パリのマルモッタン・モネ美術館で、印象派初期の大御所カミーユ・ピサロの回顧展開催
パリのマルモッタン・モネ美術館で2017年2月23日から7月2日まで、カミーユ・ピサロに焦点を当てた展覧会を実施します。パリでピサロを取り上げる企画展が開かれるのは40年ぶりとなります。 鋭い審美眼で選ばれた名作60点(内8作品は国内初公開)は、世界各地の主要美術館や名高い個人コレクションから貸し出されたものです。出生地であるカリブ海アンティル諸島での初期の制作作品から、パリやルーアン、ル・アーヴルなどの都市での晩年の作品まで、ピサロが画家としてどのようなキャリアを積んでいったのかを紹介し、初期印象派を代表する巨匠の‘知られていない’人物像に迫ります。 初期の作品 展覧会エントランスでは、ピサロの自画像がビジターを迎え入れます。会は7部編成で、ピサロの画家キャリアを振り返り、彼の作品の独創性を明確にした内容になっています。ピサロは若い時から既に、同時代の他の画家とは一風異なるスタートを切っていました。ピサロが初めて絵画制作に挑んだのは、パリの画壇や美術アカデミーから遠く離れた、自分の出生地であるセント・トーマス島(カリブ海)に於いてです。フランスに初めて貸し出される「海辺でお喋りする二人の女、1856年(ナショナル・ギャラリー、ワシントン)」は、アンティル島の異国情緒を見事に表現していて観る者の胸を打つとともに、画家として駆け出しのピサロの技術をどのような絵画よりもよく表しています。ピサロが画家になるためにパリへ出るのは1855年。国立美術学校に入学し、後に印象派画家たちとなる人々と出会います。彼らと同様、ピサロも野外を好み、風景画の制作に没頭します。このころ、ジャン=バティスト・カミーユ・コローやシャルル=フランソワ・ドービニーの作品にとても感銘を受けており、非常に表現力に富んだ「マルヌ川の畔、1864年(ケルビングローヴ美術館、グラスゴー)」では彼らの影響を見て取ることができます。1860年代にはパリ近郊にアトリエを構え制作を続けます。この時期の作品「ヴェルサイユへの道、ルーヴシエンヌ、雪、1870年(ビュールレ・コレクション印象派美術館、チューリッヒ)」と「ヴェルサイユへの道、ルーヴシエンヌ、冬の陽と雪、1870年(ティッセン=ボルネミッサ美術館、マドリード)」は、フランスにおいて初の公開となります。当時エミール・ゾラは、ピサロを「今世で3本または4本指に入る画家」と評しています。 フランスの田園風景の描写 ピサロは誰よりも先に、パレットから黒と黄土色の絵の具を取り除いた画家でもあります。こうして、より澄んだ色合いの、典型的な印象派絵画の制作を目指しました。印象派グループの中でもピサロは最も熱心なメンバーのひとりであったとされ、計8回の印象派展に欠かさず出品した唯一の画家です。「ポントワーズの堰、1872年(クリーヴランド美術館)」と「古い墓地のある広場、1872年(カーネギー美術館、ピッツバーグ)」の傑作は、画家として成熟したピサロの腕前と印象主義の成功を今日に伝えています。これらの作品はフランスで35年以上も公開される機会に恵まれませんでした。1883年からピサロは人物象や肖像のテーマにも取り組み、今回、中でも特に有名な「羊飼いの娘 または小枝を持つ少女、座る農家の娘、1881年頃(オルセー美術館、パリ)」、「麦藁帽子を被った農家の若い娘、1881年(ナショナル・ギャラリー、ワシントン)」を紹介します。1886年には印象主義から方向を変え新たな画法に挑もうと、ジョルジュ・スーラや新印象主義が取り入れていた点描画法を試みます。展覧会ではこの時期の大傑作である「りんごの収穫、1886年(大原美術館、倉敷)」「耳の聞こえない女の家とエラニーの鐘楼、1886年(インディアナポリス美術館)」が展示されています。 都市風景の描写 最後の2部では、ピサロが晩年に熱を注いだ港や町の風景画シリーズを紹介します。ルーアン、ル・アーヴル、ディエップ、パリなど、一連の風景画がこのように揃って紹介されることは極めて珍しいことです。中でも4つの作品はフランスにおいて半世紀以上、展示されることの無かった貴重なもので、ピサロ作品の中でも全く知られてない部分を発見することができるでしょう。 風景と人物、田園と都市、大地と海といった幅広いモチーフを取り上げ、印象派を導いた先駆者であり、点描画法も推進したカミーユ・ピサロは、常に新しいものを吸収し、表現に繋げようとする姿勢を生涯を通じて崩しませんでした。 今展ではピサロの作品が人間味に溢れ芸術的な斬新さがあり、誠実で詩情ある、多様性に富んだものであったことを浮き彫りにします。 住所 :マルモッタン・モネ美術館 2, rue Louis-Boilly 75016 Paris