我が町 小鹿野
少し前になりますが某情報雑誌へ寄稿しましたコラムをシェアさせていただきます。私の想いを読みとって頂けたら幸いです。
みなさん、はじめまして 小鹿野町議の高橋耕也です。秩父の奥地「おがの」 みなさん、東京での生活に疲れていませんか? 私も以前は東京の企業で日夜問わずバリバリ働いていました。しかし、三十路の半ばくらいになるとカラダのあちこちにガタがきますよね? 東京での生活は人間にとって、とても不自然なライフスタイルだと実感します。狭くて息苦しい東京のコンクリートジャングルにず~っといると病気になっちゃいますよ! そこで提案です。「ナンにもナイ」秩父の僻地「小鹿野」で、なんにもしないで過ごしませんか?
「小鹿野町のいいところ教えてください」
以前の私はこの質問がいちばん困りました。だって何もないんですもん。
しかし何度も聞かれて思ったんです。じゃあなんでここに来るのかなと?
目線を変えて考えてみると、何となく見えてきました。「情報ではなく感覚で季節の変化を感じられる」ということに。
どういうことかというと、都会の季節の変化って、いつも「ちょっと先取り」ですよね。
それは、都会ではビルボードやデパートのショーウィンドウなどで、季節の変化を無理やり感じさせられているために、季節の変化を肌で感じる前に、目や耳から「もう少しでこの季節きますよ~」ってフライングして情報が入ってきます。
9月に入るとハロウィンの仮装道具が売られはじめ、11月頃にはクリスマスケーキやおせちの予約のポスターを見かけるようになり、年が明けるとバレンタインを見かけるようになります。
都会を歩くと、自分の実感よりも少し早くイベントを知らされ「もうすぐそんな季節かぁ」と1か月ほど早くその時期をご丁寧に「お知らせ」されます。
しかし、田舎では季節の変化は常に「同時かちょっと遅れて」やってきます。
小鹿野町では、田んぼに水がはられ、稲穂が実り頭を垂れ、刈り取られてはざかけが出来上がって季節の移ろいを知ります。
ホタルを見て夏の始まりを感じ、とんぼが低地に飛来し秋を感じ、霜が来て冬を知ります。
田舎にいると、食べ物や気候、その土地に住む生き物から季節を感じやすく、いつもその季節が始まってから「もうこんな季節か」と気づきます。「今年は冬が早えなぁ」なんて言葉はこんにちは的な使われ方で季語ともいえるでしょうか。
ただただ里山を歩くだけでも日本の原風景がそこにありそこには何もないから気づく音や香り、夏には川の音や少し木陰に入れば涼やかさを感じられる。また、夜にはカエルの大合唱の中そっと眠りにつく、秋には色鮮やかな里山の紅葉がはらはらと舞い、冬には深々とした静けさに煌々と輝く満天の星、田んぼのあぜ道を子供が学校から帰る姿を眺めるだけでもほっとできるそんな日本がここにはあります。
実際に都会からちょっと田舎にきて感じる違いは、物質的な豊かさよりもストレスの無さだったり、ちょっとした変化が見えて嬉しかったり、そういうちいさな事が嬉しく感じられるような元々ある心の余裕が起きる瞬間にあるように思います。
そんな風に感じることが出来たらやはり都会の情報量・人・物の多さに多少なりとも疲弊していたんだなと自分をリセットしまた英気を養えるのではないでしょうか
田舎の良さは「何もない自然」と一言で言ってしまうと、「そんなの当たり前じゃん!」と返されてしまいますが、「何もない自然がある良さとは?」と考えた時に、「情報よりも感覚が優位になる」という一つの結論が出ます。
あふれる選択肢を制限して、楽しむ。あふれる情報を制限して、自分の頭・感覚だけで感じる心地よさ。
無限の選択肢があるほど人はしばし何を選ぶべきか分からなくなります。そんな時こそ何もないところで何かを見つけ感じ価値観や哲学を養える安堵の地ともなるこの里山にちょこっと出かけてみる理由が十分すぎるほどにあるのです。
かつて宮沢賢治が小鹿野町で過ごし誌を読んだように、ゆったりと気持ちを澄ませてみてください四季折々あなただけの何にもない場所がきっとここにあります。