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ゆとりらYOGA

「永田キング」(読書感想)

2021.09.03 14:45

永田キング、という芸人さんの名前を知ったのがいつだったか、覚えていないのですが…

戦前、アメリカで大人気だったグルーチョ・マルクスを真似た扮装で大人気で、映画に主演したり、戦後はアメリカに巡業にまで行ったらしいのに、当時の人気芸人に比べてあまりにも資料が少ない…それはいったい何故なのか?というところから、関西の大重鎮、澤田隆治氏が劇場の香盤表や新聞広告を探し当て、彼の一生を辿る1冊。

昔の芸人や俳優の評伝が好きなのと、新聞の書評で気になったので図書館で借りました。


グルーチョ・マルクス(を含むマルクス・ブラザース)の映画は大好きだけど、日本で物真似していたというこの人の映像は観たことがありません。この程度の興味で、読破できるかな~、と思ってたら・・・いやあ!興味深い記述がたくさん!


澤田氏によると、大阪で漫才が根付いたきっかけは

ところで、大阪で漫才が市民権を得た背景には大正十二(1923)年の関東大震災がある。大震災で壊滅的打撃を受けた東京(関東)から、労働者や被災者が職を求めて関西に移住してきた、その結果、大正十四(1925)年には大阪市が東京府東京市を抜いて日本一の最多人口都市になり、大阪の下町には多くの労働者が居住することになる。また大震災の復興受注もあり、大阪の工場は活況を呈する。安治(あじ)川沿いの下町の工場は一日三交代の勤務形態になっていた。そんな夜勤明けの労働者を当て込んで、吉本興行部は所有の寄席小屋で昼席を開設する。

(中略)

この入場料金が安価な十銭だったことから「十銭万歳」とよばれた。」

(P33~34「スポーツ漫才誕生!『昭和初期の漫才模様』」)


当時、落語は夜席の後、キタやミナミのお座敷余興に呼ばれては翌日は昼まで寝ている、という生活だったため、一段下の色物とよばれる万歳師が昼席に出るようになった・・・その流れがエンタツ・アチャコのしゃべくり漫才へ…と続きます。

もっと前には三河万歳と音頭万歳というのがあったそうですが、関東大震災で人が大きく動いて文化が生まれたということ、初めて知りました。


それから、兵庫県西宮市甲陽園にあった「極東映画」に関する記述が少しだけ出てきます。

昭和10年~16年という短い期間だけ存在した短命な映画製作会社だそうで、我が家のすぐ近所がその跡地(今は池が残っているだけ)で、説明の看板も立っています。

※追記 
この間、甲陽園のその場所に行ってみたところ、そこの説明看板には「大正七年に甲陽園の開発が始まり『東亜キネマ』が出来たが昭和二年、不況の波に閉鎖された」旨が表記されています。その後に「極東映画」が一時的に甲陽園にあった記述はありません。
「極東映画」が甲陽園で撮影していたのは実質1年ちょい位らしく、その後は、現在の羽曳野市の「古市撮影所」に移ったそうです。


ここで製作されていた映画に「吉本新喜劇」の役者が多数出ていたらしく、この本には、

「吉本新喜劇は、戦後、松竹新喜劇の向こうを張って吉本新喜劇と名乗り現在に至っていると思われていたが、すでに戦前に、吉本新喜劇が誕生していたことになる。」

(P179「キングスタイル始動!『昭和十三年後半期と吉本新喜劇?』」)

ふむふむ。


澤田氏はとにかく足を使って捜査するベテラン刑事さんのように、地道に資料に当たっては、その関係者を探すという作業を繰り返しています。

結果、永田キングのおおまかな生涯が分かり、彼が何故、往年の名人達のような成功を掴めなかったのか、を考察しています。

主演映画も数本撮っていたので、今も、特集上映等があればで観ることも出来る筈ですが…

実はこの本が出た2020年に、出版記念の映画の上映会も企画されていたらしいのですが、コロナ禍で中止になり、そして、今年の5月には澤田氏が亡くなってしまいました。

ぜーんぶ繋がって、澤田氏の考察通りの展開がそのまま続いているように思えてきます。


でも、50年近い時を経て、生涯が1冊の本にまとまるなんて、幸せな芸人人生。

巻末についている年表が50ページもあり圧巻!


永田キングよりはだいぶ年下ですが、同じ時代を生きた芸人(というか喜劇役者)三木のり平の評伝も面白かったです。