「生死一如」、日中共通の文化
黄 文葦
筆者は年間を通して新聞を購読している。毎日、新聞と一緒に届けられるチラシの束は、基本的に日常生活に関連する広告だ。例えば、スーパー、不動産、塾、スポーツジム、旅行、ゲームセンターなどの内容である。もう一つ、葬儀や墓地の広告もよく見かけるものである。
もしこれが中国だったらと考えると、人の家の郵便受けに広告を入れる葬儀屋はいないだろうし、不吉になると思われて、叱られてしまうと思う。日本では、皆がこれに慣れているだろう。 お年寄りの街として有名な巣鴨地蔵商店街では、おしゃれなおばあさんたちがグループで飲み食いし、アイスクリームを食べた後、「終活」を企画しているお店に群がって質問している姿がよく見られる。 日本人は平気に墓地のそばの家に住む。ほとんどの中国人にはそれは無理だ。確かに、日本と中国、「死」に関する意識が違っている。
中国の伝統文化は数千年にわたって儒教の影響を受けており、人生の核心的価値は忠孝である。人が死ねば人生の意味は無に帰し、満たされなかった因縁、享受できなかった恵み、実行できなかった行いはすべて消えてしまう。
もう一つの理由は、中国人には独自の宗教観がなく、神を恐れることもなく、生と死が見えず、人生の誘惑を捨てることもできず、生きることがすべてであり、中国では「好死は頼活に如かず」と、日本では「命あっての物種」に相当することわざがある。とにかく、泥臭く生きること。
ところで、仏教には「生死一如」という言葉がある、これは中国人にも日本人にも理解しやすい言葉だろう。それは、「生と死」がコインの表裏のように一つになって切り離せないということだ。 死があるからこそ、私たちは全力で熱意を持って生きていくことができる。
誰にとっても、死は100%の確率で遅かれ早かれやってくる未来だ。 だからこそ、死を直視し、人生を精一杯楽しみ、自分の身を守っていかなければならない。このようにして、「生死一如」という意味を実感することができる。荘子の「斉物論」の最高境界は「生死一如」だ。生と死を人生の全体として捉えれば、損得勘定、死の恐怖を克服できる。
生は死の始まりであり、死は生の終わりであり、一つの生の終わりは別の生の始まりである。落ち葉が花を養い、枯れ木が若草を育てるように、一見散ったように見える生も実は別の形で生き続けており、様々な形の「生」がカラフルで華やかな世界を構成している。
2021年4月4日、脚本家、劇作家、タレントである橋田壽賀子さんが急性リンパ腫のため95歳で亡くなった。 何世代にもわたって中国の視聴者にもよく知られている日本のドラマ「おしん」は、橋田壽賀子の代表作である。
近年、橋田壽賀子さんは、「死」についての言論が注目されている。「安楽死宣言」で大きな反響を呼んだ。「幸せな死に方とは何か」、橋田壽賀子さんが探索してきた。悠々自適な終活期を過ごされていたので、羨ましい限りだ。人生100年時代、人はどう生き、どう死ぬべきですか、私たちの生涯の宿題になるだろう。