熊野
http://www.kumanodaigaku.com/what.html 【熊野大学とは】より
「熊野大学」は和歌山県新宮市出身の芥川賞作家・故中上健次氏によって1990年に設立されました。「試験もない、校舎もない、校則もない」「だれでもいつでも入学でき、卒業は死ぬとき」という、そこに集うひとりひとりの志(こころざし)によって成り立つという全く尊い学校なのです。
中上氏は、氏の構想した「熊野学」の拠点とすべく「熊野大学」を設立されたのですが、惜しくも1992年夏46歳の若さで他界され、その後は氏の遺志を受け継いだ有志が中心となって活動を続けて現在に至っています。
毎年恒例の夏期特別セミナーは、渡部直己氏や高澤秀次氏にコーディネートいただき、柄谷行人氏や浅田彰氏をはじめとする著名な評論家、作家、文化人等をゲストに招いて開催されています。
その一端は、新聞や文芸誌(「すばる」や「早稲田文学」)などでたびたび採り上げられています。
2000年夏にはその活動の一部をまとめた『中上健次と熊野』 (太田出版)が刊行されました。また高澤氏の著作でも紹介されています。
https://www.city.shingu.lg.jp/div/bunka-1/htm/kumanogaku/summary/index.html 【熊野学とは】より
熊野
熊野地域の範囲 「熊野くまの」とは、都からみて辺境(隈くま=すみっこ)に位置する「未開地」という意味があるようです。
また、和歌山県と三重県に地名として残っている「牟婁」も同じような意味で、和歌山県の東牟婁郡・西牟婁郡と三重県の南牟婁郡・北牟婁郡の4つの牟婁郡の地域がほぼ熊野の範囲となります。
熊野学
地域学サミット 熊野学とは広範で深遠な熊野の歴史・文化を人文・社会・自然科学などの各分野から学際的・総合的に研究し、熊野が持つ独自性と普遍性を解明するとともに、その個性と魅力を検証していくことです。
21世紀をむかえて人々の価値観が様々な分野で多様になるなかで、1988(昭和63)年の「日本文化デザイン会議‘熊野88’」を契機として和歌山県は「熊野地域活性化計画」や「熊野学ネットワーク構想」などの調査と研究を行いそれぞれの方向性が打ち出されています。
https://www.city.shingu.lg.jp/div/bunka-1/htm/kumanogaku/article/nature/index.html 【熊野の自然】より
那智の滝熊野の地は日本列島の本州の最南端にあって、紀伊半島のほぼ中央部を南下する台高山脈・大峰山脈・護摩壇山系の山々が、南端で東西に展開して、大塔山(1121m)を中心に紀伊山地を形成している。この山地より南が熊野の地域である。
紀伊山地から分岐した支脈が太平洋にまで伸びていて、全域の殆どが山地で、その山々の間を縫うように、大小の渓谷や河川が熊野灘に流れ込んでいる。河川の中で最大のものは熊野川で、他に富田川・日置川・古座川などの中河川もみられる。
この地域の陸地を構成する地層は、大部分が牟婁層群(約5200~2100万年前に海底に堆積)と呼ばれる礫岩・砂岩・泥岩からできている第三紀の堆積岩で、一部田辺市を中心にして、牟婁層群より新しい田辺層群(1600~1500万年前に海底に堆積)。また東牟婁地方には、田辺層群と同じころ海底に堆積したと考えられている熊野層群がみられる。さらに東牟婁郡から三重県南牟婁郡の海岸に近い地域には、約1400万年前に熊野層群の地層を貫いて噴出したと考えられている、熊野酸性火成岩体の火成岩が覆い被さっている。
熊野地方は本州の南端に位置するため、夏場は台風などによる水蒸気を多量に含んだ南東の風が熊野灘から吹きつけ、内陸の山に当たって大量の雨を降らせる。日本列島の中でも屈指の多雨地となっていて、年間降水量が3000~4000mmに達している。
これに対して冬場は大陸からの北西季節風が、中国地方や紀伊半島中央部の高い山に遮られて雪を降らせ、寒気が弱められて到達するので、乾燥した晴天が続くことになり、気温も0℃以下になる日が少なく、平地部では殆ど霜や雪を見ることがない。内陸の山地でも厳冬の2月中に山地の北面に僅かな積雪を見る日が何回かある程度である。加えて紀伊半島沖の熊野灘に、赤道付近から回流して北上して来る黒潮暖流が接近しているので、本州でも最温暖多雨地となっている。
この地域には平野と呼べるような平地が存在せず、河口部に僅かに冲積地がみられるに過ぎない。また、海岸部では山尾根が岬となって海に突出し、出入のはげしい複雑なリアス式海岸となっている。地域によっては海岸段丘の発達しているところもある。
http://www.kumano-sanzan.jp/sanzan/zenkoku/【全国の熊野神社Kumano-jinja】より
朝野の篤い信仰を集め、全国から参詣者が群をなした熊野三山。しかし、遠隔地ということもあり、各地に熊野の神々が遷し、祀られました。今も北海道から沖縄まで4,776社(当協議会による第2次調査結果)を確認しています。海上交通による伝播も多かったようです。
よく似た地形の所に三山セットで歓請される場合もありました。各地の熊野神領(庄国)の鎮守の神として祀った社もかなりあります。
地方の神社でこれだけ多くの分霊社が祀られた例は全国的にもまれです。
このコーナーでは、「都道府県別神社分布図」から、全国各地に点在する熊野神社の県別統計がご覧になれます。また、「各種統計資料」から祭神や祭祀の形態等十数種の統計資料がご覧頂けます。
http://www.kumano-sanzan.jp/sanzan/rekishi.html 【熊野三山の歴史 History】より
紀伊半島の南部は、神々の霊が隠れ籠る独自の聖域をなし、古来「熊野」と総称されてきました。
ここに古代以来、祀られてきたのが、本宮、新宮、那智の熊野三社です。本宮は熊野川の中洲にあって、川を神格化したものとされ、主神は家津御子大神(けつみこおおかみ)。新宮は熊野川の河口近くにあり、水玉の勢いを示すという熊野速玉大神(くまのはやたまおおかみ)が主神。那智は大滝の聖水のもつ生産力への信仰が根源とされ、熊野夫須美(産霊)大神(くまのふすみおおかみ)を主神に祀っています。
平安後期には神仏習合によって、三社の神々にも本地仏(ほんじぶつ)があてられ、仏が権(かり)に現れたものとして、熊野三所(十二所)権現とよばれました。三社ともにお互いに三所(十二所)権現を祀りあい、熊野三山として、現世と来世での救いを願う朝野の人々の崇敬を集め、文字どおり「日本第一大霊験所」を唱え発展してきました。
那智山青岸渡寺も裸形聖人(らぎょうしょうにん)が那智大滝で感得した如意輪観音(にょいりんかんのん)を祀った如意輪堂が初拝。12世紀中頃には西国三十三観音霊場の第一番札所に位置しています。
熊野三山の信仰は、100度に及ぶ上皇の熊野御幸として花開き、鎌倉時代以降は庶民にも広まり「蟻の熊野詣」とまで形容されました。その信仰はまさに「全国区」の展開をしています。
http://www.kumano-sanzan.jp/sanzan/hongan.html 【熊野本願文書Kumano Hongan bunsho】 より
熊野三山には、中世以来、社堂の造営・修理を行うため、浄財を募る、本願とよばれる歓進元の寺院がありました。本宮庵主・新宮庵主の各1ケ寺と那智山に7ケ寺の9ケ寺です。また新宮庵主の配下で神倉山を所管した妙心寺などの本願寺院も知られています。
しかし、熊野本願寺院も近世後期以降は無体化・退転が進み、明治初年の神仏分離で、ほとんど廃寺となってしまいました。
熊野三山協議会では、伝来する新宮本願庵主(梅本家)と神倉本願妙心寺(引地家)の古文書・古記録及び那智七本願の記録(青岸渡寺文書)の解説と研究、翻刻事業を熊野本願文書研究会(鈴木昭英会長)に数年前から委託し完成いたしました。
熊野本願文書の公刊によって、明治以降、神社になってしまっている熊野三山の神仏習合時の運営組織や活動が、かなり解明になるものと思われます。