Okinawa 沖縄 #2 Day 134 (11/09/21) 旧小禄村 (2) Tabaru Hamlet 田原集落
旧小禄村 田原集落 (たばる)
- 旧田原村 (タバル)
- 森口井泉 (ムイグチガー)
- 掃除井泉 (ソージガー)
- 堀川森 (フッチャームイ)
- ニービジュル (殿内のビジュル)
- 田原之火神 (タバルヌヒヌカン)
- 田原村井泉 (タバルムラガー)
- 黄金森 (クガニムイ) クサイ井泉 (カー)
- 名称不明井戸
- 黄金森御嶽 (クガニームイウタキ)、火之神 (ヒヌカン) [9月18日 訪問]
- イリガーガー
- 地頭火の神
- 旧堀川村 (フッチャー)
- 堀川之火神 (フッチャーヌヒヌカン)
- アカナー森/ジマーラ川/報徳碑
- 前之御井泉 (メーヌウッカー)
- 田原公民館 (田原自治会館)
- ウン・ボロン (梵字碑)
- 小禄でいご公園 (アカモー)
- 田原公園
- ウヮーフール (豚便所)
- カテーラ森 (ムイ)(寿山、ことぶきやま)
- 金城之嶽
- アシビナー (遊び場)
旧小禄村 田原集落 (たばる)
田原集落は先日訪れた小禄集落と森口公園を挟んだ西側の少し高台になった所に位置し、掃除原 (ソージバル)、伊知真志原 (イチマシバル)、不知嶺原 (フチンミバル) の3つの地区から成る小さな集落で農業が中心で、キビなどを生産していた。琉球王統時代は小禄集落の管轄域内にあり、明治時代前半に田原村として新設された。明治36年に堀川村とともに小禄に吸収された。その後、昭和26年に小禄集落から字田原として独立し現在に至っている。田原集落の村立てや、祖先がいつ頃、どのようにしてこの地に来たかは明確では無いが、護佐丸の外子ではないかと考えられている。それであれば、第一尚氏時代末期に村が始まったと考えられる。「小禄大君、居所は小禄田原の根屋松川と言う家也。玉骨は金満嶽の北方の岩下成亥向の穴内に在り、其後商は北山より来て元祖を相続す。又其後は南山の孫豊見城按司の長子より相続す。然れども世子無き為、護佐丸の外子中城綻親雲上が相続せり」と記録されている。
1919年にはまだ昔の集落があった地域のみに民家があったがそれ以降、民家は拡張して現在は地域内ほぼ全域に民家が広がっている。ある意味で、住宅地は飽和状態になっており、これ以上大幅な拡張の余地はない。
田原集落訪問ログ
森口井泉 (ムイグチガー)
221号那覇内環状線の奥武山公園駅と小禄駅の中間地点から南側に伸びる小禄集落と田原集落の境界の道を南に進んだ所に奥に登階段があった。ここを進むと奥の空き地の中に森口井泉 (ムイグチガー) があった。森口原にあった村井泉 (ムラガー) で、かつては豆腐作りの水として使われていたので、水質は良かったのだろう。井戸は石積みで囲まれ、前は洗い場になっている。井戸自体はコンクリートで固められて当時の姿は失われているが、給水ポンプが設置されているので、今でも使用されているようだ。集落内には、かつては10ヶ所の井戸があり、簡易水道が整備されるまでは住民のライフラインだった。今日はこの10の井戸の幾つ見つけられるだろうか?
掃除井泉 (ソージガー)
森口井泉 (ムイグチガー) の前の道を更に南に登り、そこから西側の脇道に入り、小禄小学校正門向かいにソージガーがあった。今日二番目の井泉跡だ。掃除原 (ソージバル) にあるのでこう呼ばれている。井戸跡は階段を降りた所に広い洗い場があり奥に井戸が残っている。かつては部落民の飲料水として使われていた。井戸の水は残っているが、全てコンクリートで固められて、昔の面影は失われている。井戸の横には小さな祠が置かれて村の拝所になっている。
堀川森 (フッチャームイ)
掃除井泉 (ソージガー) の東側、森口公園の西側に小禄小学校がある。かつて、この場所は堀川森 (フッチャームイ) と呼ばれる森だった。堀川村にあったのでこう呼ばれていた。
ニービジュル (殿内のビジュル)
ソージガーからもとの道に戻り、更に南に進み、森口公園方面への路地を入った所にニービジュルという拝所があるとマップには書かれているが、イラストマップで正確な位置はわからない。路地沿いを探すがそれらしき場所が見当たらず、諦めていた。帰り際にふとマンションの駐車場の奥に祠があるのを見つけた。これがニービジュルだ。三基の祠が見える。田原村で行われている祭祀では、先ずはここを拝むそうだ。ニービジュルとは「新賓頭盧」とでも書くのだろうか? 先日訪れた小禄集落にも賓頭盧があった。小禄集落ではビジュンと呼ばれているが、ここ田原ではビジュルと呼ばれている。区別するために「新 (ニー) ビジュル」と呼んでいるのかも知れない。三基ある祠のどれがニービジュルか、三基全体でニービジュルかは分からない。一番手前の祠には井泉がある。今日三番目の井戸跡だ。
奥の二つの祠には珊瑚と霊石が祀られている。
田原之火神 (タバルヌヒヌカン)
ニービジュルから森口公園方面に坂道を下ると、先日訪れた小禄集落のバンヌカーの近くに出た。つい数日前に来たところで見覚えがある場所だ。バンヌカーへの道を逆に進んだ所に田原之火神 (タバルヌヒヌカン) がある。田原集落を守る火の神が祀られている。田原集落にとっては重要な拝所になる。沖縄ではこの火の神は各家庭で祀られており、家の火の神はその家を守る。集落でもその集落全体を守る村の火の神がある。集落によっては、村の火の神の神屋では火種を保管し、各家がそこに火を分けてもらいに来ていた。この辺りが小禄集落と田原集落の境にあたる。
田原村井泉 (タバルムラガー)
田原之火神 (タバルヌヒヌカン) の前は広場になっており、ここで村人が座って火神を拝んでいた。その広場の前は、現在は駐車場になっているのだが、その片隅に井戸跡の拝所がある。今日四番目の井戸跡。これは田原集落の村井泉 (ムラガー) だった。この井戸も火の神もコンクリートで整地されてしまい、かつての面影は残っていないのだが、石積みに囲われた井戸 があり、その前には洗い場が広がり、石積みの上には更に広場があり、そこに火の神の神屋が建っていた。水を汲みに来た村人はその都度、火の神を拝んでいたという情景が浮かんでくる。
黄金森 (クガニムイ) クサイ井泉 (カー)
黄金森 (クガニムイ) クサイ井泉 (カー) が小禄集落案内書に載っていたが、田原集落の井戸之様だ。井戸は見つかった。田原集落の井戸ならば、五番目の井戸跡だ。名前から判断すると、黄金森 (クガニムイ) という拝所に付属する井泉となるのだが、肝心の黄金森 (クガニムイ) の拝所は案内書には出ていない。この辺りにあったのだろうか?と思っていたのだが、田原集落訪問の為に資料を調べていると、黄金森之御嶽 (クガニムイヌウタキ) が田原集落の拝所として見つかったので、9月18日に再訪した。この辺りは、小禄集落と田原集落の境にあたる。この井戸も田原集落に属していたのだろう。戦前はその場所から「仲兼盛のところの井泉」と呼ばれていた。戦前から水は枯れていたが、御願されていたそうだ。
名称不明井戸
黄金森 (クガニムイ) クサイ井泉 (カー) の近くにもう一つ井戸跡がある。案内書には掲載されていないのだが、御願の際の注意書きが置かれているので、村としての拝所になっているのだろう。六番目の井戸跡。
黄金森御嶽 (クガニームイウタキ)、火之神 (ヒヌカン) [9月18日 訪問]
ここは9月18日にこの場所を再訪下。黄金森 (クガニムイ) クサイ井泉 (カー) の奥が丘になっていた。丘の上への階段を上ると、広場になっており、二つの祠が建っている。前回見落とした黄金森御嶽 (クガニームイウタキ) だ。向かって右側が黄金森御嶽 (クガニームイウタキ)、左側には火之神 (ヒヌカン) が祀られていた。
イリガーガー
資料によれば、黄金森御嶽 (クガニームイウタキ) の近くにイリガーガーとなっていた。地図上ではこの場所だが、井戸跡のようなものはないが、壁に蛇口と給水ポンプがあった。これが以前あった井戸の水を利用しているのだろうか? 七番目の井戸跡
地頭火の神
同じく、資料によれば、黄金森御嶽 (クガニームイウタキ) の近くに地頭火の神もあるとなっているが、探すも見つからなかった。地図上ではこの路地沿いにあるとなっていたのだが....
ここまでは森口公園の西側の麓にある拝所を巡った。次は更に西にあるかつての堀川田集落の文化財をめぐる。
田原公民館 (田原自治会館)
北から進んできた道に戻り更に南にに行く。なだらかな登り坂になり、それを登り切った所に田原公民館 (田原自治会館) がある。多分、かつての村屋跡だろう。
堀川之火神 (フッチャーヌヒヌカン)
田原公民館 (田原自治会館) と道を挟んだ所に堀川之火神 (フッチャーヌヒヌカン) の拝所がある。字田原ができる前には、田原村と堀川村があり、それが合併して現在の田原集落になっている。ここは堀川村を守る火の神の拝所だ。先程見たのは以前の田原村の火の神の拝所だったのだ。堀川といえば、先日、小禄集落の森口公園になっている小禄之御嶽を訪問した際に、その近くに鍛冶屋が住んでいて、後に田原に移り、「堀川鍛冶」と呼ばれるようになったとあった。堀川鍛冶はこの辺りに移り住んだのかも知れない。拝所には二つの祠が建てられ、そこには「火ノ神屋」と書かれている。かつては100坪程の敷地だったそうで、そこには神アシャゲが建ち、その中に火の神が祀られていたのだろう。戦時中は出征兵士をここに部落住民が集まり見送ったという。多くの集落で、かつてあった神屋の維持は経済的な負担になるので、コンクリート造りに祠にし、神屋自体は取り壊している。ここもそうではないだろうか?
アカナー森/ジマーラ川/報徳碑
かつての堀川村の集落は公民館から北東に向けて7ブロックぐらいの区画になっている。その西側、田原公園と接する場所に拝所がある。アカナー森 (ムイ) と呼ばれている。ここにはかつてアシビナー (遊び場) があり、若者たちが集い、毛遊び (モーアシビー) を行っていた場所だった。このアシビナーには森があったのだろう。それでアカナー森 (ムイ) というのだろう。この拝所には右側に赤瓦の祠があり、堀川親雲上 (ペークミー、ペーチン) と田原殿内と関係の深い神を祀っている。その隣には形式保存されているジマーラガーの井戸跡があり、小さな祠が建てられて御願されている。飲料水として使われていたそうだ。(これで集落内にかつてあった10の井戸跡の八つまで見つけた) 更にその隣には報徳碑が建っている。この報徳碑は田原出身の2人目の小禄村8代目村長の金城善栄氏とその妻の慰霊碑兼顕彰碑だ。金城善栄氏は明治29年 (1896年) 田原村、屋号 新金城に生まれ、昭和16年 (1941年) に小禄村長に就任、二市二村 (那覇市 首里市 真和志村 小禄村) の合併問題 や非常時体制下の食糧増産開問題などに尽力。 昭和20年6月に善子夫人と共に小禄村字高良の津真田壕内にて自決。
前之御井泉 (メーヌウッカー)
アカナー森の東側の路地を北に行った所にはかつては前之御井泉 (メーヌウッカー) という井戸があったのだが、井戸跡は残っていないのか見つからず。参考にしたマップには出ておらず、昔の地図に記載されていたので探し、地図ではここなのだが、埋められてしまったのかも知れない。(これで9つ目の井戸跡で結局10番目の井戸跡は見つからなかった)
ウン・ボロン (梵字碑)
更に道を北に進んだ道端には梵字碑が残っている。これまで幾つかの梵字碑を見たが、多くはなく珍しい。梵字は、悪霊をはらい、清浄にするという意味があって、沖縄ではどこでも見られる石敢當と同じように丁字路の突き当り等に設けられている。一字金輪(いちじきんりん)という仏様も表すそうです。
小禄でいご公園 (アカモー)
字田原の北の端にあたる那覇内環状線のあたりに小禄でいご公園がある。ここはアカモー (毛) とかアカムイ (森) と呼ばれていたところで、 小高い山になっている。沖縄戦後はこのアカ毛一帯が米軍用地として接収されていた。
アカモーの山の斜面には幾つもの門中墓がある。2006年のデイゴ公園鉄塔建設工事では幾つもの遺骨が発見されている。遺骨は戦前の門中墓に葬られたが、沖縄戦で墓が破壊された墓の遺骨であろうと考えられている。ここには田原集落の七つの有力門中の内、殿内門中、与儀門中、沢岻門中、田原金城門中の墓が集まっていた。
ここからは先日訪れた小禄之御嶽 (小禄グスク) の丘陵が臨める。
田原公園
小禄でいご公園の前の62号線道路沿いにもう一つ公園がある。1994年に造園された田原公園で、小高い丘もある。公園内には幾つかのモニュメントや遊具が置かれていた。
ウヮーフール (豚便所)
田原公園の一画に豚便所 (ウヮーフール) が保存展示されていた。屋号 南前下庫理 (フェーメーシチャグイ) の屋敷に実際にあったトイレ (フール) だ。この南前下庫理 (フェーメーシチャグイ) は瓦屋根の家だったそうで、当時は茅葺き屋根が一般的で瓦屋根は集落でも数軒しかなく、裕福な家だった。豚便所 (ウヮーフール) は沖縄民家施設の特質的なもので、家族の排泄物を飼っている豚の餌としていた。中国から伝来したといわれるてはいるが、中国に豚に排泄物を餌にしている所は見つかっていないので、沖縄独特の物ではないか? 大正時代、衛生上から、各家庭のフールのトゥーシヌミーを潰して排泄物が豚小屋に流れ無くし、新規にフールを造ることを禁止した事で戦前には使われなくなっていた。代わりに、フールの脇にヤーフール(屋根つき便所) と呼ばれた汲取式便所が設置された。かつての豚便所 (ウヮーフール) の構造は石積みの区画がなされ、屋根には石造りのアーチ形・茅葺き・瓦葺きがあった。床は石敷きで、前方にトゥーシヌミー (東司の穴) があり内側に向かって勾配がつく。東司の前方に一枚石の目隠し壁があり、このなかに豚を数頭飼う。東司から用を足すと豚が人糞を処理するといったものだ。
カテーラ森 (ムイ)(寿山、ことぶきやま)
戦後、都市計画で破壊される予定だったが字民を含め各方面の保存運動で取り壊しは免れ、現在那覇市が管理している。
金城之嶽
アシビナー (遊び場)
坂道のてっぺんは広場になっていた。ここは堀川集落の南の端にあたる。高台なので、ここにはアシビナーがあったそうだ。
参考文献
- 小禄村誌 (1992 小禄村誌発刊委員会)
- 歴史散歩マップ 田原まーい (1991 那覇市教育委員会文化課)
- 週刊レキオ 2012/1/26.Vol.1400
- 会報 ガジャンビラ 第10号 (2009 うるくの歴史と文化を語る会)