障害とレジリエンス
土日祝は(パートの)仕事が休みである私は、朝から家事をしながらTVニュースでパラリンピックのライヴ番組を流していて、ふと、気になったワードとインタビューがありました。
『レジリエンス』
ざっくりいうと、
困難や脅威に直面している状況に対して、「うまく適応できる能力」「うまく適応していく過程」「適応した結果」を意味する言葉。
※更に⇒ウィキペディア
このワードについて、パラリンピックに出場している某アスリートさんは、ご自身のこれまでの数々の困難を語り、その上でパラリンピック出場への切符を手にするまでの試練、オリンピック選手よりもメンタル面においては優ると(!?)、淡々とした口調ですが誇らしげにインタビューで答えていたのです。
確かに、身体的なハンデを抱えながらスポーツ競技に挑み、抜きん出た成績をおさめて、世界最高峰の障がい者スポーツ大会への出場権を手にした人でありますから、同大会のアスリートたち皆を讃える言葉としても、尤もだとは思います。
けれどそのとき思ったのは、オンリンピックに出場されていた水泳選手の池江璃花子さんのことです。
彼女は国民的に知られているように白血病で、アスリートとしては致命傷にもなりうるほどの月日を治療に費やしてしまったというハンデがある上で、オリンピック出場を決めていますよね。
見える範囲での分かりやすい身体的な障害ではないにせよ、相当なハンデを抱えての出場だったと思います。
その上、過酷な闘病生活というハンデの無かった選手たちとも平等に競うことになりますから、それこそハンパないレジリエンスがあったのではないのかと想像するのです。
そこでもう一つ、目に見える障害、目に見えない障害を考えたときに、自死遺族の深刻な精神的ダメージを重ねて連想しました。
どんな死因の死別であっても、近しい人たちの心には大変なショックによるダメージがあります。
けれど『自ら命を絶つ』自死に直面した遺族の、複雑極まりないダメージは、一般的には意外に知られていないと思いますし、単純に考察不足で少し軽く思われている節もあったりします。
「自死者は自ら望んで逝ったのだから、そんなに遺族は悩み苦しむことはないですよ」的な慰められ方等がそれです。
(忌み嫌われ、逆の意味で重たく特別視されている場合もあります)
100人居れば100通りの自死に至る背景がありますから一概には言えませんけれど、自死者の殆どは生きることに悩み苦しみ疲れて、どうしようもなく逝ったのだと考えられるので、それを思うとき遺族は、自責にのたうち回って苦しみ藻掻き続けます。
たぶん(その事の記憶が無くなる以外に)完治するような精神状態は無く、良くて(身体でいう)癌の寛解の域までいけるのかどうかも定かではありません。
目には見えなくとも、心には大きくて深い障害が残っているような状態。
それを抱えて健常者中心にまわっている社会で生きていくというハンデを持っていると感じます。
専門用語では『ハイリスク者』なんて呼ばれてもいますが、個人的には、見えないハンデを持ちながら社会生活を続けている(続けようと踏ん張っている)者と考えています。
(なので『サバイバー』という呼び方をされるほうがしっくりくるのかな、と)。
目には見えないけれど障害のある私。
(身体的には片肺の無い私だから、ダブル目に見えない障害持ちですね(^_^;))。
でもこうして考えていくと、世の中、健常者と言われる人のほうが、本当は稀な一握りにも思えてきます。
目には見えないだけで、二つ三つ…四つ(という方も)なんらかの障害を持って生きている人も多いのかもしれない。
レジリエンス力を誇るパラリンピックの某障がい者アスリートさんは、失った身体の一部は完全には戻らなくとも、工夫して生きて来られた、その上でチャレンジし続けているのですよね。
内容は大きく違いますが、私も、自分の身体の一部のように大切にしてきた我が子を喪い、なんとか小さい工夫を日々施しながら生きてみているところなのかな。
📷横を見ると、毛だるまニャンズも酷暑の中、彼らなりに必死に部屋の冷たいフローリングを移動しながら工夫して昼寝中でした。
◆自死遺族の集い