偉人『宮澤賢治 銀河鉄道の夜』
大正時代の童話作家宮澤賢治の多くの作品は未発表であった。トランクに詰め込まれた多くの作品は草野心平らの尽力でこの世に送り出されたのである。他の作家とは明らかに異なる類稀な美しい描写は、彼の育った環境や幼少期から夢中になり五感で獲得してきたものを全て注ぎ込んだ結晶である。今回は賢治作品の中で最も美しいと言われる『銀河鉄道の夜』をなぜ彼が書くことができたのかを彼の37年の人生を遡り考えてみる。
幼い頃賢治は「石っこ賢さん」と呼ばれるほどの鉱物収集家で石を拾ってきては磨きを掛け周りの大人に自慢していた。又その収集は鉱物のみならず昆虫採集や植物採集にも没頭した。中学2年の頃植物採集岩手登山隊に参加すると群生する植物や土・石に魅了され岩手山を30回以上登頂している。
また小学校の頃多くの童話や民話を読み漁ったといわれ、特にフランス小説家エクトール・アンリ・マロの『家なき子』が作家としての原点といわれている。同時にその頃に書いた自作の童話を教師から賞賛されたことを生涯忘れることはなかった。
中学生になると石川啄木に感銘を受け短歌を読む活動に参加するようになり、文学活動に専念し幼少期からの趣味や活動を通して自然科学の知識を文章表現で煌びやかに言の葉を紡いでいったのである。
では賢治の生き方を『銀河鉄道の夜』と照らし合わせていく小旅行に出よう。
登場人物の名前が外国名であることに違和感を持たれるかもしれない。これは明らかに小説家エクトール・アンリ・マロなどの外国作品に影響を受けている。主人公は貧しいジョバンニと親友カムパネルラ、ジョバンニをいじめるザネリが中心となる。場面設定はジョバンニの貧しさが際立つ序盤の生活を中心とし、中盤は特別切符をてにした銀河鉄道の旅、終盤はジョバンニが星祭に行けずに足を運んだ丘の上である。童話だと思い簡単に読み進められるであろうと考えて読むと大概序盤でギブアップしていくことが多く、是非とも中盤の美しい表現の内容まで到達して欲しい。
この物語は親友のカムパネルラを自己犠牲で失う切なくも美しい表現の童話であり、未完の傑作作品でもある。自己犠牲を払いながら他人を守ると言うことの美しさを賢治は伝えたかったのだろう。その賛否はここでは取上げずに賢治の美しい表現を思い描きながら読み進めるべきである。
銀河鉄道に乗り込んだジョバンニの前に現われたカムパネルラと共に宇宙でもない岩手でもない天の川と岩手の北上川が合体したようなファンタジーの世界を旅する。青白く光る車窓から眺め、咲くリンドウ花、銀色に輝くすすきが揺れる様、空を舞う白鳥、ぼんやりと光る石や水晶や宝石で埋め尽くされた川の水底、アメジストやルビー、サファイア、トパーズ、黒曜石といった鉱物の知識に長けているからこその表現、天文学の知識があるからこそ白鳥座・わし・さそり・南十字星・ブラックホールまでもの天井を走る銀河鉄道の旅を描けたのである。また自己犠牲の象徴であるさそり座のアンタレスも賢治の人生観が現われ知れば知るほど奥深いのがこの作品である。
そして突如として現われるタイタニック号の沈没事故を暗示する乗客との会話とドボルザークの交響曲第9番の新世界よりでは終わりを暗示しあの世を象徴する内容に賢治の死生観もそしてチェロを弾く彼の音楽的嗜好も読み取ることができる。
その卓越した文章表現で幼き頃より積み上げてきた鉱物収集や天文学、自然科学的知識、科学の知識を客観的視点で美しい調べにのせて独特の世界を展開している。太宰治や芥川龍之介にも表現できない賢治の世界観がそこには存在している。
賢治が謂わんとする『自己犠牲の美しさ』がクリスタルのように煌いているが、作品の中にカムパネルラの言葉として「お母さんはぼくを許してくれるだろうか」の言葉の意味を考えると自分の命を犠牲にしてまで人を助けてくれるなと言いたくなる。この絵本を子供に読み聞かせた後には必ず命の重さを説くべきである。
ここからは余談・・・最後に今人気の米津玄師さんの『カムパネルラ』と言う楽曲のタイトルを目にした瞬間、この『銀河鉄道の夜』と関係しているのではないかと楽曲を探し聴いてみた。もし私の解釈が間違っていなければ、『自己犠牲を払って本当の幸せはない。自らを尊んでこそ自分自身も周りの人も幸せになるのだ』とのメッセージであるように感じた。宮澤賢治の世界観を独自の視点で表現する若者の出現が頼もしく感じ、機会があれば作品に耳を傾けて欲しいものである。