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年間第24主日(B)

2021.09.10 20:00

2021年9月12日 B年 年間第24主日

福音朗読 マルコによる福音書 8章27~35節

イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。
それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。

 私たちは 今、ミサに参加することも難しく、ほとんどの行事が中止される状況に置かれ、誰もがどうしたら教会共同体を維持・発展できるのか、頭を悩ませていることでしょう。しかし、コロナ以前から教会は、高齢化や司祭・修道者の減少など、様々な課題を抱えていたことに変わりありません。それでもとかく喧騒に包まれやすい日常生活の中にあると、いざ大きな課題に取り組むきっかけは見出しにくいものでしょう。ですから、その日常生活そのものが揺さぶられている現在の状況を、かえって困難な現実に向き合うきっかけにしたいものです。そんな私たちが信仰の原点を見つめ直し、イエス・キリストに従う道を歩むために、よい示唆を与えてくれる今日の福音を共に味わってまいりましょう。

 「イエスとは何者であるのか?」ということは、イエスに接する人が必ず直面する問いです。その問いに対して、「イエスはキリストである」と宣べ伝えることが、福音書はもとより新約聖書全体の主題です。今日の個所は16章からなるマルコ福音書のほぼ中央に置かれ、イエスとは誰かという問題を直接的に扱っているので、この福音書 の中でも非常に重要な場面だと言えます。それは、先週もここで言及されていた、マルコ福音書の冒頭の「神の子イエス・キリストの福音の初め」(マコ1・1)という荘厳な宣言と呼応しながら、福音書全体の主題を提示しているからです。

 それほど重要な場面が、イスラエルの北端に位置するフィリポ・カイサリア地方を舞台に展開したことは、注目に値します。そこはヨルダン川の源流部分で、大きな岩と豊富で澄んだ水が織りなす見事な自然の景観が広がっています。そのような環境に恵まれた土地 であるからか、そこにはかつてギリシアの神パンに捧げられた神殿がありました(この辺りの現在の地名「バニアス」はパンに由来)。つまりそこは、イエスと弟子たちの生活の場、活動の中心であるガリラヤから離れた、異邦人の世界との境界部分、イスラエルにとっての周縁なのです。

 そのような地に出掛けて行ったイエスは、人々がご自身を何と呼んでいるかを尋ねました。この時イエスの名はすでに知れ渡っていましたが、人々は殺されたはずの洗礼者ヨハネが生き返ったのだとか、終わりの日が来る前に遣わされるエリヤだとか、預言者の一人などと言って、イエスが何者であるかを好き勝手に解釈していました。イエスのなさる奇跡、教え、活動の新しさに向き合って、その名を信じて受け入れる代わりに、彼らはそれを古い自分たちの理解の枠組みに押し込めてしまいました。それは不可解さからくる不安を解消するためか、あるいは嫉妬心のためか、単なる野次馬根性か、いずれにしても、イエスについて騒々しく話題にするだけでは、イエスとの人格的な出会いには結びつきません。

 イエスがフィリポ・カイサリア地方に出かけてきたのは、そうした雑音から離れ、弟子たちに普段の慣れ親しんだやり方から一歩退かせ、心の奥を見つめさせる促しだったのかもしれません。その上で、改めてイエスは弟子たちにご自身を何者だと言うのかを尋ねます。この時イエスが口にした「あなたがたは」という言葉には、この問いかけの切実さが現われています。イエスはご自身のそばに置くために自ら選んだ弟子たちと人格的な出会いを果たし、彼らがご自身のことを深く理解するように強く望んだからこそ、彼らと面と向かって「あなたがたは」と問いかけたのでしょう。

 これに対しペトロは、「あなたは、メシアです」と答え、ただ一言で、しかも この上なく的確に答えています。そこには人格的な交わりが見て取れるだけでなく、そこで語られていることは、 神の啓示によらなければ信じることができない神秘です。だからこそ、その言葉は単にペトロの信仰告白であることを越えて、あらゆる時代のキリスト者の信仰の原点になりました。また現代の私たちも、ミサの中で「主よ、あなたは神の子キリスト」と、私たちの信仰を、ペトロの言葉で告白するのです。

 このペトロの信仰告白をきっかけに、イエスはご自身のメシアとしての使命を弟子たちに明かし始めます。それは、ご自身がエルサレムの権威者たちによって多くの苦しみを受け、排斥され、殺され、三日目に復活しなければならない という衝撃的な内容でした。それはおよそ、栄光に満ちた偉大な王、他国の支配からイスラエルを解放する指導者などという、当時の人々のメシア理解とは相容れないものでした。だからこそ、イエスはこのことを話さないようにと弟子たちに厳しく命じられました。

 しかし、ペトロにとってメシアであるイエスは偉大な存在でなければならなかったので、受難を予告したイエスをわきに連れ出し、いさめ始めてしまいました。彼はそんなことはあるまじきことで、口に出してはいけないと、イエスに言い含めようとしたのでしょう。それも、イエスを思う100%の善意によって。ただし、弟子が師であるイエスの前に立ちはだかって脇に連れ出し、考えを変えさせようと説得を試みるなどということが、どれほど出過ぎた真似であるかについて、ペトロは考えが及んでいません。ですから、この時点のペトロの信仰は、語られた信仰告白の内容の正しさとは裏腹に、まだ人間的な思いから抜け切れていない、不完全なものだったのです。

 そんなペトロは、イエスにサタンと呼ばれ、厳しく叱られてしまいました。またこの後、受難の場面でイエスを裏切り、どん底を経験します。しかし、彼は やがて、復活のイエスとの出会いと聖霊降臨によって変えられて、メシアは偉大な王などではなく、人々のために苦しみを引き受ける存在であることを心の奥深くで受けとめて、十字架に付けられて死んだイエスが、復活して今も生きていることの証人になりました。それはこの時イエスが教えられたとおりの、自分を捨てて、自分の十字架を背負ってイエスに従う生き方に他なりません。そのように生きる者とされたペトロは、言葉としては同じ宣言でも、恵みによって以前よりも深められ、浄められた信仰によって、「イエスは神の子キリストである」と、人々に宣べ伝えたのです。

 私たちも、イエスに従って歩むためには、ペトロと同じような道を辿る必要があるでしょう。まず、私たちもイエスを何者だと言うのかが問われています。キリスト者である私たちは、「あなたは、メシアです」と答えること ができるでしょう。その時点で神の恵みが私たちに働いているに違いなく、そのことは心から感謝すべきことです。しかし、それだけでは十分ではありません。イエスがどんな方であるかを知ることに終わりはないからです。ですから私たちは、聖霊に心を開きつつ、イエスが何者であるかについての私たちの答えが、信仰の旅路の中で日々深められるように祈る必要があるでしょう。

 そのためには、自分の考え、自分の理解が、どのような前提によっているのかを、しばしば振り返らなくてはなりません。そうでなければ、人間の思いに囚われていることに気づかず、イエスのことを自分に都合良く理解し、その理解と異なることが起きた時、イエスの前に立ちはだかろうとすることもあるからです。「こんなに祈っているのに、なぜイエスは願いを聞いてくれないのか?なぜ道を示してくれないのか?」といった嘆きは、キリスト者なら誰しもが体験するでしょう。それは真剣な叫びに違いなくとも、神のこと を思うのではなく自分のことを思い、自分の命を救おうとしているだけなのかもしれないのです。

 私たちはむしろ、イエス・キリストの受難と復活によって救われた喜びに生かされるなら、自分の願望ではなく、神が自分に何を望むのか、この状況、この場所で、この自分が、イエスのため、また福音のために何をするべきかを探し求めるようになるはずです。それは、自分自身を捨てることのようでありながら、かえって、イエス・キリストの永遠の命に与ることなのです。また、それは自分一人がそうすればいいというものではありません。事実、十字架を担ってイエスに従うようにとの教えは、失敗を犯したペトロだけに向けられたのではなく、弟子たちと群衆を呼び寄せて言われたものでした。ですから、私たちキリスト者は、一人ひとりが、また共同体としても、自分を捨てて十字架を担い、神の御旨を探し求めながら、互いに手を携えて福音を証しするように招かれているのです。

 誰にとっても困難な日々にあって、私たちがそれぞれ担うべき十字架を見出し、先頭を歩むイエス・キリストに従って、喜びと勇気を持って新たな道を進み、使徒ペトロと共に、イエス・キリストの名を証しすることができますように。

(by F.N.K)