「ひとびと」と「ひとりひとり」から見える日本語の柔軟性・多様性
1 ひとびと
多くの人を意味する「ひとびと」を漢字で表記する場合に、どのように書くべきかと悩まれたことがないだろうか。
正解は、「人人」だ。
通常、「人々」と書かれることが多いが、「々」は、漢字ではないからだ。
「々」は、「ノマ」・「重字(かさねじ)」・「畳字(じょうじ)」と呼ばれる符号であって、片仮名の「ヽ」、平仮名の「ゝ」とともに「踊り字」の一種だ。
一発変換するにはどうしたらいいかと悩まれて、検索したら、「々」が漢字ではないことを知ったという方も多いと思う。
「々」は、「同」の異字体である「仝(どう)」を変形させた符号だから、「どう」を変換すれば、「々」が出てくる。
余談だが、「踊り字」には、漢数字の「二」を崩した「二の字点」と呼ばれる符号「〻」がある。これは、「揺すり点」(ゆすりてん)」とも呼ばれ、主に縦書きの文章に用いられる。
「〻」は、「各〻」(おのおの)、「屡〻」(しばしば)のように、訓読みを繰り返す場合に用いられるが、現在では「々」が代用されることが多い。
日本国憲法の原文では、「各〻」(おのおの)が六箇所登場するのに(第55条、第56条第1項、第57条第2項、第58条第1項・第2項、第62条)、e-Gov法令検索では「各々」と表記している。
話を戻そう。「々」が広く用いられるようになったのは、昭和27年(1952年)の内閣総理大臣官房総務課が発した『公用文作成の要領』が「同じ漢字をくりかえすときには「々」を用いる。」と準則を定めたことによる。
その結果、国の法令は、「ひとびと」を「人々」と表記しており、「人人」と表記している現行法令はない。
ex.1食育基本法(平成十七年法律第六十三号)
(食に関する感謝の念と理解)
第三条 食育の推進に当たっては、国民の食生活が、自然の恩恵の上に成り立っており、また、食に関わる人々の様々な活動に支えられていることについて、感謝の念や理解が深まるよう配慮されなければならない。
ところが、「人々」を用いた自治体の例規は、一切ないのだ!
自治体の法規担当者は、仕事柄、言葉に厳格になるのは致し方ないのだが、『公用文作成の要領』や『常用漢字表』などをまるで錦の御旗の如く掲げて、ダメ出しなさるのに、『公用文作成の要領』で定められた「人々」を用いていないのは、摩訶不思議だ。
自治体は、「ひとびと」を「人人」、「人びと」、「ひとびと」と表記している。
「人びと」と表記するのは、「人人」を「にんにん」と音読みすると(『忍者ハットリくん』を連想した人は、かなりのお歳だ!笑)、「各人。めいめい。」という意味になるので、誤解を避けるためかも知れない。又は、「人々」ではなく「人びと」と表記することにより、濁音であることをはっきりさせたいためかも知れない。
条例規則その他の規程で「ひとびと」を用いたものはないが、告示、公告その他で「ひとびと」が用いられている。「ひとびと」と平仮名表記にするのは、事柄の性質上柔らかい表現をしたいためだろうか。
ex.2小松市立博物館・美術館設置条例 (令和2年3月25日 条例第6号)
(設置)
第1条 歴史,芸術,民俗,産業,自然科学分野に関する資料(以下「博物館・美術館資料」という。)を収集し,保管し,展示して教育的配慮の下に人人の利用に供し,その教養,調査研究,レクリエーション等に資するために必要な事業を行い,あわせて博物館・美術館資料に関する調査研究を行うため,博物館法(昭和26年法律第285号。以下「法」という。)第2条第1項に規定する博物館として,小松市立博物館・美術館(以下「博物館・美術館」という。)を設置する。
ex.3藤沢市環境基本条例( 平成8年9月20日 条例第16号)の前文(抄)
私たちのまち藤沢は,豊かな緑,美しい湘南の海などの素晴らしい自然環境と温暖な気候に恵まれ,歴史と地域の特性を生かしながら,ここに生活する人人の参加と努力により今日まで商工業,農業,観光,文教,住宅など多様な性格を持つ調和のとれた都市として目覚ましい発展を続けてきた。
ex.4甲府市名誉市民条例( 昭和28年9月25日 条例第31号)
(賞牌の授与)
第3条の3 名誉市民には、その功績と栄誉を永くたたえるとともに広く人びとに顕彰するため賞牌を授与する。 (昭42条例20・改)
ex.5長崎県交通安全の保持に関する条例( 昭和41年12月20日長崎県条例第67号)
(目的)
第1条 この条例は、交通安全対策基本法(昭和45年法律第110号)及び道路交通法(昭和35年法律第105号。以下「道交法」という。)とあいまって、県民の生命、身体及び財産を守るため、交通安全教育等を実施することにより県民すべての人びとの協力のもとに交通道徳の向上を期するとともに、交通安全施設を整備拡充し、もって交通安全の保持を図ることを目的とする。
一部改正〔昭和47年条例13号〕
ex.6加古川市民憲章 (昭和39年11月3日 告示第21号)の抜粋
恵まれないひとびとを助け、励まし合おう。
ex.7京都市基本構想 (平成11年12月24日 公告)のまえがき(抄)
ここに掲げる「京都市基本構想」は,21世紀の最初の四半世紀における京都のグランドビジョンを描くものである。 京都市は,1978(昭和53)年,京都がめざす都市のあり方を「世界文化自由都市」としてとらえ,これを世界に向けて宣言した。この理想を実現するために,1983(昭和58)年には,伝統を生かしつつ未来に向かっていつもいきいきと創造を続けるまちをめざし,2000年という将来を展望した「京都市基本構想」を策定した。この構想に基づいたまちづくりを推進するために,1985(昭和60)年には「京都市基本計画」を策定したのに続き,さらに1993(平成5)年には「新京都市基本計画」を立て,21世紀の文化首都をめざし,「平成の京みやこづくり」を進めてきた。全世界のひとびとが,民族,宗教,社会体制の相違を超えて,平和のうちに自由に集い,開かれた文化交流を行う都市として,京都は「世界のなかの京都」という大きな視野のなかでとらえられてきた。
2 ひとりひとり
では、「ひとりひとり」を漢字で表記する場合に、どうすればよいのだろうか。
悩むまでもなく、正解は「一人一人」だ。
ところが、昭和28年11月文部省の『用字用語例』によれば、「一人,独り」は、「B 当用漢字音訓表に音または訓が認められていない字」であることから、「ひとり」と表記するとされていた。
従って、当時は、「ひとりひとり」と表記するしかなかった。
https://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/series/21/pdf/kokugo_series_021_07.pdf
しかし、昭和48年に改定された『当用漢字音訓表』の付表によって、「一人」と書けるようになり、これが昭和56年内閣告示の『常用漢字表』及び平成22年内閣告示の『常用漢字表』にも受け継がれたことから、文科省の平成23年3月31日付『用字用語の表記例』では、『常用漢字表』の音訓に従って、「ひとりひとり」を「一人一人」と書くことになっている。
そのため、国の法令では、全て「一人一人」と表記されている。
ex.1教育基本法(平成十八年法律第百二十号)
(生涯学習の理念)
第三条 国民一人一人が、自己の人格を磨き、豊かな人生を送ることができるよう、その生涯にわたって、あらゆる機会に、あらゆる場所において学習することができ、その成果を適切に生かすことのできる社会の実現が図られなければならない。
自治体でも、国に準拠して、「一人一人」と表記している条例が6459本、規則が281本ある。
ところが、自治体の中には、「一人ひとり」と表記している条例が2020本もあった。「一人一人」の場合には、漢字が4つも並んで堅苦しい印象を与えるため、柔らかい表現にしたいからだろうか。
ex.2大阪市人権尊重の社会づくり条例 (平成12年4月1日 条例第25号)の前文(抄)
すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。国際社会においては、世界人権宣言が採択されて以降、私たち一人ひとりが人権尊重を基礎として世界の人々と共に歩む姿勢が求められている。
もっと面白いのは、日常生活で見かけることが滅多にない「ひとり一人」と表記している条例が5本もあることだ。これも柔らかい表現にしたいからだろうか。
ex.3国東市健康づくり及び地域医療の確保に関する基本条例( 平成28年6月27日 条例第32号)
(基本理念)
第3条 市民の健康は、生涯にわたって保たれるべきものである。
2 健康づくりは、市民ひとり一人の自主的かつ積極的な意思に基づき行われるものとする。
3 健康づくりは、家庭、地域、学校、職場その他の社会全体で支援するものとする。
4 地域医療は、良質かつ適切な医療の提供及びその適切な利用により、将来にわたって持続的に確保されなければならない。
5 地域医療は、医療機関等、福祉その他の関係機関との連携により確保されなければならない。
3 日本語の柔軟性・多様性
法制執務は、専門技術性が高いため、国と自治体との間に大きな違いはないけれども、自治体は、住民と身近であるだけに、法文が住民に与える堅苦しい印象を和らげるために、表現を平易にする傾向がある。
これを自治体法制執務の独自性と捉えるか、稚拙化と捉えるか、それとも日本語の柔軟性・多様性と捉えるかは、立場によって異なろう。
いずれにせよ、ありふれた言葉一つ取ってみても、国や自治体によって表現の仕方が異なるのが、私にとっては面白い。