忠臣蔵の48人
12月14日は忠臣蔵の討入りの日である。前年3月、殿中の刃傷事件で主君浅野内匠頭を失った大石内蔵助以下赤穂浪士47名は、この日、本所松坂町の吉良邸に殿の遺恨がこもる上野介を急襲して、その首級をあげ、高輪泉岳寺で主君の墓前に捧げた。討入った浪士は義士と讃えられ、その顛末は、すぐに歌舞伎や人形浄瑠璃に脚色上演され、大人気を博してきた。芝居では、赤穂方が善、吉良方が悪となっているが、実際はそんなものではなく、上野介は国許でも善政を行った人であったとされる。
義士の墓のある泉岳寺では、毎年この日、義士祭が行われる。私はなるべく当日お参りするようにしており、今年も5時半過ぎに駆けつけた。昼はとても賑やかだったとのことだが、夕刻の寒さのためか、人は減っていたものの、厳粛な空気が境内に漂っていた。
この一件は、今は「忠臣蔵」と呼ばれるが、この表現は、討入りの46年後(数えで47年)に作られた人形浄瑠璃(すぐに歌舞伎に移入)「仮名手本忠臣蔵」から来ている。赤穂義士は47人と言われ、「仮名手本忠臣蔵」という外題も「いろは47文字」からとったものだが、47という数字には出入りがある。まず、吉良邸討入りの後、揃って行動したのは46人しかいない。これは一同の副将格吉田忠左衛門組下の足軽寺坂吉右衛門が討入り後にいなくなったためであるが、寺坂は、勝手に逐電したのではなく、上司に命じられて顛末を関係者に伝えるため姿を消したと言われている。また、敵討ちの大義と肉親の情の板挟みになって討入りのかなり前に自害した萱野三平も、その心は義士であるとされて、仲間に入れられている。この寺坂と萱野を加えれば、一同の数は48人となる。現在の泉岳寺の義士の墓は48を数える。
この顛末を演劇化するに際して、50人弱の群像をうまく表現するのは容易ではない。「仮名手本忠臣蔵」では一同の統率者大石内蔵助(役名大星由良之助)とギリギリで義士に入った萱野(役名早野勘平)と寺坂(役名寺岡平右衛門)の3人、つまりトップと底辺の二人で三角形を構成して全体を表現しているように思える。さらに、寺岡平右衛門の妹お軽が、早野勘平の妻となり、討入りの資金調達のため、一力茶屋に遊女勤めに出ていて勘平の自害を知り、由良之助に請け出されるという関係もつけられている。なお、同じような群像表現に関して言えば、幕末の新選組の場合は、局長近藤勇、副長土方歳三、一番組組長沖田総司のトップ3人に焦点が当てられることが多いように思われる。
忠臣蔵の一件は、加賀能登には遠いことのようだが、討入り後の一同の処分に関して、加賀藩に仕えていた儒者室鳩巣が義士赦免説を唱えたことが注目される。鳩巣の力説にもかかわらず、実際に綱吉将軍が採用したのは、荻生徂徠の切腹説であった。
最後に、「最後の忠臣蔵」とも「最後の敵討ち」とも言われる加賀で起こった事件について触れたい。この一件は、加賀藩の筆頭重役で、幕末から明治期の改革推進者本多政均(ほんだまさちか)が一部の藩士によって殺害され、後に政均の家来達が殺害者を仇討ちしたものである。この事件を機に、明治政府は敵討ちを禁止した。関係者のさまざまな思いがこもり、戦国の遺風ともされる「敵討ち」が、加賀の事件によって終わりを告げたことに、私は格別の感慨を覚えるのである。(2018年12月17日記)