8月29日 礼拝
8月29日 礼拝説教
伊藤大輔牧師
マタイによる福音書 8章14−17節
イエス様が癒しをする。
触れて癒す。
言葉で癒す。
マタイの8章には二つの癒しのスタイルが記されている。
イエス様の行う癒し。
これは何を私たちに告げているのか。
病
私たちに貼りつき私たちを苦しめるもの。
山上の説教でイエス様が語ったのは
心に貼りつくものがあるということ。
富、人の評価、習慣、
それらに人は心奪われ支配されていく。
貼り付いているものを洗い流せ、とイエス様は勧めた。
病も同じ
人に貼り付いているもの。
それをイエス様は癒す。
貼り付いているものを洗い流している。
そこでイエス様がなさったのは二つのスタイル。
言葉と接触。
この直前でも
中風のもの、皮膚病のもへの癒しも「言葉」と「触る」の二つのスタイルだった。
「言葉」「触る」が繰り返されている。
マタイは何を告げようとしているのか。
イエス様の癒しとはなんなのか。
「言葉」と「触る」
この二つが連続している物語が他にもある。
創世記の天地創造の物語。
創世記の1章は神様が言葉で世界を造っていく。
光あれ
そのようになった。
言葉がその通りになる。
それが連続して世界が出来上がっていく。
創世記の2章
塵を形作って神の息を吹き入れ人を造る。
人を深い眠りに落とし肋骨を抜き取り女性を造り上げる。
触っていると読める。
言葉で造る。
触って造る。
イエス様の癒しと同じことが世界の始めにもある。
イエス様の癒しとなんなのか。
マタイは何を告げようとしているのか。
イエス様の癒しは天地創造と同じ。
天地の始めから今日まで同じことが起こっている。
世界とはどういうところか。
世界は今日まで神様が造り続けている。
マタイはイザヤの言葉を引用している。
「彼は私たちの患いを負い。
わたしたちの病を担った」
彼とは誰か。
イエス様も含まれる。
さらに言えば世の初めから変わらず神も「負い」「担って」いる。
すなわちこの世界とは患いが負われ、病が担われる所。
私たちに貼り付いているものが洗い流される所。
ならば、なぜ私の心にはまだ余計なものが貼り付いているのか。
私の心は重たいのか。
私が握りしめているから。
余計なものを私が力を込めて集めている。
世界は洗い流す秩序を持っている。
世界に合わせる。
私が力を抜けば、私は元の私に戻っていける。
地の塩、世の光
私の味、私の光
私が世界の初めから変わらない秩序に気がつけば
私は本当の私を現せる。
私はいつでも清められている。
本多記念教会
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