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年間第23主日(B)

2021.09.03 20:00

2021年9月5日 B年 年間第23主日

福音朗読 マルコによる福音書 7章31~37節

 それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、 それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

 今日の福音箇所は、一見すると、様々な福音書に度々登場するイエスの奇跡物語の一つのように見えますが、実はマルコ福音書にだけしか存在しない癒し物語です。またマルコ福音書は、「神の子イエス・キリストの福音の初め」と(マコ1:1)、その冒頭からイエスが救い主であることを声高に宣言することから、吠え猛る獅子のような生き物がその象徴として描かれてきました。このようなマルコ福音書独特の性格を踏まえるならば、この癒し物語は、病気の癒しを通して、福音とは何かについての深い洞察を示すものであることが見えてきます。

 まず、ここで登場する「耳が聞こえず、舌の回らない人」とはどういう人なのかについて考えてみましょう。彼には、音の情報がなく、ただ視覚からの情報があるのみです。しかも、彼は視覚から得た情報を誰かに伝えることができません。ただ見ているだけ、それが彼の人生なのです。それはまるで水槽の中から世界を見ている魚のようです。一生懸命に何かを伝えようとしても上手く行かず、人々が何を話しているかも分からないのです。それは、実に蚊帳の外に置かれた状態です。人として生まれたのに、人との輪に加えてもらえない、そんな苦しみが彼の存在からはにじみ出ています。

 周りの人々も、そんな彼に同情しない程冷たい人たちではなかったのでしょう。彼らが率先して、この人の癒しをイエスに願い出ています。しかし、イエスは「手を置いて」癒すという、彼らの提案には乗らず、その人だけを連れ出し、彼の耳と舌に直接触れられました。なぜでしょうか。それが今日の福音箇所を黙想する上で非常に重要な部分であるように思います。

 彼の本当の苦しみはどこにあるのか、イエスはそれを知っています。私たちは通常、耳が聞こえるようになり舌が回るようになれば、つまり障害がなくなれば、それでその人は癒されると思い込んでいます。結果がすべてであり、失われた機能が回復されればそれでいいと考えるのです。しかし、癒しを必要とする人の立場に立つならば、事態はそれほど単純なことではありません。たとえ耳が聞こえるようになり、舌が回るようになったとしても、その人がこれまで生きてきた不遇の人生は、もうやり直せません。これまで受けた心の傷がそのまま残る中で、今度は普通の人として厳しい世の中を生きてゆかなければならなくなるのです。

 おそらく彼は、外的には周りの人たちとの輪の中に入れても、心は依然として疎外されたままになるでしょう。話せば話すほど、聞けば聞くほど、自分を本当に理解してくれる人がいないことに気づくことでしょう。「もう、治ったんだからいいじゃん。前向きに頑張れよ。」そんな言葉が、彼の心の傷に塩を塗ります。人間の苦しみは、時に身体的な苦しみを出発点として、それよりもはるかに深刻な魂の苦しみにまで根を張ることがあります。彼の場合は、まさにそれでした。だからこそイエスは、癒しの結果以上に、癒しの過程を重視したやり方を選んだのです。

 触れること、これは今の時代、私たちが最も飢え渇いていることの一つでしょう。直接に触れられることによって、私たちはつながりや近しさを、理屈ではなく体全体で経験します。彼もまた、イエスの温もりを感じました。今、自分では開けることのできなかった障壁が、イエスに触れてもらうことで取り除かれてゆきます……「エッファタ」。

 マルコは、イエスが発した言葉をそのままに書き留めました。イエスの発した御言葉、神の創造の業そのものである御言葉、それこそが福音だからです。「たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった」。マルコは「耳が聞こえるようになった」とは記さずに「開いた」と述べています。また、単に「話せるようになった」ではなく、「はっきりと」と付け加えています。このことは、明らかに身体的な障害の回復以上の事柄を示唆しています。つまり、彼の中で何かが開かれたのです。私が私であることを妨げている様々な壁が、今イエスの言葉によって取り除かれたのです。

 私が私であることを妨げている様々な障害、それは身体的な障害に限らず、恐れや世間の常識、自信のなさなど様々です。イエスは、そのようなしがらみに捕らわれて動けなくなっている私に直接関わり、直接に触れられ、「開け」と言って下さるのです。世界をただ水槽の中から傍観するような人生ではなく、この世界で本当に生きる者となるために。ただ誰かに言われるがまま受動的に生きる人生ではなく、自分の意志で何かを発信してゆく者となるために。

 耳が聞こえるようになったのも、舌が回るようになったのも、実はイエスが行った癒しのほんの一部分にすぎないのです。残念ながら人々は、そういった外面的な部分しか見ていません。だからイエスは、人々にこのことを言い広めないように命令されています。イエスは自然の法則を無視した医者ではないからです。このように癒しの奇跡が与えられる人もいれば、与えられない人もいるのです。それは、私たちの感覚からすれば、不平等この上ないことでしょう。しかし、イエスはそもそもこの世の命を絶対視してはおらず、死をも貫く神の国の到来を告げておられるのです。聞くべきは、奇跡の評判ではなく、そういったしるしを通して平等に与えられている神の国の福音なのです。

 果たして私たちは、今日の物語から福音をちゃんと聞き取っているでしょうか。デルタ株に脅かされ、入院すらままならない程の危機に直面している今、この癒し物語を読むことは私たちにとって非常に難しいことであるかもしれません。奇跡的な癒しをこれほど望む時にあって、それが起こらないなら、イエスの福音に一体何の価値があるのだろうかと思ってしまうことだってあることでしょう。しかし、そんな状況だからこそ、今私たちは、まさにこの「耳が聞こえず舌の回らない人」と同じ立場で福音に向き合うことができるのではないでしょうか。

 運悪く新型コロナウイルスに感染した方とは、彼のことです。世界から締め出され、その声は人々になかなか届かないものとなってしまいました。コロナウイルスに感染して回復した方とは、彼のことです。回復したところで、お金や時間、社会的な立場など、失ったものは多く、なかなか前向きにはなれません。つらい後遺症が残って、元通りとは言えない状況を日々痛感しながら生きる人だっているでしょう。そして、コロナウイルスに感染していない人もまた、彼なのです。日々、不安や恐れしか聞こえず、その耳は幸せな未来に対して聴力を失いました。学校や職場、家庭での豊かな交わりが著しく制限される日常の中で疎外感を味わい続けてその舌は回らなくなり、バーチャル世界に引きこもらざるを得なくなってしまいました。

 もしコロナが突然この世から消え去ることがあったとしても、もはや元通りにならないものが沢山あります。そして、そんな「もし」を期待して生きることは、イエスが私たちに求める信仰でもありません。何よりも大切なことは、このような状況の私たちの現実の中で、イエスが今もあの「エッファタ」を宣言されているということなのです。イエスは、この苦しむ私たち一人一人に出会い、私が本当の私であることを妨げる様々なロックダウンに対して、解放を命じています。

 イエスが、わざわざその人に触れられたという出来事、それはその人とイエスとの間に特別な関係が生じたということです。私とイエスだけの特別な関わりに気づくこと、それが癒しの始まりであり、その本質なのです。コロナの状況はそんなに簡単には変わりません。失われた時間は戻ってきません。心身に刻まれた傷もそのまま残ります。しかし、今日イエスと出会うなら、そこから新しい人生が始まります。イエスと出会い、触れられ、親しく関わったその出来事が、それまでの全てを恵みへと変えるのです。この教話を書きながら、今私はイエスから次のように語られているように感じています。「耳よ、開け。そして、私があなたを造り、愛しているという真実を心の奥で聞きなさい!舌よ、ほぐれよ。そして、あなたらしい自分の言葉で、本当に語りたいことを語りなさい!」

 ウイルスに感染しないことが全てでもなければ、ウイルスに感染することが全ての終わりでもありません。さらに言えば、ウイルスに感染して亡くなったとしても、それが私たちの命の終わりではないのです。思い起こすべきは、最後まで私の人生がイエスによって生かされ、私が私を最後まで生き抜くということです。私が私をしっかりと受け取り、生きればこそ、誰かと深く交わることができる、誰かと本当に愛し合うことができるからです。そのように生きるならば、イエスは必ず私たちに、今を乗り越えるのに十分なしるしを与えて下さることでしょう。また、そのような生き方だけが、コロナの向こうで、人類のあらゆる疎外を打ち破る新たな連帯を築くことができるのだと思います。

 全てはイエスと出会うことから始まります。それがどんな苦しみの渦中にあろうと、イエスとの出会いから、人生はまた新たになるのです。イエスは語っています。「私とあなたが出会った日、それをあなたの福音にしなさい。この苦しい世の中にあって、その苦しみの只中にあって、耳を開いて私の声を聴き、あなたに語られた福音を、口を開いてあなたの言葉で、しっかりと語りなさい。」

(by, F. S. T.)