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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

F.Chopin、ショパンにお金を払わなかったプレイエルにショパンは呪いを掛けた…そして、真の友フォンタナとロンドンで再会できず、アメリカ亡命を逃すショパン…

2021.09.01 22:00

フォンタナ写真からとショパン肖像画より、イメージ

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ショパンはエディンバラから12マイル離れた場所にあるトーフィヘン卿の邸宅であるカルダー・ハウスに数ヶ月間留まることにしていた。

ショパンはトーフィヘン卿が所有する広大な農地で働く人々を見て思った…

「ここの領地で働く人々の姿は哀れです。彼らは心は優しい人達です。

それを補うために、獰猛そうな愉快な牛たちがいる!完璧なミルク、バター、卵、そして彼らが生み出すもの、つまりチーズと鶏。」

ショパンは空気に馴染めなかったが食事は

気に入ったのか不明だが、どうにか生きながらえていた。

フランショームに恨み節を書いた後、ショパンはその4日後、プレイエルに書簡を書いた。

「スコットランドに発つ前にできることなら

何週間か平穏に過ごした後、ロンドンから短い手紙を送りました。」

パリのプレイエルへショパンはロンドンから

書簡を既に送ったがプレイエルから返事がないのだ。

「私はあなたの会社のプレイエルピアノの代金80ポンドをトロッター侯爵夫人から受け取

って送りました。

コウスキーは親切にもこの金額をあなたに伝えてくれました。

とても感じの良い若い貴族で、コズミアンが崇拝する友人である」

ショパンはトロッター侯爵夫人が欲しいと言ったプレイエルピアノの仲介役をしたが、

プレイエルからのお礼のお金はショパンになかった。コウスキーにお金を届けさせたショパンなのだが、コウスキーはコズミアン氏から信用ある人物だから、「彼がお金をくすねる訳がないのだ」と、素知らぬ顔のプレイエルにショパン節が炸裂しショパンは呪いの呪文をプレイエルへ送った!

「… 私自身、この美しいスコットランドを一喜一憂することはできません。私が泊まっている家は、家の周りにある

壮麗な公園と樹齢100年の木々。

(ハンプトン・コート、アート?1.スコットランドの改革者ジョン・ノックスが

初めての聖餐式を行いました。壁は8フィートある。

先祖の肖像画でいっぱいの、厚くて果てしない廊下、それぞれが古ぼけて黒くなっている、スコットランド人らしく見えるようになりました。そこには何も欠けているものはない

姿を現わす「赤頭巾」幻でさえ。

結局ヨーロッパ大陸で起こったことなので、

フランスの悪霊と間違えられないように、

幽霊は彼を変えるのに忙しいのだと思う。

私はここでしばらく会っていない。

あなたの赤い帽子が変われば、あなたの国に出没しないが、あなたの考えが変わらなければ幽霊たちがあなたの国に出没しますよ。

(モンモランシー) そして田舎は美しい!

私もそう願っています!

パリに滞在した後は、そこで少し休むことができます。

 神は幸運をあなたに送ってくれる。

私はいつもあなたの友達の中に入れてください。

私はいつもあなたを愛しています。

 本当にあなたがたに私は心を込めて奉仕していますから」

ショパンはプレイエルピアノを紹介して

仲介役をしたが何も返事のないプレイエルに

スコットランドの悪霊がパリのあなたのところへ出没するだろう!

とショパンは最終手段の呪いをプレイエルピアノに掛けたのだ。

このショパンの呪いは現在に続いているのだ…。

それから、数日後のことだ。

ショパンといえば、あのフォンタナを忘れてはならない…。ニューヨークへ行ってしまったフォンタナは、ロンドンに来ていた。

ショパンに会おうとしていたのか事実は不明だが、ショパンの残された文面から、

フォンタナとショパンがロンドンで会うタイミングが上手く合わなかったと見られる…

ショパンはアメリカへ亡命のチャンスを逃してしまった…。

プレイエルに書簡を書いた3日後だった…

「もし気分が良くなれば、明日にでもロンドンに行って最後にあなたを抱きしめたいと思います。

でも、もうすぐあなたに会えなくなるかもしれません。」

ショパンはタイミングを逃し、アメリカ行きを諦めたのか、せめてフォンタナに会って君を抱きしめたい、とスコットランドから

ロンドンの滞在先のフォンタナに書簡を書いた。

「私たちは、時間と状況が悲惨なトリルを演奏している古いチェンバロのカップルです。

そうです、古いチェンバロです!」

やはり、タイミングが合わなかった、なぜなのだ、ショパンは直ぐにロンドンに戻っていたらフォンタナに会えたのだ。

誰がいったい…フォンタナはもうニューヨークに戻らなくてならないのだ、時間切れなのだ…。すれ違うショパンとフォンタナ、

まるで壊れたチェンバロでトリルを二人で奏でる音は悲しみを帯びているのだ。

「たとえあなたが私とそのような壊れたチェンバロのような関係を持つことに抗議したとしても、それは、あなたの美しさや名誉を否定するものではありません。

響板は完璧です。弦が切れたり、数本の釘が飛び出したりしているだけです。しかし、唯一の問題は私たちの壊れたチェンバロはどこかの有名なメーカーが作ったものだからです。」

ショパンの特有の例え話と皮肉は続いた…


「 私は1837年7月にプレイエルとハンプトン・コートに行ったことがあるが、プレイエルは

 ポーランド語で、「単純な人」「愚か者」という意味でもあります。

 彼なりのストラディヴァリウスのようなもので、彼はもう私たちを修理するためにそこにはいないのです。

不器用な手では新しい音を出すことができず、誰もやらないことを自分の中で押し殺してしまう。

ピアノの修理屋がいないからだ。」

壊れたピアノ…ショパンはスコットランドでスターリング嬢のプレイエルを弾いていたが、この話しからすると調整ができていないのだ。しかし、ショパンはそれを世話になっているご夫人方には決して言えないストレスを抱えていた。

 「私は息をするのも精一杯です。

私はもうこのまま諦めようと思っています。

そして、あなたはきっと禿げてきているのでしょう。

禿げたお尻を見せている家の柳のように、私の墓石にぶら下がっていることでしょう。どうしてかわからないけど、亡くなった友人のジョニーやアントニ、ヴィットウィッキ、ソバンスキーのことが頭から離れない。

私が最も親密な関係にあった人たちは皆、亡くなって私のもとを去っていった。」

ショパンは寂しかった、友人を思い出してみてもあの世へ召された人たちばかりとなってしまったからだ。フォンタナは唯一の

古い古い大切なら友人なのだと、ショパンは言いたかった。

「私の最高の調律師のエニークも自殺してしまった。だから、私に合うように調律してくれる人は、世界中のどこにもいません。

ムーが死んでしまったので、誰も私にあのような履き心地の良い靴を作ってくれません。」技術を持った職人が居なくなってしまったと嘆くショパン…。

「あと4、5人でサンピエトロの門に行くことができます。

私も父のもとに集う、ことができれば、私の人生はもっと快適になるでしょう。

私の母と妹たちはまだ生きています、

神に感謝します。

ティティウスはいいやつだ!

あなたは

私があなた方の記憶の中にあるように、あなた方も私の古い記憶の中にあります。」

ティティウスはまだ生きているはずだ、と

すがるようにポーランドの友人を思い出すショパン…。

「あなたは私より年下のようですが(どちらが2時間年上かは関係ありません。

どっちが2時間年上でも関係ないでしょう!

もし私があなたよりもずっと年下であることを受け入れることができるのであれば

あなたがロンドンを通過するときに抱きしめることができるなら、私はあなたよりもずっと若いことも喜んで受け入れます。

…割愛…私がこのような馬鹿げたことを書いているのは、賢明なことが頭に浮かばないからです。」

ショパンはフォンタナを信頼していたから、

自分の方が若いのかもしれない、君には世話になったから、自分の方が下の立場でもかまわないから、君に感謝しているのだよと言いたかったのであろうか。

「私はベジタリアンで、辛抱強く冬を待っています。

私は家の夢を見て、次にローマの夢を見て、今は幸福の夢を見たかと思うと次に不幸の夢を見る。

今では誰も私の好みに合う演奏をしてくれませんが、私はあまりにも簡単に喜んでいる

ふりをするようになりました。

死んでしまうようなソヴィンスキーのオラトリオを聴いても喜んでいるふりができる気がします。

画家のノルブリンの話を思い出す。

ローマのある画家が他人の絵を見て、その効果があまりにも不愉快だったので.彼は死んでしまった語っている。」

イギリスに来てからは、酷い音や酷い絵画を観る環境にさらされたショパンは自分の美意識や芸術的感性が破壊されているのだと、

フォンタナなら理解してくれるであろうと、

ショパンは思ったのだ。

 そして、

「私に残されたものは、長い鼻と、練習していない4番目の指だけです。」

ショパンに用意されていたスターリング嬢の壊れたピアノでは練習にならなかった、

ショパンは4番の薬指にはめたことがある、

コンスタンツァアと交換したコンスタンツァアの母親からの結婚指輪を大事にまだ持っていたのだ。思い出すのはポーランドの頃の事ばかりなのだ。

「私のこの手紙の返事を一通も送ってくれないことは、君の不名誉なことです。

あなたは旅のために悪天候を選んだようですが、

私たちの父なる神があなたを導いてくださることを祈ります。皆様のご多幸をお祈りいたします。

幸せになることを祈っています。

私は、あなたがキューバのハバナではなくニューヨークに定住したことは正しいと思います。

有名な哲学者、エマーソンに会ったら、私のことを伝えてください。エルボーによろしくね。あなたにも私からのキスを。

長い顔をしてはならない。

あなたの古い友ショパンより」

フォンタナはキューバに住んでいたことがあった。

エマーソン氏はアメリカの思想家だが、彼はパリに来ていた頃の1833年以降に

Jardin des Plantes(パリ5区の植物園)で知り合った。ショパンはパリ植物園によく通っていたからだ。

そして、エルボーとはジャン・エルボー建築家のことであった。この二人がショパンを手引きしてフォンタナに渡してアメリカに亡命させる計画であった可能性が見られる。

ショパンは、会えなかったフォンタナに、この書簡を読んだ君は。アメリカへ亡命出来なかった私のことを君は長い顔をして悲しまないようにとショパンは書いた。。。

ラルフ・ウォルドー・エマーソン

(1803年5月25日~1882年4月27日)

ミドルネームのウォルドーを名乗っていたアメリカのエッセイスト、講演家、哲学者、奴隷解放論者、詩人

彼は超越論的な思想を広めた、個人主義の擁護者で、社会の圧力に対抗するための予見的な批判者であった。数十冊の随想録を出版しアメリカで1,500回以上の講演をしたと信じられている。

彼は、1833年にヨーロッパを旅行し、後に1856年の'English Traits'を出版。1832年のクリスマスにジャスパー号に乗船しマルタ島へ行き、数ヶ月をイタリアで過ごした。ローマ、フィレンツェ、ヴェネツィアを旅した。その後、彼はパリへ行き、Jardin des Plantes(パリ5区の植物園)を訪れた。彼は植物学者ジュシューの様式に従った植物の体系に感銘を受けた。

彼はJardin des Plantesで相関関係について洞察し、彼は神学から科学へ興味が移って行った。



ジャン・エルボー

(1807年11月 27日パリ-1880年1月 23日アミアン)

フランス、アミアン修道院、

ブーローニュ=シュル=メールの修道院などの設計をした。