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Okinawa 沖縄 #2 Day 133 (09/09/21) 旧真和志村 (10) Makabi Hamlet 真嘉比集落

2021.09.10 00:23

旧真和志村 真嘉比集落 (まかび、マカン、マビ)


今日はコロナ予防接種一回目で、那覇のおもろまち副都心の接種会場に行く。予防接種だけで外出はもったいないので、会場近くの真嘉比集落を巡ってからの接種にした。真嘉比集落は旧真和志村に属しており、これまで九つの集落を巡ったので、7番目の集落になる。自宅からは5km程で自転車では30分かからない。



旧真和志村 真嘉比集落 (まかび、マカン、マビ)

真嘉比集落は17世紀以前は首里の一部で真和志平等 (マワシヒラー) に属し、士族も居住していたが、17世紀中以降は真和志間切に移管され、士族は首里に移り、百姓のみの居住となっていた。琉球王国時代からの範囲は、現在の真嘉比区域だけでなく、古島、松島 (1~2丁目)、おもろまち4丁目の一部、さらに銘苅1丁目までを含んでいたと想定される。琉球王国時代、現在の真嘉比 (まかび)、古島 (ふるじま、後に真嘉比から分離) 地域は、真和志間切 (まわしまぎり) 真嘉比村と呼ばれ、小字真嘉比原バル (現真嘉比自治会館周辺一帯) に集落が形成された。真嘉比村は、王国時代の記録には「まかひ」「まび」「真壁」「真嘉比」のほか「亀田」や「嘉味田」といった名称で表されている。1879年 (明治12年) の沖縄県設置 (琉球処分) の後、真和志間切真嘉比村は、1908年 (明治41年) 真和志村字真嘉比となり、1920年には字真嘉比の北東地域が字古島として分離した。

古島を含むかつての真嘉比村は、首里・那覇に隣接する純農村地帯で、サトウキビや真嘉比川周辺の真嘉比川原 (マカンジャーラ) の田芋は特に有名だった。沖縄戦後の1957年 (昭和32年) に那覇市と真和志市が合併した際、那覇市字真嘉比、那覇市字古島の行政区域が誕生した。2000年頃までは、真嘉比地域でも集落の形態や真嘉比道、周辺の丘陵・墓などもかつての姿を残していたが、土地区画整理事業が進み、見違えるほど整備された街が誕生した。那覇の中でもトップクラスの人気住宅エリアとなった

この地域にある地区の人口推移を正確に見るのは骨が折れる。何度も区画整理が行われ、地区間で地域の入れ替えが行われている。人口統計では同一エリアの人口推移を把握するのが困難だ。松島区は1998年に古島・松川・真嘉比の一部が分離して新設された。2014年には真嘉比と古島の一部が真嘉比と松島の一部に入れ替えがされている。これ以外にも何度も区画変更があり、それがどれぐらい真嘉比に影響があったのかは把握しにくい。

1873年 (明治6年) の真和志間切全体の人口は2,031人 (440世帯) で、廃藩置県後の1883年 (明治16年) では8,481人 (2,057世帯) と10年で4倍に増加している。これは廃藩置県で首里の士族が職を失い、首里から移ってきたことや、那覇が商業として発展し、その近郊の真和志に人が集まってきたことによる。これ以降は統計はなく、昭和8年- 13,956 (3,292)、昭和10年 - 15,966 (NA)、昭和13年 - 15,434 (3,616)、昭和14年 - 16,131 (3782)、昭和15年 - 16,884 (NA)、昭和19年 - 18,021 (4,135) となっている。


松島地区の人口推移は以下の通り、近年でも人口は増え続けている。

真嘉比、古島、松島の民家の広がりの変遷は以下の通り、1919年 (大正8年) では集落は真嘉比集落だけで、それも事情に小さい。古島は字として存在はしていたが、屋取であったので、民家は農地に散らばって集落は形成していなかった。戦後の1975年では既に民家は地域いっぱいに広がっている。沖縄戦戦野の人口は、 1919年とあまり変わっていないことを考えると、戦後の発展が著しかったことが判る。


真嘉比・古島集落訪問ログ



真嘉比遊水池

真嘉比集落から外れた東南に真嘉比遊水池がある。行政区では真嘉比ではなく松川に属している。遊水池とはいっても、水は無く、公園になり、老人達がゲートボールを楽しんでいた。池の周囲は遊歩道となっており、ウォーキングしている多くの老人とすれ違った。沖縄の老人達は礼儀正しく、すれ違うたびに挨拶をしてくれる。平時はこの様に憩いの場所なのだが、一旦豪雨や台風などで急激に川に流れ込む水量が増えた場合には、その広場全体が一時的に水を蓄え洪水・氾濫を抑える役割を果たす様になっている。

遊水池に沿って真嘉比川が流れている。この川の氾濫を調整しているのだ。これは公園とダムの二つの機能を備える良い仕組みだ。以前訪れた繁多川の安里川流域からここ真嘉比までは洪水被害に悩まされていた。下流域の浸水被害の軽減を図るため、平成12年に安里川に金城ダムを、平成13年に真嘉比川には遊水地を建設し、深刻な水害を抑え込むことが可能となった。

遊歩道を歩いていると、次から次へと猫が寄ってくる。沖縄には野良猫がいっぱいいる。住民は比較的寛大で避妊処理をして野良猫生活を見守っている。写真でも解る様に、色々な色の猫がいて、毛並みも綺麗だ。人に慣れているのか、まとわりつく。暫く猫の体を撫でて休憩。


前之原の井戸 (メーンハラーヌカー)

真嘉比遊水池の南側の遊歩道沿いに前之原の井戸 (メーンハラーヌカー) があると書かれていたので探すが見当たらず、畑で農作業をしていたおじいに場所を尋ねると、このおじいの畑の中にあると教えてくれた。今でも畑の水として使っているという。ついでに前之原御嶽 (メーンハラーヌウタキ) の場所も聞くと、畑の裏の山の頂上にあるそうだ。この井戸と御嶽はクサイ関係にあり、今はこの井戸から御嶽を遥拝している。この辺りは現在の真嘉比集落に移動する前に集落があった場所とも教えてくれた。ただ、琉球王統時代には真嘉比は既に現在の地にあり、ここは松川区で、昔は真和志平等松川邑 (茶湯崎) で後に真和志間切に編入された所だ。ここに以前の真嘉比集落の原型があったとすると三山時代より以前の事かも知れない。


前之原御嶽 (メーンハラーヌウタキ)

前之原御嶽 (メーンハラーヌウタキ) は現在の真嘉比集落からは真嘉比川へ下り、川を越えた山の中にある。

おじいの教えてくれた道を進む。おじいのいうかつての真嘉比集落の原型は今でも民家が立ち並んでいる。沖縄の典型的な集落の形で丘の斜面に広がっていた。おじいの話については色々と調べたのだが、それを裏付ける情報は見つからない。真嘉比字誌にのみこの御嶽と先程の井戸が記載されている。わざわざ字誌に記載しているので、やはり真嘉比集落の拝所なのだろう。ちなみに、この集落は首里山川町にあたり、琉球王統時代は真和志之平等 (マージヌフィラ) に属していた。

御嶽のある山への入り口を探す。民家の間に細い路地が山の方に伸びている。念の為、その民家の中年の男性に「御嶽への道ですか?」と聞くと、「御嶽があるのか、知らなかった。山の上にはこの道で良い」との答え。地元でもおじい/おばあか集落の役員をしている人でないと知らない事が多い。この御嶽が真嘉比集落の拝所であるならば、ここ山川集落住民には関わりが無いので、当然、御願もしないだろうから、知る由もない。この御嶽は戦後は先程の前之原の井戸 (メーンハラーヌカー) から遥拝で御願を済ませているので、この御嶽の存在は忘れられつつある様だ。細い山道を登ると頂上付近に祠があった。これが御嶽なのだろうか?

この山の斜面にはいくつもの墓がある。頂上の藪の中にも祠か墓か区別がつかない拝所もある。ここの御嶽の写真はインターネットでは見当たらない。このどれかが前原之嶽 (神名: 弁財天之御イベ) なのだろう。旅立ちの際の航海の安全祈願の場所で戦時中は出征の時に拝んでいたそうだ。

この山から見える風景


真嘉比公民館

次に現在の真嘉比集落に向かう。真嘉比川から、新都心のおもろまち方面に登り、真嘉比原 (マカンバル) と呼ばれる地域にある真嘉比公民館に行き、ここに自転車を停めて徒歩にて集落を巡る。元々の集落はかなり小さい。集落には東西に三本の道が走りその間に集落があった。公民館の入り口には、いつも見かける酸素ボンベの鐘が吊るされていた。ここでは毎年豊年祭が行われて、綱引きが行なわれている。去年は新型コロナウイルスの影響で中止となり、祈願祭のみ少人数で営まれたそうだ。


アシビナー

かつて、公民館 (村屋) の前には部落民が集っていたアシビナー (遊び場) があったのだが、現在は駐車場になっている。


前道 (メーミチ)

公民館の前の道はかつての前道 (メーミチ) で集落の南の端に走っていた道。


東井戸 (アガリンカー)

公民館から1ブロック南に東井戸 (アガリンカー) がある。以前は飲料水や洗濯水、農業用水として利用した。この井戸の周りの広場は集いの場となって女性の三月遊びの場となっていたそうだ。


中道 (ナカミチ)

前道 (マエミチ) の北に中道 (ナカミチ) がある。集落の中心部にあたる。


東池 (アガリンクムイ)

かつては中道沿いには東池 (アガリンクムイ) があり、殿内小 (トゥンチグヮー) と呼ばれた拝所もあった。東池は農産物を洗ったり、馬の水浴びに使われていた。鯉の養魚池としても使われていたそうだ。戦後、埋め立てられ、屋号 東ヌ殿内小・西ヌ殿内小にあった拝所を、ここの殿内小 (トゥンチグヮー) に合祀し、2007年には、この殿内小 (トゥンチグヮー) を真嘉比殿内に移した。現在は真嘉比交番になっている。


前之森 (メーヌムイ)

前道 (メーミチ) と中道 (ナカミチ) の間に前之森 (メーヌムイ) という森があったそうだが、今はその面影は無く、住宅地になっている。この辺りに沖縄戦では歩兵隊の機関銃陣地が構築されていたそうだ。


真嘉比殿内 (マカビドゥンチ)

中道を西に進むと赤瓦屋根の真嘉比殿内 (マカビドゥンチ) がある。殿内には祭壇が置かれ、昔は東ヌ殿内小に祀られていた初代村掟 (ムラウッチ)、西ヌ殿内小に祀られていたニ代と三代の村掟 (ムラウッチ) の位牌をここに移し、更に村内にあった西池 (イリンクムイ) と東池 (アガリンクムイ) のそれぞれの拝所も移し、火の神と共に拝まれている。現在は豊年祭と年末の祈願行事で拝まれている。

ここに祀られている村掟 (ムラウッチ) は今で言う村長さんにあたる。県知事に相当する真和志間切番所の地頭代の指示で村の運営を行っていた。初代から三代までの位牌というので、間切が導入された初期の人物の位牌と思われるが、間切がいつからあるのかは明確になっていない。17世紀末の間切図でその存在が分かっている。


中井戸 (ナーカンカー)

真嘉比殿内の駐車場には村の共同井戸だった中井戸(ナーカンカー) がある。コンクリートで井戸の形に固められている。この井戸はかつては存在していた西池 (イリンクムイ) と井戸底で池と繋がっており飲料水として適しておらず農業用水として利用されていた。西池 (イリンクムイ) は芋洗いや野菜の水かけ、畜舎の清掃に使用されていた。


西井戸 (イリンカー)

中道の西の突き当たり、真嘉比集落の西側の民家の奥に西井戸 (イリンカー) があり、拝所になっている。この井戸の水がきれいで、昔から飲料水や農業用水として使われていた。


後道 (クシミチ)

集落はなだらかな傾斜地となっており、北の後道 (クシミチ) から南に緩やかに降っている。現在は集落は拡大して真嘉比区全土に住宅地、商業地となっている。


真嘉比中央公園

真嘉比集落の東の外れには真嘉比中央公園となっている。

公園内に真嘉比村の案内板が置かれていた。真嘉比村の変遷を紹介しており、それが以下の図。(1945年、1982年、2009年の航空写真と整備計画図)


真嘉比世 (マカンユー) の大主親雲上 (ウフヌシペーチン) 墓

真嘉比中央公園の隣は墓地になっている。墓地は、昔は集落から外れた場所だったのだが、今は墓地の周りも住宅街になっている。この墓地の中にかつて集落の指導者だった真嘉比世の大主親雲上の初代、二代、三代の墓がある。かつては銘苅古墓群の中にあったが、この場所に移設され、真嘉比自治会が管理し、年に一回拝まれている。


空手家の墓 (松村宗棍、糸洲安恒、花城長茂)

真嘉比中央公園の直ぐ北側にも墓地があり、そこには沖縄空手の三代流派の一つの首里手 (シュイディー) 三拳聖の墓がある。三拳聖とは松村宗棍、糸洲安恒、花城長茂。


松村宗棍 (1809~1899) は沖縄空手首里手の始祖とされ、琉球第二尚氏の17代尚灝王、18代尚育王、19代尚泰王の三代に亘り王府の御側守役として仕えた人物。武人、外交官として活躍した。松村宗棍には猛牛を倒したエピソードもあり、沖縄空手の理念を説いた「武の七徳」の遺訓もよく知られている。


糸洲安恒 (1831~1915) は松村宗棍に師事し、琉球王府に糸洲筑登之親雲上 (チクドゥンペーチン) として仕え、明治にかけては沖縄県庁で活躍した唐手の大家であり、1901年、首里尋常小学校の体育の教科として空手を指導し、唐手の「近代化」に着手した最初の人物としても知られる。県に対する建白書は「空手十カ条」として知られている。糸洲安恒の弟子であった越義珍が本土に伝えたのが現在の空手となったと言われている。


花城長茂 (1869~1945) は松村宗棍、糸洲安恒の高弟で、明治38年にそれまで唐手を「空手」の表記に創案した。1937年 (昭和12年) には、空手道基本型の制定にかかわった。この墓は元々は古島地区にあったが区画整理事業計画で已むを得ずここに移されたもの。

沖縄の伝統空手は室町時代頃に伝わった中国拳法を基に、手 (ティ) と呼ばれて、琉球王国の士族の間で護身術として発展した。これをベースに佐久川寛賀が唐手 (トゥディ) に発展させ (トゥディ佐久川と呼ばれる)、手 (ティ) との併存時代を経て、空手へと継承されていく。当時、この手 (ティ) は、大きくは首里手 (シュイディー)、那覇手 (ナーファディー)、泊手 (トゥマイディー) の3つの流派がつくられた。このうち、首里手が糸洲安恒が型をまとめて作り上げたものが唐手 (トゥディ) となり、空手のルーツとなる。

沖縄空手は、継承してきた「型」の習得を重要視し、同じ「型」を日々繰り返し鍛錬することによって、体力、忍耐力、精神力を鍛え上げるもので、近代につくられた組手の試合は無かった。これはまさに沖縄らしい。平和だった琉球は軍隊も小さく、士族も帯刀はしていなかった。攻撃をする対象国も無く、その中で空手は護身術であるとともに、自己鍛錬の手段だった。だからこそ、沖縄空手といえば「型」だった。今回の東京オリンピックで空手「型」で県として初の金メダルを取った沖縄出身の喜友名諒は、県民あげての喜び、誇りだった。ここ沖縄では、当日は大騒ぎとなっていそのた。


真嘉比道 (マカンミチ)

かつては真嘉比中央公園を中を突っ切った道があった。真嘉比道 (マカンミチ) と呼ばれ、首里儀保村の宝口の切通しから那覇崇元寺に至り長虹堤へと連結されていた。沖縄戦でこの地域は壊滅状態で、この真嘉比道は残っていない。道の一部分が現在の道路と一致している。この道は、首里の人々が人目を避けて那覇の辻 (遊廓 現在の那覇松山あたり) に行くために通ったり、末吉/西原村辺りの人々が那覇の市 (マチ) に荷を運ぶために利用したという。

真嘉比道周辺の丘陵には数多くの墓が建立されており、「逆だち幽霊」の伝説も残る寂しい道だった。

  • 美しい女を娶った男がいた。男は幸せに暮らしていたが重い病におかされてしまう。それから男は美しい妻を残して死ぬことに煩悶するようになる。あげくは「俺が死ぬと他の男と一緒になるだろう。お前を残しては死んでも死にきれない」と執拗に妻をなじった。その煩悶の悪循環で病はますます重くなる一方であった。みかねた妻は男の煩悶を断ち切ろうと自らの鼻をそぎ落とす。それに安堵したのかいつしか病も癒えた。恢復してみると今度は鼻をそいだ妻が疎ましくなる。とうとう愛人と結託して妻を殺してしまう。妻は夜な夜な幽霊となってふたりの暮らす家に現れるようになる。男は幽霊となって出てこれないようにマカンミチの墓に眠る、妻の足に釘を打ちつける。家には首里の天界寺の符札 (フーフダ) を門と家の四隅にはりつける。足に釘を打ちつけられ、家にも入れない幽霊はマカンミチの墓のあたりに立つ。怖がって誰も寄り付かないなか、ある日池城親方が通りかかり、その訳を知り足の釘を抜き、フーフダもはがしてしまう。それで幽霊は復讐をとげることができた。

古島集落

真嘉比集落の北側に古島地区がある。この地域は首里の帰農士族が形成した屋取集落 (ヤードゥイ) だった。明治中期まで首里の御殿、殿内の別荘のようなものがあったそうだ。当時は宇久増 (ウクマシ)、渡比屋 (トーヒャー)、古島小 (フルジマグヮー) の三つの屋取 (ヤードゥイ) から成り立っており70戸位だった。この地域が大正9年に真嘉比から分離し、独立行政区となり、古島と呼ばれるようになった。

古島の人口は1900年 (明治33年) では1944年 (昭和19年)でも336人と戦前はほとんど変化がないのだが、それ以降急増し、ピーク時の1993年には6,467人までなっているその後、2度にわたる区画整理もあり、現在では3,667人となっている。区画整理がなければ、6,000-6,500人に増加した (戦前に比べ約20倍) とも考えられる。


原神 (ハルガン) の拝所

古島地区の大神原 (ウフガンバル) には古島も含んだ旧真嘉比の崇敬の霊地として拝み続けられている原神 (ハルガン) の拝所が置かれている。この辺りは、原神毛 (ハルガンモー) と呼ばれていた。真嘉比集落内にかつてあった東之殿、西之殿、ヌールガーを1996年に一つにまとめ、ここに移した拝所。真壁大阿母志良礼 (マカンオオアムシラレ) の管轄下で真壁ノロが祭祀を行い真嘉比と古島で拝まれていた。ヌールガーは、ノロ井戸、ノロ川とも記される古い村井戸であり、水脈が良く、水が絶えることがない井戸でだった。終戦後の食糧難の時にも貴重な飲料水として活用されていた。

[最高女神官の聞得大君加那志 (チフィジンガナシ) の下に真壁 (マカベ)・首里 (シュイ)・儀保 (ジーブ) の 「大阿母志良礼」 と呼ばれる3名の高級女神官が置かれ、琉球国全域の神女 (ノロ) を3区域に分けて管轄していた。]


原神御嶽 (ハルガンウタキ)

原神 (ハルガン) の拝所の近くの松島小学校のあたりは下原神 (シチャハルガン) と呼ばれている。

そこにはハルガン御嶽 (ウタキ) があった。旅に出る際の安全祈願がされた。現在は松島小学校になっているので、小学校の近くに祠が建てられている。


大道森 (ダイドームイ Half Moon Hill)

真嘉比集落は沖縄戦で最大の激戦があったシュガーローフ (慶良間チージ) の戦い (1945年5月12日~5月18日) の舞台でもあった。沖縄に上陸した米軍は日本軍本部のある首里城を目指し、天久からこのシュガーローフ付近に侵攻。この辺りにはいくつもの丘や小山があり、日本軍はそこに陣地を置いていた。真嘉比集落の南にある大道森 (米軍はその形からHalf Monn Hil と呼んでいた) はその一つ。真嘉比集落の北にはチャーリーリッジ (Charlie Ridge) と呼ばれた丘に日本軍陣地があった。陣を構築していたシュガーローフ - ハーフムーンヒル - ホースシューは首里の司令部を守る絶対防御ラインだった。ここを突破されると首里は2km程で日本軍としては、なんとしても、ここで米軍をくい止めなければならなかった。地図でもわかるように、この戦闘の真っただ中に真嘉比集落があった。戦闘で徹底的に破壊されたことは想像がつく。

大道森 (Half Moon Hill) は区画整備事業によって丘ごと削られてしまい、当時の形は残っていない。現在は公園になって、小山の上に説明板と遺品などが展示されていた。

このシュガーローフの戦いをはじめ沖縄戦の詳細が「沖縄戦史 公刊戦史を写真と地図で探る] というサイトに掲載されていた。これはかなり詳しくよくできていて、当時の様子がよく理解できる。特に集落が、どのように戦争に巻き込まれていたのかが想像ができて有益なサイトだ。そのサイトから資料を拝借して簡単にまとめてみる。 


5月12日  米軍はシュガーローフの攻撃を開始。二度にわたる攻撃をかけるが、大きな損害を出し撤退し、真嘉比主落北西部からシュガーローフの北西まで、陣を引きなし体制を再構築。

シュガーローフ (Sugarloaf 慶良間チージ)

シュガーローフは真嘉比ではなく安里に属するのだが、ハーフムーンヒルと関連があるのでここに記載する。安里の北に位置する丘陵地帯に築かれた日本軍の陣地で、日本軍は “すりばち丘”、米軍は “シュガーローフ” と呼んでいた。日本軍の首里防衛の西の要衝で、この一帯で米軍の第6海兵師団と激しい攻防戦が展開された。特にシュガーローフ (慶良間チージ) での攻防は、5月12日から1週間に及び、1日のうち4度も頂上の争奪戦がくりかえされるという激戦の末、18日に至り米軍が制圧した。

区画整理で地形は当時とはずいぶん様変わりをしている。この地域は新都心とも呼ばれ、新しい街並みがひろがり、企業オフィス、大型のショッピングセンター、住宅地などが立ち並び、沖縄では最も人気の高い場所になっている。その中に当時の丘の一部が残っている。ここがシュガーローフで丘の上には排水タンクがあり、安里配水池公園となっている。


❷ 5月13日  早朝から米軍が攻撃を再開。今回はシュガーローフのピンポイント攻撃ではなく真嘉比集落の北西のチャーリーリッジにも攻撃をかける。米軍は今回も大きな損害を出したが、チャーリーリッジの北西部、シュガーローフ北西部の一部まで前線を確保する。

チャーリーリッジ (Charlie Ridge 真嘉比北高地) の形は区画整理で完全に削り取られ残っていないがわずかに北側から緩やかな登り坂になっている。当時はもっと高い丘になっていたのだろう。(このチャーリーリッジ の日本軍陣地は5月17日に陥落することになる)


5月14日 早朝から米軍はシュガーローフへ攻撃をかけ、激戦が展開された。米軍はシュガーローフの北西に位置するHill 1とHill 3を攻撃、Hill 1北斜面まで確保し、シュガーローフの攻撃に移る。激戦となり、米軍は支援部隊を送り、シュガールーフの北斜面まで確保するも、頂上にいる日本軍の抵抗で占領まで至らなかった。真嘉比集落の北西のチャーリーリッジでも戦闘が行われたが、ここも北斜面まで軍を進めるも攻略までは至らず。米軍はシュガーローフ北のチャーリーヒル北側斜面を確保。この日の戦闘ではハーフムーンヒルの日本軍が側面攻撃をかけたため苦戦し、米軍は多くの損害を出した。

チャーリーヒル (Charlie Hill) は1990年代の区画整理により丘があったとは思えない場所になっている。戦後は米軍住宅地となっていた。跡地には現在はDFSが建ち、多くの中国人観光客でにぎわっている (もっともコロナ禍の前までだが)


5月15日   5月14日深夜から,翌15日未明にかけてシュガーローフ攻防は続き、米運は頂上まで到達。しかし頂上に到達した米軍兵の生存者は僅かで、援軍が送られるも米軍戦死者は増え、15日の朝には撤退を余儀なくされた。日本軍はシュガーローフを取り戻す為猛攻撃をかけ、この日の終わりにはシュガーローフ北側まで制圧回復を果たす。この日の戦いで、米軍は指揮官はじめ幹部も戦死している。米軍はチャーリーリッジ北壁のみを確保できた。


5月16日 米軍はシュガーローフ攻略が思惑通りにいかず、その原因をハーフムーンヒルからの日本軍の側面攻撃にあると判断し、軽便鉄道の切通しを渡り、ハーフムーンヒルの攻略を試みる。日本軍の攻撃も少なくハーフムーンヒルの北側まで進んだが、ここで日本軍の猛攻撃を受け、米軍の全員が負傷し撤退となる。同時にシュガーローフでも戦闘が繰り返される。ハーフムーン攻撃で日本軍の側面攻撃を阻止している間に、シュガーローフを攻略する作戦で、まず西のホースシューからシュガーローフに日本軍を攻撃し、同時に東から軍を進め、シュガーローフ頂上まで到達するが、ホースシューの軍は日本兵に攻められ苦戦、ハーフムーンヒルの軍も苦戦で、援軍は望めず、日が変わった17日未明に撤退。


軽便鉄道の切通し この時期には鉄道は運航はされちなかっただろう。


5月17日  米軍は前日と同様にシュガーローフを東から攻める作戦で、ハーフムーンヒルの攻略を試みる。チャーリーリッジ北側の米軍はチャーリーリッジを占領し、真嘉比集落の西側と東側を通りハーフムーンヒルの北側の麓まで進軍するが、日本軍の猛攻撃を受け、大損害を出し撤退。米軍はシュガーローフにも攻撃をかけるが、ここでも大損害を受け撤退となる。


❼ 5月18日 米軍は2回にわたって東側からシュガーローフを攻撃するも、ハーフムーンヒルの日本軍を包囲できず、失敗に終わったていた。この日のハーフムーンヒルの攻撃を継続するが、包囲すらできない状況。米軍は作戦を変更し、東側からではなく、西側からシュガーローフを攻撃することにする。この日の午前中には、米軍はシュガーローフを西から攻め丘の中腹まで進軍、別の部隊は正面から攻め上り、シュガーローフの東半分を制圧。更に米軍は西側からも進軍し、西半分を制圧し、シュガーローフは陥落する。午後には、日本軍の反撃がホースシューから始まり、米軍はシュガーローフからホースシューに進軍するが、日本軍の抵抗すさまじく、シュガーローフに撤退。シュガーローフは7日目にやっと占領できたが、ハーフムーンヒルはいまだ日本軍の手にあった。この後、米軍は首里城の日本軍本部に向かい戦闘を継続する。ハーフムーンヒルに立てこもる日本軍は、首里城の沖縄第32軍司令部が南部に撤退する5月31日まで、頑強に抵抗を続けた。

このシュガーローフの戦いで米国海兵隊側は、2,662名の戦死傷者と、1,289名の戦闘 (精神的) 疲労患者を出したとされる。日本側の損害については、こ統計がないため明らかではないが、両軍合わせて4000人以上が戦死したとされている。米軍にとって沖縄戦ではこのシュガーローフの戦いが最悪の戦闘といわれている。


これで今日予定していた真嘉比集落巡りはおわった。この後、新型コロナの一回目の予防接種を予約している。この近くにその会場がある。今日も真夏日で、汗びっしょり。まだ時間があったので、近くのショッピングモールで涼んでから会場に向かう。到着すると、待ち時間なしですんなりと接種終了。聞くところによると、最近は予約が少なくなってきているそうだ。那覇市はそれを懸念している。この日の夜には、接種した左腕が少しこわばり痛む。これが副反応だ。ただ翌朝には痛みも引き、平常に戻った。2回目は9月30日、同じ会場を指定された。本当は、今住んでいる場所から歩いて5分の所にも接種会場があるのだが、予約の際に間違ってここにしてしまった。ただ、集落巡りができるので、結果的にはここでよかった。



参考文献

  • 真和志市誌 (1956 真和志市役所)
  • 真嘉比字誌 (2014 真嘉比自治会)
  • 沖縄県戦争遺跡詳細分布調査Ⅳ (2004 沖縄県立埋蔵文化財センター)