親のエゴ
海外で子どもに日本語学習をさせる時、必ずこの問題にぶつかります。
実際目の前の子供は、見るからに嫌々日本語の宿題をやっていたり、補習校に行くのを渋ったり、「日本語なんかやりたくない」「もう補習校に行きたくない」と言い出すこともあるでしょう。配偶者や舅姑、あるいは他人から、日本語学習や日本語で話す事を非難されたり、批判的な意見を言われる場合もあります。
子どもの一時的な我がまま、バイリンガル教育に理解がない人の言うことだと切って捨てられたら良いのでしょうが、そうもいかず、うじうじと思い悩んだりします。
子供の勉強を見るだけでも気力も体力も必要なのに、心が折れるようなことを言われるのは、日本人の親としては結構つらいものです。
海外に住む日本人の親が、我が子になぜ日本語を伝えたいと願うのか、なぜ子どもに日本語を勉強してもらいたいのか、それはどの位優先するものなのかを私も長く自問自答していたことをおぼえています。
日本語は、日本国内でしか通じない言語ですし、年に1回程度の帰国時にしか日本語に触れないのに、何年も他の習い事や遊びや家族の余暇の時間を犠牲にしてまでやることだろうかという考え方もあるでしょう。
日本人の自分は、日本語でしか子供を育てられない。第二言語で生活や仕事はしても、我が子とは日本語でわかり合いたい。そのためにはできるだけの努力をしたいという考えもあります。
どちらが正しいかを言いたいのではありません。
たまにしか役に立たないと思う言語を無理に勉強させるなら、それは親のエゴと言えるでしょうし、外国語を介在せずに子どもとはコミニュケーションを取りたい、自分の母語で子供に伝えられることを全部伝えたいと願うなら、日本語はたまにしか役に立たない言語ではないのですから、エゴと言われると納得できないし、違和感があって当然だと思います。
同じ日本人であっても、日本語に対する考え方は全員必ずしも同じではありません。言語に対する感覚、思い入れも個人差があります。在住している国の言葉が流暢であっても、日本語で育てたいと願う親もいるし、ネイティブが聞けばびっくりするようなブロークン現地語で子どもと会話している人もいます。
親が、自分の母語である日本語を単なるツールと考えるか、日本語は自分の魂から出る言葉だと考えるか、子どもの日本語教育についての温度差は、このあたりの差から来るような気がしています。