウィリアムは可愛い弟の姿に絆されまいと気を引き締めた。
「では、僕は先に帰りますね」
「いや、それは駄目だ」
「一人で帰るなんて危険な真似はさせられない」
しょんぼりとルイスが椅子から立ち上がって立ち去ろうとするが、両手をそれぞれに掴まれては真剣な表情で引き止められた。
「え?ですが、お二人は二人だけで話がしたいんでしょう?」
「あぁ。だがルイスを一人で家に帰すわけにもいかない。ウィリアム、ルイスを自宅に送り届けてからの話で構わないな?」
「もちろんです、アルバートさん」
「ここに来たのは今日が初めてですが、道は覚えているので迷ったりはしませんよ」
「「そういう問題じゃないんだ、ルイス」」
久しぶりに再会したというわりには驚くほどに息が合っている。
ルイスが思わず目を見開いていると左右にアルバートとウィリアムがやってきて、そのまま二人に腕を引かれて歩き出してしまう。
子どもでもないのに手を引かれて歩くなど恥ずかしいはずなのに、何故だか無性に泣きたくなるくらいに嬉しかった。
ずっと昔からこうしたかったような気がして、ルイスの心はまたもとくりと動き出す。
「良いかい、ルイス。世の中には危険ばかりだと散々教えただろう。無闇に一人で出歩くものではないよ。今日は護衛も連れていないのだから余計に危険だ」
「普段は護衛がいるのですね、それは良かった。アルバートさんのいない場所でルイスの安全がどう保障されているのか気になっていたものですから」
「今は煩雑なことが多く、昔よりも共に過ごせる時間が少ないからな。安全には細心の注意を払っている」
「さすがアルバートさんですね。あなたがルイスの兄で本当に良かった」
「ウィリアムにそう言ってもらえると心強いな」
「…………」
アルバートは昔からルイスに過保護で、絶対に一人で出歩かないようひたすらに言い聞かされてきた。
家が裕福であることも相まって誘拐の危険は幼少の頃から存在したし、両親もそれを懸念してアルバートとルイスの二人にそれぞれ護衛を付けている。
今日は一日アルバートと過ごすからその護衛を外しているのだが、ゆえにルイスは一人だと屋敷の庭すら出歩いたことがない。
裕福な家ではそれが普通ではあるから気にしていなかったけれど、同級の何人かには怪訝な顔で見られるから特殊な事情なのだとルイスは知っていた。
ウィリアムも気にしていないのなら彼も裕福な家の出身なのだろう。
まるで兄が二人に増えたようだと、アルバートのような彼を見てルイスは何となく心が暖かくなった。
「ここがお二人のご自宅ですか」
「あぁ。ルイス、私と彼はしばらく出てくるから、誰が家に来ても決して鍵を開けてはいけないよ」
「兄様、いつまで僕を子ども扱いなさるんですか」
「ふふ、すまないな。どうしても心配なものだから」
「もう…それと、ここから近くのお店までは距離があります。タクシーは帰してしまいましたし、ここでお話されてはいかがですか?」
「……」
「僕は自室にこもっているので、お二人の会話を盗み聞きしたりしません」
「そんな心配はしていないが…それもそうだな。ウィリアム、我が家でお茶でもどうだい?」
「アルバートさんが良いのであれば」
「では決まりだ。ルイス、お茶の用意を頼めるかい?」
「分かりました」
辿り着いた屋敷は豪邸と呼ぶに相応しい邸宅で、掲げられた「MORIARTY」の表札がウィリアムにはとても懐かしかった。
玄関先にルイスを送り届けそのまま出るつもりだったのだが、思いがけず彼らの居住地に入ることを許されたウィリアムは浮き足立つ心地だ。
ルイスが何も覚えていないことに驚いたのは確かだが、あのような忌まわしい記憶が彼に残っていなくて良かったとも思う。
アルバートだけでも覚えていてくれて、自分のことを忘れないでいてくれたことが嬉しかった。
「お待たせしました、お二人とも。ホワイトダージリンとアップルパイを用意しました。どうぞお召し上がりください」
「ありがとう、ルイス」
「ありがとう」
両親はアルバートの大学入学を機に海外を仕事の拠点にしているようで、広い屋敷の中には誰もいなかった。
この屋敷の周辺にある建物全てがモリアーティ家の使用人及び関係者が住まう居住地であり、彼らはこの屋敷を保つため時間を決めて通いで訪れているという。
重要である護衛の人間はそもそも居住地内に不信人物を侵入させないよう尽力しているようで、記憶を取り戻して一番最初に苦労したのは常に見張られているような感覚を徹底的に無視することだったらしい。
ゆえにアルバートとルイスは基本的にこの屋敷で二人きりの生活をしていると、ルイスが紅茶の用意をしてくれるまでの間にアルバートがウィリアムに教えてくれた。
「…美味しい。ありがとう、ルイス。こんなに美味しい紅茶、生まれて初めて飲んだよ」
「それは…ありがとうございます」
「まるで長く出ていた家にようやく帰ってきた気分だ。とてもホッとする」
「はぁ…」
「ルイス、ありがとう」
淹れたての紅茶をゆっくり味わうアルバートと、そしてウィリアムの姿を見る。
初めて会ったはずなのに随分と懐かしい、温かい人だと思う。
何となく心が落ち着かなくてアルバートを見ると、彼もルイスの淹れた紅茶を美味しいと言って飲んでくれていた。
その言葉がとても嬉しくて、はにかむように笑みを見せてからルイスは約束通りにリビングを退室して自室へと向かっていった。
「兄さん、いくつかお聞きしたいことがあるのですが」
「私もお前に聞きたいことがいくつもあるよ、ウィリアム」
足音が遠くなったことを確認し、ウィリアムとアルバートは真剣な眼差しで互いを見る。
その顔は記憶の中と相違なく、聞こえてくる声もその雰囲気も全てがかつての彼そのままで、やっぱりこの人こそ自分の兄弟なのだと実感してしまった。
「…お元気そうで何よりです、アルバート兄さん」
「…お前こそ。まさか私と同じく記憶があるとは、思ってもいなかった」
「ずっと探していました…お会いしたかったです、兄さん」
「私こそ会えて良かった、ウィリアム」
図書館で浮かんだ涙と同じく視界が歪み、ウィリアムはアルバートの手を取って最も敬愛する彼との再会を喜ぶ。
アルバートも同じくその手を握りしめ、かつて道を踏み外させてしまった愛しい弟の存在を喜んだ。
自分が巻き込んだ、などという思い違いは前世で十分に和解しあった。
決して償いきれない罪だったけれど、かつての自分達は懸命に己の罪と向き合い生きては死んでいったのだから、もう赦されても良いはずだ。
今世ではただひたすらに穏やかな日々を過ごしていきたかった。
「会えて良かった、会えて嬉しいです…アルバート兄さん…!」
「ウィリアム…!」
少しの会話だけで、ウィリアムもアルバートも相手が以前のことをどこまで記憶しているのか分かってしまった。
おそらく自分と同じくらいに全てのことを覚えていて、常に後ろ暗い気持ちを抱えたまま生きてきたのだろう。
だがウィリアムとアルバートの間には決定的な差がある。
ウィリアムはたった一人きりで、アルバートにはかつての末弟であるルイスが本当の弟として近くに存在していたことだ。
「ウィリアム、近くには誰かいないのかい?」
「誰もいません。…兄さんとルイスは、本当の兄弟なのでしょうか?」
「…あぁ。私が今年成人して、ルイスは今年で16になる」
「16…僕の一つ下ですか。年齢差は以前と変わりないのですね」
「そのようだな」
「ルイスは本当に何も覚えていないのですか?」
「何度か探りを入れたが、あの子は何も覚えてはいないよ。ただひたすらに無垢で純粋な弟でしかない」
「そうですか…」
アルバートのそばにルイスがいて良かったと思う。
ルイスが一人にならずにいてくれて本当に嬉しいし、その相手がアルバートならば願ってもないことだ。
彼はウィリアムにとって何よりも信頼における大切な人で、ルイスを任せるに値する唯一の存在なのだから。
けれど彼ら兄弟の間に自分だけがいないことは、どうにも苦しいほどの焦燥感を覚えてしまった。
彼らが本当の兄弟になってくれて嬉しいのに自分だけがその中に入れなかった事実は、まるで前世からの天罰のようだ。
ウィリアムだってアルバートの弟として生まれ落ちたかったし、再びルイスの兄として生きていきたかった。
だが再会した今となってはそんな天の采配など些細なことである。
ウィリアムは一瞬だけ暗くした瞳を爛々と輝かせ、もう一度アルバートの顔を見た。
「ルイスが何も覚えていないのなら好都合ですね。あの子にあのような血生臭い記憶は似合わない」
「私も同感だ。私こそ忘れたいと何度も願ったが、これは私が背負うべき記憶なのだからと満足している。…せめてウィリアム、お前にも何も残っていなければ良かったのに」
「何を言うんですか、アルバート兄さん。あの計画は二人で始めたもの、こうして僕達二人だけが業として背負うのは当然です。…巻き込んだルイスが何も覚えていなくて本当に良かった」
「…巻き込んだ、などと言えばかつてのあの子はきっと憤慨するだろうね」
「ふふ、確かに」
でも良いんです、何も覚えていないんですからそれこそ僕達が正しいという証明ですよ。
そんなことを言ったウィリアムに呆れながら、アルバートも同感だとばかりに声を出して笑った。
かつてのルイスがこの様子を知ったのならば、言葉以上にまたも憤慨するのだろう。
そうしてウィリアムはルイスが淹れた紅茶で喉を潤し、同時に心も潤していく。
「またルイスの淹れた紅茶が飲めると信じていましたが、いざその日が来ると胸がいっぱいで…何も言えないものですね」
「何を言う。私の大事な弟を、以前と変わらず上手に口説いていたじゃないか」
「おやそうでしたか?それは無意識でしたね」
「それはそれで性質が悪いな」
サクサクのアップルパイを切り分けて口に運び、素朴な甘さに絡むアイスクリームをりんごと共に味わう。
それを紅茶で流し込めばようやく生き返る心地がした。
あぁ今まで僕は生きていなかったんだなと、ウィリアムが素直にそう実感してしまうほどに全身が活力に満ちている。
アルバートが息災なのは何より、ルイスも元気そうで本当に良かった。
あの子が自分のことを覚えていないのは悲しいけれど、それ以上にあの記憶が残っていないことに歓喜してしまう。
ルイスとはまた一から関係を築いていけばそれで良い。
きっとルイスはまたウィリアムのことを受け入れてくれるはずだ。
何も知らないあの子と初めからやり直すのもきっと楽しいはずだと、そう考えたウィリアムはふいにアルバートの顔を見て浮かんだ疑問を口にする。
「アルバート兄さん、ルイスは変わらず兄さんに信頼を置いているようですが、お二人のご関係は?」
「…そうだね。以前のお前とルイスの関係と似たようなものかな」
はっきりした言葉を使わなかったけれど、つまりは今世でのルイスの初めては全てアルバートのものなのだろう。
ウィリアムはルイスのそばにいなかったのだからそれは当然なのだが、不思議と嫉妬する気持ちは微塵もない。
むしろ幼いルイスを見守り育ててきてくれたアルバートに感謝の念すらあるし、あの子の貞操をアルバートが奪い守ってくれていたのだと思えばこれ以上ないほどにしっくりくる。
きっと今世ではこれが正しい姿なのだろう。
そうすると、ウィリアムは前世でいうアルバートの立場になるのだろうか。
以前のウィリアムとルイスの関係はあくまでも兄弟であり家族で、一線を越えたとしてもそこだけは変わらない絶対の関係だった。
二人の間には恋はなく、初めから最期までずっと愛だけが存在していた。
以前のアルバートとルイスの関係は兄弟であり恋人で、アルバートのおかげで知ることのなかったルイスの顔をウィリアムはたくさん知ることが出来た。
二人は兄弟という関係から淡い恋が芽生え、二人一緒にその恋を育んでいった。
ウィリアムはルイスに愛を教え、アルバートはルイスに恋を教えてきたのだ。
ならば今回はその逆で、ウィリアムはルイスとようやく初めての恋人になれるのではないだろうか。
ルイスの何もかもを所有してきたウィリアムだけれど、唯一手に入らずアルバートに託した恋人という立ち位置を、今回は何にも遮られることなく手に入れられるのではないだろうか。
そう気付いたウィリアムは、己だけ二人と兄弟に生まれなかったことに心の底から感謝した。
ルイスの全てを手に入れたいと願い事実手に入れてきたかつての己の悲願が、数百年経ってようやく叶うのかもしれないのだから。
「…今回、ルイスの初恋および恋人の座は、この僕が貰い受けましょう」
「お前ならそう言うと思っていたよ。だが良いのかい?ルイスはお前のことを覚えていない。警戒心が強く私以外には懐かないあの子が、果たしてウィリアムのことを受け入れるだろうか」
「ご冗談を、アルバート兄さん。ルイスが僕のことを拒絶するはずないでしょう?」
「ふ…大した自信だな。まぁそれには私も同意せざるを得ないな、ルイスがウィリアムを拒絶するなど絶対にあり得ない」
「ルイスの兄として、僕があの子の恋人になることを許していただけますか?アルバート兄さん」
「むしろお前以外がルイスに近付こうものなら私が処分しているさ」
「心強い味方ですね」
図書館でウィリアムに抱きしめられたルイスは口でも態度でも警戒しているようだったけれど、実際ならば誰かに触れられる前に相手をねじ伏せるだけの護身術を心得ている。
それを披露せずに大人しく抱きしめられていたということは、無意識にルイスも何かを感じ取っていたのだろう。
そもそもアルバートに馴れ馴れしい人間を嫌うルイスなのだから、いくらアルバートが許しているとはいえ「兄さん」と呼んだウィリアムを許すはずもないのだ。
ルイスらしくない行動が全てウィリアムへの気持ちを表しているようで嬉しく思う。
アルバートがようやく愛しい弟が二人揃ったのだと、二人が愛を紡ぐ様子をまた見られるのだと考えれば、歓喜で全身が震えてしまいそうだった。
「ところでウィリアム。次年度には君もあの大学に通うんだろう?」
「はい。今日はカレッジの所属申込書を提出するために来たんです。兄さんはどのカレッジに所属しているのですか?」
「私はルイスがいるからこの自宅から通っている。申請すればカレッジ所属は免除されると聞いたからね」
「そうだったんですか…」
より多くの学びを深めるため、様々な学科の様々な学生と触れ合うため、大学ではカレッジと呼ばれる学生寮を含む小さなコミュニティへの所属を義務化していると聞く。
ゆえにウィリアムも適当なカレッジに所属申込をしたのだが、申請で所属が免除されるのであれば今から取り消してきた方が良いかもしれない。
あのカレッジで過ごすよりこの屋敷近くのマンションでも借りて通った方が、ルイスを口説く時間も多く取れることだろう。
せっかく再会したのだからアルバート含め三人で過ごしたいし、そのためにはルイスとの関係を早くに築くことが重要だ。
そう考えているウィリアムのことを察したアルバートは、愉快そうに一つの提案をした。
「ウィリアム、君がこの屋敷に住まうというのはどうだろう?」
「え?」
「見ての通り当家は広く、部屋もいくつか余っている。ルイスの許可は必要だが、あの子は記憶がないとはいえウィリアムの頼みを断らないだろう。ここで腰を据えてルイスを口説いた方が効率も良いし、私もお前を手元に置いておきたい」
「それは…願ってもない提案ですが」
「では決まりだ。秋からと言わず今夜からでも住んでもらって構わないよ。隣にハウスメイドが住んでいるが、基本的に我が家の食事はルイスが作っている。味は言わずとも脳が覚えているだろう?」
「……」
「以前はルイス以外が作る食事を嫌悪していたウィリアムにとって、我が弟が作る食事は何よりも魅力的に映るだろうね?あぁ、一番の魅力はあの子と同じ空間で過ごすことだったかな?」
「…誘惑がお上手ですね、アルバート兄さん」
「かつてのお前ほどではないさ。私は少しでも早く弟達が愛を紡ぐことを望んでいる。ゆえに、出来るだけ早く我が弟を口説き落としてくれると助かるのだが」
「ふ…そう発破をかけずとも、僕とて早くあの子を抱き潰したいのだから全力を尽くしますよ」
「楽しみにしているよ、ウィリアム」
二人きりで住まう広い屋敷の中はどこか物足りなかった。
その原因が何にあるのか明白に分かっていたアルバートは、足りない部分を埋めるようにウィリアムの同居を決定する。
両親の許可も使用人の許可も、アルバートの一声があれば問題なく許されるだろう。
ルイスに関しても言葉の通り、本能でウィリアムを求めているようなのだから拒否はないはずだ。
早くウィリアムがルイスを口説き落として恋人になれば、その分だけアルバートも楽しめる。
また三人で依存し合う関係に戻れるのだと、ルイスを除いた二人の兄は今後の生活に期待を込めて笑っていた。
(記憶のある状態でルイスと共に生きてきたなんて羨ましいですね、アルバート兄さん)
(あぁ。そもそもあの子にルイスと名付けたのはこの私だからな。生まれた瞬間のルイスは見惚れるほどに愛らしかった)
(それはそうでしょうね。良い名前をありがとうございます、兄さん)
(両親よりも私が率先して面倒見たおかげで、ルイス初めての「だいすき」も、「にいさまのおむこさんになる」も頂戴してしまったよ)
(なっ…!)
(お婿さんは訂正しておいたが、幼い頃のルイスの将来の夢は私のお嫁さんだったんだよ。まぁ今もそれは変わっていないだろうけれど)
(くっ…何故その場に僕がいなかったのか…!)
(それに加えてルイスが初めて寝返りを打ったとき、ルイスが初めて喋ったとき、ルイスが初めて歩いたとき、その他入学式や卒業式などの行事含め、当家にはルイスのあらゆる写真と映像を揃えている)
(…それを見る資格は?)
(そうだな、お前が無事ルイスの恋人になった暁にはデータごと譲ろう。元より、いつか再会するお前のためを思ってアルバムは複数作っておいたのだから)
(アルバート兄さん、心から感謝申し上げます!あなたが僕とルイスの兄で本当に良かった!)
(ふ、そう褒められては照れてしまうな)
(アルバート兄様、入ってもよろしいですか?)
(お入り、ルイス)
(失礼します…)
(おや、枕持参かい?ではもうベッドに入ってしまおうか)
(ん…)
(それで、私とお前しかいないこの家でわざわざする内緒話は何かな?)
(…あの、今日来られた方のことなのですが)
(ウィリアムのことかい?)
(はい。あの方は、兄様のご友人なのですよね?)
(友人…という括りでは物足りないな。魂の同志と言って良い)
(魂の同志?)
(あぁ。ルイスもきっと彼を気にいるはずだ)
(……兄様は、あの方のことがすきなのですね)
(すきとかそういった次元で括られるものでもない。…大丈夫だよ、私の特別はルイスだから)
(…あの方…ウィリアムさんは、その、兄様のことがすきなのでしょうか)
(好いてくれているはずだが、ルイスが懸念する感情ではないことは確かだ)
(……アルバート兄様とウィリアムさんと一緒にいると、何故だか懐かしくて泣きたい気持ちになります。悲しくないのに、嬉しいのに、胸が締め付けられるようです。どうしてでしょうか…)
(ルイス…それは)
(兄様、僕、あの方を見ていると苦しいです。せっかく病気が完治したのに、また心臓が駄目になってしまいそう。せっかく再会したようですが、僕はもうあの方に会いたくないです…一緒にいたい気がするのに、会いたくない)
(ルイス…)
(……)
(ルイス。言い忘れていたが、彼は来週からここに住むことになった)
(え?)
(自宅からでは通学に不便のようだし、我が家への同居を勧めたところ快く同意してくれたんだ。早く環境に慣れてもらうため、来週末から一緒に住むことになっている)
(え…え?)
(ルイスの心臓は駄目にならないから、早く彼に慣れていこう。私も協力する)
(え、…に、兄様!?)
(さぁおやすみ、ルイス。良い夢を)
(兄様、兄様!?)