無メッキ反射鏡による太陽写真(1)
伊達英太郎氏(1912-1953)は、太陽黒点の観測報告を、1927年(昭和2)から1938年(昭和13)にかけて12年間行いました。同時に写真観測も並行してしました。また、プロミネンス分光器による観測を、アマチュアとして最初に行ったことでも知られています。(日本アマチュア天文史,P45)
山本一清氏は伊達英太郎氏について、「雲雀丘には口径25cmと15cmと2台の反射望遠鏡を備え、身体の調子が良い時には、昼間は太陽、夜は木星や火星の如き遊星面の観測を楽しんでいた。太陽黒点の立派な写真をたくさん撮られたし、また一時は日本ではあまり例のないプロミネンスの連続写真を行われた。」(「星と空」第37号,1957年2月号)と書いています。
伊達氏の太陽観測の記録は膨大で、今回の10回の連載で網羅できるわけでは決してありません。
今回は、その端緒として、1938年(昭和13)に伊達氏が執筆した文章をご紹介しながら、伊達氏の太陽観測の足跡を辿りたい思います。
「小反射望遠鏡による太陽写真」
伊達英太郎
1938年(昭和13)5月6日
1.無鍍金(無メッキ)反射望遠鏡
反射望遠鏡は太陽観測に適さない。観測を始めると少時の内に、筒内に熱のため対流が起こり、甚だしい気流の乱れが生じ、終には黒点の存在さえ不明になる程悪い像になる。これは一般によく知られているところである。ところが、凹面鏡の銀を除いて(但し斜鏡は鍍金する)太陽専用とすると、全く別人の如く穏やかなディテールを示し、太陽を観るには打ってつけの良機となる。気流の乱れは無くなるし、熱と光量は1/20に減じるから、眼に対する影響は殆んど無くなるし、反射独特の色消しが黒点その他を色の付かぬ本当の姿をクッキリと示すし、2次収差のある対物レンズでは味わう事のできぬ鋭いディテールを示してくれる。気流状態が良くなれば、米粒組織は恐ろしさを感じる程鮮明に見えるので、微小黒点との区別に迷うことすらある。
では、今この無鍍金反射を太陽写真の撮影に使用すれば、如何な結果が生じるか?元来太陽写真は像の静かな屈折望遠鏡を用いてこそ良い写真が出来、又事実屈折鏡による太陽写真は常に見るが、反射望遠鏡で写した写真は浅学の筆者未だ書物に見たことがない。そこで太陽の眼視観測に使用していた7.5cmf11(木辺氏研磨)の無鍍金反射経緯台を用い、これに自案(西村製作)のカメラを取り付け、太陽の直接写真を撮り始めたのは昭和10年度(1935)だった。
これは最初大きい(口径3 1/2インチ)ソルントン・シャッターを筒口に取り付けて露出を与えたが、これは甚だしい振動のため、小さい7.5cm経緯台では耐えられず、その後手動でうちわを筒口で開閉して露出したりして、とにかく太陽写真を写していたが、結局はカメラの取り付け取り外しが面倒なのと、手動では余程良い気流状態でないと写せぬのとで約2年間中止していたが、最近行きつけの写真材料店で、ごく古い手札型カメラを5円で入手したので、このレンズシャッターを外して、これを上記太陽カメラに取り付け、全般の改造を西村繁次郎氏に依頼し、面目を一新して完成したのが2月下旬(1938年)だった。
改良したのは、カメラを筒に固定さす為の固定棒、接眼筒を頑丈にした点、36mm40×屈折望遠鏡をファインダーとして7.5cmの上に架した事等で、これでひとかどの太陽写真専用機が出来上がった。早速テストを開始し、現在ではどうやら原板の粒が揃ってきたようですので、学術的の研究報告と言うのでなく、ただ反射望遠鏡でも適当に装備すれば米粒組織まで写るぐらいの相当の太陽写真が撮影可能であるという点を強調してご報告致すつもりです。まだ1ケ月の経験にすぎませんが、併しこの1ケ月中に今まで経験し得なかった種々の点を体得し得ましたので、何らかの示唆を諸賢に與え得ますれば、筆者の幸甚とする所であります。なお、筆者の太陽撮影につき御教学御叱正下さった斯道の大先輩、静岡県島田町の清水真一氏に対し、誌上より厚く御礼申し上げます。
(参考文献)
日本アマチュア天文史,日本アマチュア天文史編纂会,恒星社厚生閣,1987
「星と空」第37号,山本一清,1957年2月号
(資料と写真は伊達英太郎氏保管)