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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

F.Chopin、ショパン、ワルシャワの家族からの心配をよそにスコットランド行きを決意、ショパンの自己犠牲愛とは…

2021.08.30 22:00

ショパン肖像画から、マレー夫人侯爵夫人肖像画から、イメージ

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ショパンがグシマーワへ長い書簡を書いてから、グシマーワから直ぐに返事がショパンの元へ送られて来た(現存しない)。

グシマーワはショパンの書簡をショパンのワルシャワの家族へ送っていたのだった、そして、その返事はワルシャワからパリのグシマーワへ送られていた。グシマーワは直ぐに

ワルシャワのショパンの家族からの手紙を

ロンドンに居るショパンへ送ってくれた。

「嬉しいお言葉と、私に送ってくださった私の家からの手紙をありがとうございました。

(ワルシャワの家族の)みんなが元気でよかったです。

皆は私のことを必要以上に心配しています。

私は悲しみも喜びも感じられません。

感情が完全に枯渇しているので、ただじっとしていています、この状況が早く終わってほしいと思っています。」

ショパンはロンドンに来てから作曲する時間もなく作曲したくなるような心動かされる

出来事もなかった。ショパンにファンレターを書いてくれたジェーン婦人からの言葉をショパンがもし読んでいたら、ショパンは音楽家魂がいくらか助かっていたかもしれなかった、スターリング嬢のショパンへの独占欲はショパンに近づいて来るショパンの魂を助けようとする善良な人とのショパンの心の交流を妨げていた。

ショパンは家族からの書簡を読んでも気持ちが沈んでいた。そして、ショパンに残された道はやはり、スコットランド行きしかなかった。

「来週、私はスコットランドに行って

私のスコットランド女性の義理の兄弟であるトーフィヘン卿のところに滞在します。

スターリング嬢はすでに彼と一緒にエジンバラの近くまで来ています。

そして、私を招待してくれたのは、音楽愛好家で高名なマレー夫人です。」

マレー夫人はイギリスで由緒ある貴族第6代アソル公爵ジョージ・オーガスタス・フレデリック・ジョン・マレーの妻である。

二人は1839年に結婚、アン・ヒューム=ドラモンド嬢はアン・マレー、アトール公爵夫人となった。(1814年6月17日- 22月1897)

彼女は、ビクトリア女王の親友で寝室の女官でした。

ショパンは高名な貴族からの招待には応じた…「私は他の多くの口頭での招待状は無視しています。なぜなら、あちこち引きずり回わされる生活には飽き飽きしていますし、何か良いことがあるとも思えません。

私は8月29日までスコットランドに滞在します。

8月29日には、マンチェスターで大規模なコンサートが開かれることになっていて、

私は2曲を独奏する予定です。

出演料として60ドルを受け取ることになっています。

歌手アルボーニが来るが、それは私には関係ない。

私は数日間、ノイコムがいる場所に数日間滞在します。彼は地元の金持ちメーカーの知人がいます。

そのあとはどうしようかと思っています。……」ショパンは健康状態が不安定であったがワルシャワの家族からの手紙(現在しない)を読み、ワルシャワもまた情勢が悪いことを読み取ったのであろう。ショパンはロンドンに居るポーランド亡命者を食べさせることや家族を心配させないためにスコットランド行きを決意した。

ノイコムとは、ジギスムント・ノイコムのことで、ハイドンの弟子だったオーストリアの作曲家のことで、この時70歳であった。ショパンはノイコムの住む場所に滞在して、金持ちのパトロンを探す旅に僅かな望みをかけていた…。

ショパンは1848年8月の土曜日の午後の電車でロンドンのユーストン駅を出発したのであった…。

第6代アソル公爵ジョージ・オーガスタス・フレデリック・ジョン・マレー(1814年12月20日 – 1864年1月16日)

イギリスの貴族

1814年12月20日、初代グレンライオン男爵ジェイムズ・マレー(第4代アソル公爵ジョン・マレーの次男)とその妻エミリー(第2代ノーサンバーランド公爵ヒュー・パーシーの娘)の間の長男としてロンドン・グレイト・カンバーランド・プレイスに生まれた。

1837年10月12日の父の死去で第2代グレンライオン男爵位を継承。

貴族院議員になる。

1843年から1864年までフリーメイソンのスコットランド・グランドロッジのグランドマスターを務める。

1846年9月14日に伯父の第5代アソル公爵ジョン・マレーが子供なく死去したため、甥の彼が第6代アソル公爵位を継承した。

1864年1月16日に死去

アン・マレー、アトールの公爵夫人

(1814年6月17日- 1897年)

ヴィクトリアの最も親しい友人の一人であった。アン・ホーム・ドラモンドとして知られている。ヴィクトリア女王の衣装係と寝室の女官として女王に仕えた。

ジギスムント・リッター・フォン・ノイコム( 1778年7月10日 ザルツブルク - 1858年4月3日 パリ)は、オーストリアの作曲家、ピアニスト。出生名はジギスモント・ノイコム、騎士(リッター)に叙任されたことで「リッター・フォン」の称号を名乗った。