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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

F.Chopin、ショパン、フランショームはショパンの本当に親友なのか、スコットランド行きはフランショームの企みだったのか…

2021.08.31 22:00

フランショーム肖像画とショパン写真から

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ショパンの父 ニコラ(1771年4月15日- 1844年5月3日)が亡くなってから4年経っていた。ニコラは息子フレデリックを経済的にも精神的にも支え続けた生真面目で道徳心をフレデリックに説いた人だった。

そのニコラが亡くなり失意のフレデリックを支えたのは姉ルドヴィカであったが、

その時、サンドがフランショームに

「ショパンを慰めることが出来るのはあなた(フランショーム)だけです、」という内容の書簡を送ったことがあった。しかし、フランショームからショパンへの手紙は現在せず、フランショームがショパンにお悔やみを述べたかは不明だ。

ショパンからフランショームへの返事らしき書簡も現存していない。

ショパンの友人ヒラーの父が亡くなったときは、音楽家仲間でヒラーへお悔やみ文をショパンは送ったことがあった。しかしショパンには何故かそのような友人からショパンへのお悔やみは存在していない。

フランショームはショパンが悲しみに暮れている頃、パリで楽壇の中心人物として順風満帆であった。彼は1843年にジャン=ルイ・デュポールの息子から総額2万2千フランでストラディヴァリウス(デュポール)と、1730年製のストラディヴァリウス(デ・ムンク)も買い上げ、パリ音楽院教授として、仕事も家庭も順調だった、その後1846年パリ音楽院チェロ科の主任教授に就任したのだ。つまり、フランショームは主任教授の席を射止めることに忙しく、親友ショパンの幸せなど彼は眼中になかったが、ショパンの父ニコラはショパンの親友フランショームを恐らく助けていたのであった。

それからショパンを苦しめたチェロソナタの事などの経緯を経てフランショームとショパンは付かず離れずの仲であった。

ロンドンに来てからもショパンはフランショームのことを気にしていた、ショパンはロンドンに来てから直ぐにフランショームに書簡を書いているが彼からは何も連絡がないからだ。

そして、ショパンはスコットランドのエディンバラに来ていた。

新天地に来ていたショパンは、早速、フランショームへ宛てて筆を取る…

「あなたに何と言っていいかわかりませんが、お父様を亡くされたことを慰めようとしないのが一番だと思います。

あなたの悲しみは、時間が解決しても

このような悲しみを和らげることはできません。」

フランショームの訃報はロゼールかグシマーワからショパンは聞いたのであろう。

ショパンはフランショームの悲しみは自分とは比較出来ないが、フランショームにも自分のように親を失う日が来たのだと、フランショームにお悔やみの言葉をかけたショパン。

そして、ショパンはスコットランドで自分がどうしているかの近況を親友としてフランショームに伝えた。

「 私は2日前にロンドンを出発しました。エジンバラまでの道のり(407マイル)を12時間で走りました。

私は、エディンバラで一日休んだ後、エディンバラから12マイル離れたカルダーハウスにいます。

私は今、アースキン夫人の義理の兄であるトーフィヘン卿の邸宅であるカルダー・ハウスに来ています。

月末まで滞在し、ロンドンでの活動から回復する予定です。」

ショパンが招かれたカルダー・ハウスとは、16世紀から伝わるトーフィヘンの領主となったサンディランド家の先祖代々の大邸宅でのことで、これは、リビングストンの南に位置するローチアン川のアーモンドとミュリストン川の間にあるミッド・カルダー村の南側の私有地内にあった。

高地からフォース湾に向かって下ってくる小河川が複数ある場合に位置している。

「…私は2回の昼公演を行いましたが、それは皆さんには楽しい時間のようでしたが、私は迷惑をかけたかもしれないのだ。」集まった上流階級の人々は楽しげであったが、ショパンにとっては貴族との社交が窮屈だったのだったのか…

「しかし、それがなければ、私はどうやってこの愛すべきロンドンで3ヶ月を過ごすことができたのだろうか。

広々とした宿は絶対に必要だし、馬車と下男も必要だ。

私の健康状態はそれほど悪くありませんが、体力が落ちてきていますし、ここの空気にはまだ慣れていません。」

お金のために窮屈な貴族との社交を我慢しているとショパンは話す、ロンドンより空気が良いはずだが、ショパンには何かが足りず、

何かが余計な事であった。

そして、

スターリング嬢は忙しいからフランショームに手紙を書けないが許してくださいと、

ショパンは彼女たちの愛想のなさを代わりに謝った…。一緒に居る人との挨拶の手紙はまとめて出すことが当時は社交辞令でもあったからだ、しかし、これは、

スターリング嬢はショパンの弟子なだけではなく、フランショームのチェロの弟子でもあった彼女は、実はショパンのスコットランド行きはフランショームがスターリング嬢をそそのかしたのであった。

それはフランショームがサンドから頼まれた可能性があり、ショパンは気づいていたが、自由のないショパンはカルダーハウスにしばらくは滞在しようと考えていた。

「…エディンバラにはあなたの教え子がいます。

ルイ・ドレクスラー氏だと思います。

彼はロンドンで私に会いに来たのですが、とても良い人で、あなたのことをとても気に入っていました。彼は地元の名士であるマーリー夫人とチェロを弾いています。

マーリー夫人は60歳で、ルイ・ドレクスラー氏のお弟子さんの一人です。」

ルイ・ドレクスラーは( 1827 年6月25−1860年エディンバラ)ドイツ出身で彼はこの時21歳で父親のチェロ奏者のカール・ドレクスラーはデッサウの宮廷オーケストラのコンサートマスターであった。

彼は1845年からフランショームの弟子になっていた。パリ音楽院の学生ではなかったが彼は父親と同じデッサウの宮廷オーケストラでチェロ奏者として宮廷に仕えていた。

「…私はマレー侯爵夫人の立派なお城に行くことを約束しましたが、

8月28日にマンチェスターに行ってコンサートで演奏する約束をしているため、どうするか決めかねています。

8月28日にはマンチェスターでのコンサートに60ドルで出演する約束をしているのです。」

お金の話しをフランショームに引き続きするショパン…

 「ノイコムがそこにいて、彼がその日にオルガンの即興演奏をしに行かなければ、私はその日にオルガンの即興演奏をします。

その日に彼がオルガンの即興演奏をしなければ、私は60ドルを稼ぐことができるのです。」ノイコムは70歳だった、彼が演奏を休めばショパンが代わりに演奏する事が出来、

ショパンに報酬が与えられるという訳だ。

フランショームに自分の経済的に厳しい状況を話したショパン…

「その後はどうするかわかりません.....私は、

.何も作曲していない、曲を作れない時は年金を払って欲しいくらいです。

ジョージ・オズボーンやソウィンスキーのようなスタイルの曲を私は作りません。

オズボーンやソウィンスキー(二人とも素晴らしい友人で、一人はアイルランド人、もう一人は同胞です。 . . .」

ショパンはフランショームに先行きの不安を話し助けを求めているがフランショームは気がつかないのか、

気がつかない振りなのか…。

 「ここの公園はとても素晴らしく、私のホストは素晴らしく、私はできる限りのことをしています。

まともな音楽のアイデアではないかもしれませんが、私はマンネリ化した生活からは抜け出しています。

言ってみれば、仮装舞踏会のロバ、コントラバスのヴィオリンE弦、驚き、戸惑い、まるでバウディオットを聴いているかのような眠気に襲われている。

 (フランコムのライバルのチェリスト)の演奏(2月24日以前)(1848年の革命の始まり

また、6月の暴動後のキャップ氏の擦り音のような音でもある。

彼らが元気でいてくれることを願っています......彼らのことを書かずにあなたに手紙を書くことはできません。」

バウディオットは1773年−1849年のフランス人の作曲家でチェロ奏者のことだが、

ショパンはカルダー・ハウスの庭園で繰り広げられている馬鹿騒ぎからは作曲のインスピレーションは到底湧いてこないことを

皮肉ってフランショームに話した、、

 「しかし、もうひとつの重大な問題が生じています。この恐ろしい経済状況の中で、あなたの友人が無事である事を願っています。

あなたの奥様とあなたの子供たちはどうしていますか?

私に数行の手紙を送ってください。

  私はここでは(物質的には)完璧な静けさを保っています。

少しでも作曲したいと思っています。

アースキン夫人とスターリング夫人に喜んでもらえるために。」

ともあれ、ショパンは自分の心から発する作曲に打ち込むことはこの環境下では無理であるが、世話になっている二人のご夫人のご機嫌取りのためには何か書かなくてはならない現状をフランショームにぶつけた人間ショパンだった…

「私の部屋にはブロードウッド、客間にはスターリング嬢のプレイエルがあります。

紙もペンもたくさんあります。あなたも私に何か書いてください。

神のご加護がありますように。

 ロンドンの友人たちは、私に冬をここで過ごすように勧めていますが、私は自分の内なる喜びの声に従うことにします。

しかし、あるいは、最初に現れた人のアドバイスに従うことにします。

それは慎重に考えるのと同じくらい良いことです。

さよなら親愛なる友よ。」

ショパン、誰が最初に私を助けてくれれのか、とフランショームに訴えかける

ショパンの声は魂は誰に届くのか、いつもいつも返事をくださいと書き続ける聖人ショパンも、人間ショパンなのだ、誰が最初に気がついてくれるのか、ショパンはそれが知りたかった…。