福音書に秘められた霊的真理
イエスキリストの言葉には、スピリチュアリズムの教えに類似する霊的真理が秘められています。
数十文字の言葉を紐解いていくと、人生を生き抜くために必要な教えが込められているのです。
下記にいくつかマタイによる福音書より抜粋して綴っていきます。
【人はパンだけに生きるにあらず】(福音書4章4節)
ここで言うパンは「お金」と言い換えることもできます。
イエスはパンだけで生きるにあらず、と言っていますが、現実世界ではパン(お金)がないと生きていけないのも事実。
ですが、お金は人生を生きていくための一つの道具に過ぎません。
その道具に振り回されるような人生を送ってはいけないのです。
むしろこちらがお金を操るべき。酒は飲んでも飲まれるな、という諺がありますが、それと一緒でお金は使ってもお金に翻弄されてはダメ。お金に支配されたら最後、後戻りは困難なのですから。
【人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである】(福音書7章1節)
これは山上での説教の一節。
誰しも他者に攻撃されたら、仕返しをしたいと思うでしょう。
しかしこの世には神の定めた「因果の法則」という節理があります。
悪事を働いた者には100%ブーメランが返ってくる仕組みになっているのです。
だから自らが手を下す必要はありません。罪人の行末は神に委ねましょう。
因果応報できちんと自身が受けた攻撃を向こうも受けます。
この法則を無視して必殺仕事人まがいなことをすれば、因果の法則が稼働して己に罪人と同じ負のブーメランが返ってきます。
だからイエスは「人を裁くな。さもなければあなたも裁かれますよ」ということを言っているのです。
この言葉の真意はそういった因果律の存在を示していたのです。
【なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ】(福音書8章26節)
ここで言う信仰とは霊的真理を理解しようとする姿勢のこと。
人間、何かトラブルが発生したとき、冷静かつ理性的に対処すれば複雑に絡んだ運命の糸を解きほぐすことが出来るのに、多くの人がオロオロ・イライラとするばかり。
「越えられない試練を与えられることはない」という霊的真理があるにもかかわらず。
篤い信仰(霊的真理)を持つ者には怖れるものなどありません。
失う恐怖、病気への恐怖、天災への恐怖、不幸への恐怖、そして死ぬ恐怖。
信仰なき者たちが怖れる様々な恐怖は、篤き信仰を持った者たちからすれば微塵も恐怖の対象ではありません。
霊的真理で解決しますし、場合によっては極上の幸福だとも感じます。
私は霊的真理を吸収してから死への恐怖がなくなりました。奇矯なことを言うようですが、死ぬのが楽しみとなったのです。今すぐにでも逝ってしまいたいほど。自殺はしませんが。
怖れるものがないとはとても生きやすく幸福なことと断言できます。