Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

美的なるものを求めて Pursuit For Eternal Beauty

東京「上野・寛永寺」は京都づくしであった?

2021.09.02 03:06

(「新・美の巨人たち」<テレビ東京2021.7.31放映番組>主な解説より引用)

 「東叡山・寛永寺」(1625年創建)は、東京・上野にある天台宗関東総本山の寺院である。開基は江戸幕府3代将軍の徳川家光で、開山は天海大僧正(1536-1643)、本尊は薬師如来。

  徳川将軍家の菩提寺であり、歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に葬られている。そして、圧巻の美をまとっている寺院と言ってもいいであろう敷地内の数々の建造物が、どれも重要文化財に指定されている。
 例をあげれば、「旧・寛永寺五重塔」、「上野東照宮」「唐破風造り四脚門」、東照宮社殿の「金色殿」、「清水観音堂」などである。
 特に、平成31年から5年の歳月をかけて修復されたという「金色殿」(上野東照宮・社殿)の壮麗な美の建築に目を見張った。日本工業大学名誉教授・工学博士の波多野純氏は語った。「最初に「漆」(うるし)を塗るところからはじまり、次に「金箔」(きんぱく)を手作業で貼っていく。(ここで使われた金箔はおよそ11万枚)さらに、その金箔上に「彩色」を施していく。徳川の永久を願って建てられた建築物であることから、修復とはいえ職人さんがここで費やした時間とエネルギーは大変な量とご努力になる」と。
 また、狩野探幽が描いたとされる襖絵も、およそ400年前の描いた当時のままの絵画も残されている。
 この寺院は、京都にある比叡山・延暦寺の再現ともいえる構想のもと、徳川家に仕えた天海大僧正が造営を指揮した。さらには、「不忍池」も滋賀県の琵琶湖に似せて、天然の池から人工的に拡張した経緯がある。
 中国の風水や陰陽道にも通ずることではあるが、京都御所から見て「北東」に位置するエリアを「鬼門」として、比叡山を建立したように、江戸城から見て「北東」の方角である上野の地に、「寛永寺」を配し造営したことで、ここでも京都に似せた造営の目論みがあった。 
 さらには、京都の名刹「清水寺」の再現ともいえる「清水観音堂」を、ここ寛永寺の境内に造営した。
 このように、まるで「京都づくし」ともいえる造営建築物の数々は、徳川家の未来にまで向けた天下泰平を祈る菩提寺としての風格と気品を、今でも漂わせてい る。
 毎年春になると、桜のお花見の名所の一つとして名高い上野公園の桜である。実はこれも、現在の東京国立博物館前にある噴水広場の位置に、当初の寛永寺本堂が置かれていたことから、本堂に向かう参道に、奈良から吉野桜を移植して育て上げてきたことから、今日の桜の名所・上野へとつながっているという由来がある。
 今回のアートトラベラー本仮屋ユイカさんは番組の最後に語った。
「天海さんが当時の名プロデューサーであったことから、楽しめる場所の少なかった当初の江戸にあって、<人を楽しませたい>ことも意識してはじまった上野エリアでの寛永寺造営。このことがあったからこそ、今の東京・上野公園の広々として素敵な<癒しの公園>につながっているのですね」と。 


(本番組を視聴しての私の感想綴り)
 「上野は小さな京都?」その意味がわからずにいたが、本番組を視聴して、寛永寺の不思議な世界、上野公園とのつながりなど、私にとってもいくつかの「謎」が解けた気がした。
 特に印象に残った点を、3点挙げてみたい。
① 昔は、上野公園、不忍池、上野駅、東京国立博物館辺りの一体エリア全てが、寛永寺の境内・敷地の一部であった点である。

身近な例でも、よく地域にある公立学校の隣接地に寺や神社があると、その大小はあるが以前は、お寺や神社の敷地であって、そこから譲り受けたりという例をよく聞いた。

 東京にも、都内中心部には、皇居はもとより明治神宮や新宿御苑など広大なオープンスペースが、今でもいくつか点在しているが、上野公園一帯もそのうちの一つであり、広大な敷地のベースにあったのが、寛永寺であったことを改めて知った点である。

② 以前に、日光東照宮をテーマにした本番組でも触れていたと記憶するが、徳川家康は、風水や陰陽道に連なるであろう「鬼門」などに、とても敏感であったためか、京都御所から北東に建てた「延暦寺」に似せて、江戸城から北東の位置にある今の上野一帯に、「寛永寺」を造営したことのこだわりに、興味を抱いた。

 もっともこだわりのレベルではない、信仰や思想のレベルかもしれないが。権勢を誇ったり、絢爛豪華の披歴という点では、安土桃山時代の豊臣秀吉を超えるほどではなかったかもであるが、その影響は天下の徳川将軍家であるゆえ、間違いなくその一部は引き継いでいるのであろう。

③ 江戸のまちづくりの一環として、将来を見据えた構想を天海僧正が持っていたかどうかは定かではないけれど、不忍池の拡張といい、奈良からの「吉野桜」の持ち運びによる移植といい、アミューズメントの少ない当時の江戸エリアにあって、多くの庶民に「お花見」による楽しみの場の提供など、懐の深い方であったのであろうと推測する。

 歌川広重の描いた中にも、「東都名所 上野東叡山全図」として、当時の寛永寺の広大な敷地の様子が、絵画として残されている紹介があった。

   「時を超えた今でも、天下泰平への想いが息づいている」という古(いにしえ)の歩みを噛み締めるとともに、少しでも早く、コロナ禍が終息して、また各地で春の「お花見」が叶えられるよう、願ってやまない。


写真:  「新・美の巨人たち」<テレビ東京2021.7.31放映>より転載。同視聴者センターより許諾済。

「東都名所 上野東叡山全図」歌川広重/ 作 天保年間(1830-1844)

寛永寺の境内敷地全体エリア(グリーン部分)を、現在地図に覆ってみた俯瞰図


「上野東照宮社殿 唐門」(金色殿) (1651年造営 2014年修復完了)

<国指定・重要文化財>

「清水観音堂」寛永8(1631)年建立 天海大僧正  京都「清水寺」を見立てたお堂 <国指定・重要文化財>


「旧寛永寺・五重塔」寛永8(1631)年建立 <国指定・重要文化財>