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「まるで私が聞き分けの悪い赤子のようにぎゅっと」

2021.09.09 14:54

湯船で泣きながらカネコアヤノをうたうこと。これが、わたしにとっての弔いなのかもしれない。そんな書き出しが頭に浮かんで、ひさしぶりにメモを打ち始めたのに、湯船でのぼせて早々に上がり、仕事を再開したらあっというまに朝で、盛大に寝坊をして遅刻してしまった。 


いろんなたのしいことと現実的なこととかが重なって、わたしのなかがごちゃごちゃになって混乱している。いとも簡単に自分がどこにいるのかわからなくなって、夜な夜な声を聞きたがったりする。自分の足取りをたどりに日記を読み返そうとするも、気が重くてできない。すべて紛れもない現実なのに、なぜだか当人のわたしと言ったらふわふわしていて、つかまえられない。「すべてはあなたの気持ち次第じゃないの、この言葉の羅列も、毎日食べるものも、これまでの選択も、これからの選択も」。そう何度も言い聞かせながら、そこに無理やりにでも意味を見出そうとしている。すべてのことはつながっているというのに、どうしても切り離して考えたくなる。


最近よく話しているのは、いつからか、でも明らかに、自分が、もしくは自分たちが変わったと言うこと。それを誰かは「大人になった」と笑うし、誰かは「生きやすくなったってことでしょう」と声をかけてくれる。言葉の代わりに涙が出て、かなしいね、かなしいよと心の中で言うしかできない。これまでに感じていたいろんな苦痛が、どんどんただの疲労になっていく感覚。疲れに鈍感になって、読めないままの本が積み重なり、見たかった映画は見ることなく上映が終わる。世の中の話題は知らない間にすり変わって、側からみればもしかしたら花束みたいなの菅田将暉なのかもしれない。でも、別に卑屈でも諦めたわけでもなく、そんな状況をなんてことなく受け入れられる。世の中のことはわからないけれど、たしかにわたしはわたしの毎日を生きているのだと、なんのおそれもなく言える自分に少し驚く。いろんなものを見たり聴いたりしたがったわたしが見つからなくなって、すごいねとしか言えなくても、わたしが損なわれることはない。わたしはそれくらい、いまの自分にためらいがない。変わっていくのだ。毎日毎日。おなじことやおなじ瞬間はまたとこないまま、どうしようもなく変わり続けてしまうのだなと思って、遠い日の記憶が蘇る。高校の教科書で「無常」という言葉を知ってなぜだか泣いてしまったときのこと。変わり続けてきたはずなのにそういうことばかり変わっていなくて、すこし面白い。この前は友達から「お前は昔からマックが好きだったよ」と言われてうれしかった。誰の影響でも受け売りでもない自分の姿を知ってくれているのがうれしかったしおかしかった。なんだよ、昔からマックが好きだったよって。まあそもそもの話、変わってしまったと思う自分も、いつかの頃からみると変わってしまった自分に過ぎないんだしね。


わたしはこれからもきっと変わっていく。変わっていくことだけが決まっている。変わってしまうと知っていて、わたしにどんな約束ができるだろう。変わっていくことを誰よりも受け入れているはずなのに、変わってしまうことが誰よりもこわい。変わってしまったことに悔いはないのに、変わってしまった自分をずっと受け入れられず、誰よりも憎んでいるのだと思う。どうしようもない気持ちを、いつまでわたしは飼い慣らし続けなくちゃいけないのか。びっくりすると思うけど、ここまでずっと湯船で書いている。さすがにのぼせて、涙も汗もわからず、ぽつりぽつり目に入ってはひりひりする。あたしの原っぱにはたくさんの飼い慣らした気持ちがある。放牧!「さあさっさと好きなところへお行き!」。落ち込みは終わり!ひとつひとつ、やっていくし、ちゃんとやっていきたいことがある。でもとりあえずは、湯船から上がって髪を乾かして、あしたこそは寝坊しないぞとたくさんアラームをセットして、くたくたのぬいぐるみが待つふとんにもぐりこもうと思うよ。


カネコアヤノ「抱擁」