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石川県人 心の旅 by 石田寛人

能登と源平時代

2018.05.19 14:33

 私が「能登」という言葉を最初に知ったのは、平家の猛将能登守教経(のりつね)によってである。小さいころ寝物語に聞かされた源平合戦の話の中で、源氏の英雄源義経に対し、ライバルとして立ち向かったのが、この人であった。大人になって平家物語などを読んだら、教経は、平家が一ノ谷に落ちたあと、西国における六箇度の戦いでことごとく勝ち、屋島の合戦では、義経の身替わりに佐藤継信を弓矢で倒し、源平最終戦の壇ノ浦の合戦では義経を追い詰めたものの八艘跳びで逃れられ、最期は強敵を両脇に抱えて海中に没する印象の強烈な人物として描かれている。彼は、決して義経の引立役や敵役ではない。平家の衰運を感じながらも、自分の運命を引き受けて戦い、死んでいった。教経の生涯については異説もあるが、歴史上数多い能登守の官名を持つ人物の中で、この「能登殿」平教経が圧倒的に有名である。

 その教経を含む平家一門を滅ぼした源義経は、天下を手中にした兄頼朝と不和となり、平泉を指して逃避行を余儀なくされる。この義経一行が能登を経由して奥州に落ちたという説があり、能登には、義経の船隠しや義経弁慶の碁盤石、弁慶の足跡、義経の一太刀岩など、義経一行が能登に来たことに関する伝承が数多く存在する。能「安宅」や歌舞伎十八番「勧進帳」の中で、弁慶は、義経を打擲するくだりで、「日高くは、能登の国まで越そうずると思いしに」と言っている。しかし、義経一代記とも言える「義経記」は、義経一行の行路を詳述していて、それには加賀から越中に入って越後に行く道程が示されている。ただ、この書は、史実からは遠い記述も多く、軍記物語あるいは史伝物語、さらには義経に関する方々のエピソードを綴り合わせたという一面があるようだ。要は、義経の能登踏み入れについては、今は杳として分からないが、このような伝承が多く残っているのは、能登の人々の義経を歓迎する気持ちと、能登が、日本海の交通の拠点として、大きな存在であったことを示すものとも言えよう。

 源平合戦に決着がついた後、都の要人が能登に住まうことになった。

以仁王(もちひとおう)の挙兵に従い源頼政とともに戦って、平清盛に斬られそうになりながら助けられた長谷部信連は、頼朝によって能登国の地頭職に補され、その御子孫は長家として連綿と続いて、前田家の八家のひとつとしてその名が高い。また、清盛の妻二位尼の弟平時忠は能登に流されてきて、御子孫たる上と下の時国家が、重要文化財に指定されているその壮大な屋敷とともに今に栄えている。

 先に挙げた「義経記」では、義経の華々しい戦勝の記述は、現在出版されている活字版にして数行に過ぎず、義経の厳しい年少期、辛い零落期を長く長く詳述している。人間の本性は不遇期に露われることを暗示しつつ、戦いの儚なさを訴えているように思える。

 私は、昔の能登が、合戦が必然的にもたらす敗者も勝者も温かく受け入れる優しさを有していたことを素晴らしいと思う。そして、そのやさしさが、今もしっかり根付いていることを石川県人として誇らしく思っている。(2018年5月19日記)