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【風見マサイ(獏原人村)】ヒッピーという生き方がもたらしてくれた自由。

2021.12.02 02:30
ヒッピームーブメントの波が、世界のいたるところに残っていた70年代。日本でも各地でコミューンが生まれた。自由が生活の基盤にある。40年以上にもわたって新しい世代の道しるべとして獏原人村は存在している。

文 = 菊地 崇 text = Takashi kikuchi
写真 = 宇宙大使☆スター photo = Uchutaishi☆Star


ー ここ(獏原人村)にマサイさんが来たのは何歳の頃だったのですか。

 26歳かな。


ー その前に旅をなさって、ここに辿りついたのですか。

 旅は全然していない。インドとかを旅して、生き方を見つけてヒッピーになった人も多くいた時代。でも俺は20歳の頃にそういう心境になったのね。誰からも支配されたくないっていう。


ー そんな思いを獲得したきっかけを教えてください。

 小さな頃から、「努力すれば報われる」「頑張って勉強すれば明るい未来が待っている」って教わってきた。俺も科学者になって人類の幸せに貢献するだなんて思ってたのね。大学に入ったら、そんなことを思っている奴なんてひとりもいない。夢が叶うというマジックをかけておいて、支配しているんじゃないかって思ったんだよ。人間が人間を支配するっていうことは間違っているということが俺の根本原理。支配されるっていうことは、要するに自由じゃないってこと。ヒッピーは愛と自由。支配されないってことだから。


ー 支配がない場所がコミューンの獏原人村だったということですね。

 持った人がいたんじゃできないから。ここは人里離れた山奥で、ぴったりだったのね。当時は車が走れる道もなかったから。


ー ここに来てどんなことを感じましたか。

 別世界に来たなって。なんとも表現できない感覚。東京とは全然違う。開放されてたわけじゃないけど、そんなふうに見えて。学生運動の尾が引かれている時代で、運動家の流れみたいな人もいたけど、そういう人たちはここでの暮らしは長く続かなかった。


ー 自給自足の暮らしですよね。

 自由な生き方ってなんだろうって考えて、自分なりの答えが狩猟採集で。狩猟採集からなる村が一番いいんじゃないかって。日本では狩猟採集で暮らすことは難しい。なら近いのは農の自給自足じゃないかって。石油も使わないで、できるだけ人力で生きていく。お金を使わない。最初に来たときは、丸太を担がされて、山道を何時間もかけて歩いてきた。手ぶらで歩くなんて許されないわけ(笑)。

ー 道もないわけですから、人の気配は感じません。

 だからいいんだよ。人がいると干渉される。今から考えると70年代ははるかに不便だったんだけど、俺にとっては世の中が便利すぎて、生きている気がしなくなっちゃったのね。


ー そして満月祭をはじめた?

 祭りをはじめようっていう意識はなかったんだよね。ここと、もう一ヶ所原人村があって、月見とかで合流することがあったのね。合流して、みんなでギターを弾いたり、焚き火をしたり、お汁粉を食べたり。田植えとか稲刈りとか、みんなで集まることがイベントになっていった。それである年に〈満月祭〉がはじまったの。


ー いろんな祭りをやっていたのですね。

 祭りってやっぱりおもしろいじゃん。みんなが平和で。この平和な時間がずっと続けばいいなって思ったりして。でもいろいろやるのも大変だからって〈満月祭〉一本にした。


ー 40年以上も続く祭り、フェスは他にはないと思います。

 最初の頃はタイムテーブルもなかったの。ライブをやりたい奴は9時に集まってくれ。それで誰が何時にやるのかって決める。出店料もとらない。勝手に来て、勝手にやってくれって。世の中では、勝手にやっていたら争いが起きて、ついには破滅しちゃうんだってことが言われる。規則を守れと。でもそれは違うんじゃないかって。自然には指揮者なんていないじゃないですか。小鳥が鳴いて、川のせせらぎが聞こえてくる。いつでも調和されている。この世に指揮者がいなくたって成り立つじゃんって。人間社会だけ指揮者がいるのっておかしいって。実際には主催者がいたり、参加者からお金を受け取ったりはするのだけど、コンセプトとしては祭りに指揮者はいらないっていうこと。誰も支配しないし、誰からも支配されない時間。

ー 去年から主催の代表を降り、次世代にバトンタッチしました。

 最初は続けようなんて思っていなかった。〈満月祭〉って何回目ですかってよく聞かれるけど、わからないって答えているの。数字って便利なんだけど、それがすべてじゃないっていう意識を持っておかないと数字に負けちゃうじゃん。次の世代がいるっていうことがうれしいよ。だって俺がやめちゃって、それで終わりじゃつまらないじゃん。商業的なイベントだったら続くだろうけど、儲かりもしないのに続いている祭りは少ないから。


ー 10年前の原発事故の年も〈満月祭〉は開催されていました。

 親しい人に「こんな年にはやるな」って言われて。迷っていたんだけど、逆にその言葉で開催することを決めた。人に行動を決められるのが嫌なんだよね。人の言うことだけを聞いてもしょうがねえ。自分で考えなきゃ駄目なんだよね。


ー 原発事故の後はどうなさっていたのですか。川内村は全村避難になっていましたが。

 やっぱり衝撃だったよ。チェルノブイリ事故のときに原発はよくないって思って、ガイガーカウンターは買ってたの。避難はしたけど、鶏がいるから4日に1回くらいは来てたのね。川内村には誰もいなくて、映画のシーンのようだった。茨城に避難していたんだけど、ここの放射線量は那須と同じくらいで、郡山のほうが高い。原発の反対運動にも首を突っ込んでいたけど、実体験ってわけじゃない。距離が離れれば線量は下がると言われていて、誰もがそう思っていた。川内村は30キロ圏内だから、川内村は終わったなんて言われて。そんなところに住んでいいのかとも言われてさ。その言葉に傷ついたけれど、3週間くらいで戻ってきた。線量が低くてラッキーだったし、結局ここが好きなのよ。


ー その意味では、福島で良かったという思いもある?

 ここが好きっていうだけ。福島という意識はないよ。県や国に境いってない。ここの次にあるのは地球っていう意識。福島県が好きっていうわけじゃなくて、隔絶されたここが好き。


ー 生きていくことの自由があると。

 ここではトイレも垂れ流しで浄化槽はない。電気もほとんどがソーラーで賄っている。ここにマンションを建てて何百人か暮らしはじめたら、自然のままではいられない。この地球に適正な人口っていったい何人なんだって思う。俺は計算できないけどね。狩猟採集には増産っていう発想はないんだよね。農業にはそれがある。増産ということは欲望も増してしまう。増産を求めてしまう意識を止めなかったら、持続可能な社会なんてできないと思う。それを俺が東京で暮らして口にしても説得力がないから、それをここでの暮らしで実証したいわけ。まだできていないと思うけど、でもそれをやろうと思っている。


風見マサイ(獏原人村)
1970年代中盤に自給自足で暮らすコミューンを作ろうと全国各地を回るなかで福島県川内村に辿り着き、獏原人村を創立。自らの手で水を引き、電気は太陽光を賄っている。未だに携帯も圏外。人里離れたその地で現在も暮らしている。80年代から続く<満月祭>は日本でもっとも歴史の長いフェスのひとつ。2021年も8月の満月に開催された。https://www.bakugen.org/