マリー=ルイーズとナポレオン
8月15日はナポレオン・ボナパルトの誕生日。
1769年にコルシカ島で誕生したナポレオン・ボナパルには二人目の皇后がいました。それがハプスブルク家の皇女マリー=ルイーズです。
マリー=ルイーズは、フランス王妃マリー=アントワネットの大姪(甥の娘)にあたります。マリー=ルイーズの父は神聖ローマ皇帝フランツ2世(後にオーストリア皇帝フランツ1世)。アントワネットの兄レオポルト2世の長子です。
後継者を望み、皇后ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネと離婚したナポレオンから結婚の打診があったとき、ハプスブルク家でマリー=アントワネットの運命を思わなかった人はいないでしょう。
フランス革命戦争~ナポレオン戦争で、2度もウィーンから避難した経験のあるマリー=ルイーズです。しかも神聖ローマ帝国が解体したのもナポレオンに皇帝位を奪われないためとあっては、マリー=ルイーズは自分を犠牲者としか思えなかったのではないでしょうか。
ハプスブルクの結婚政策は、マリー=アントワネットの時は友好的な同盟の証となる外交革命でしたが、ナポレオン戦争で負け続けた当時、マリー=ルイーズの場合は友好というより軍事的な同盟の色が強いものです。
1810年4月1日、マリー=ルイーズはナポレオンと結婚式を挙げます。
ナポレオンはマリー=ルイーズを愛し、後継者となるナポレオン=フランソワ(ナポレオン2世)も生まれ、結婚生活は幸福でしたが、ヨーロッパはナポレオンの飽くなき征服欲を恐れ、ナポレオンの没落が始まります。
マリー=ルイーズとの結婚でナポレオンは運を無くしたといわれますが、マリー=ルイーズとの結びつきを平和に生かすことができなかったのは、ナポレオンです。
旧い大国オーストリアとナポレオンのフランス帝国が平和に向かってヨーロッパを導いていたら、今の世界地図は違うものになっていたかもしれません。