Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

日本基督教団 板橋大山教会

9月12日(日)聖霊降臨節第17主日

2021.09.12 00:00

「憐みと赦し」 マタイによる福音書18章21~35節

 今日は、「憐みと赦し」と題して、マタイ18章21~35節のみことばに学びましょう。

21 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」22 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。23 そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。24 決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。25 しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。26 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。27 その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。28 ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。29 仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。30 しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。31 仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。32 そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。33 わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』34 そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。35 あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

 わたしたちは、大事なものや多額の金銭を貸したのに、返してもらえなかったら怒りたくもなると思いますし、催促を繰り返すと思います。傷つけられたり、いやなことをされたら、赦せないばかりか場合によってはやり返したくなります。赦し難いという怒りと復讐や怨念が歴史を造ってきたと言う人がいますが、そのような歴史に対して、愛と憐れみと悔い改めと赦しを説くことは容易なことではありません。

 なぜなら人や集団が負わされた傷は癒され難く、意識の深層にトラウマとなって残るからです。

 ですから、神様の癒し、憐みと赦しと救いという神の国の福音は、意識の深層にまで届かなければ、その人や集団をして、癒されたり、懺悔や悔い改めに導かれたり、憐れみと赦しと救いを得させるまでにはなかなか至らないのではないでしょうか。

 今日の箇所で、ペトロがイエス様のところに来て、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」と聞いたとき、イエス様は、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」とお答えになっておられます。

 また、そのようなイエス様は、祈りについて教えられたとき、「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」(マタイ6:12)、ルカでは「わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。」(ルカ11:4)とお教えになられておられます。

 わたしたちは、人と人との間を生きる人間として、傷つけたり傷つけられたり、負い目を負わせたり負わされたりして生きています。誰も傷つけたりしたことはないとか、誰にも負い目を負わせたりしたことはないと、明言できる人はいないでしょう。誰しも、誰かを傷つけ、誰かに傷つけられているわけです。だからこそ、癒しが必要であり、赦しが必要であり赦されることが必要になります。そうでなければ、人は自分をよく保つことができません。わたしという存在の傷が大きければ大きいほど、癒され難くなってしまいます。そうなれば、人生を、癒されない自分を負いながら生きざるを得ません。

 キリスト教信仰の世界では、神様がキリストによって贖い、救い、癒してくださると教えます。また聖霊が働いて力を与え、赦されて生きよと導いてくださると教えます。

 キリスト教信仰では、赦されることによって赦すことへ、救われることによって他者と共に救われるよう示される道へと導かれることを祈ります。

 自らの力で他者を赦すなどということは、信仰の世界では至極傲慢極まることでしかありません。結局、傲慢にも赦しているつもりでいながら無自覚にも他者を傷つけることになると思います。

 キリスト者として知っておきたいことは、傲慢は神様を不在にして生きることになってしまうということです。

 イエス様は、「憐み」ということについてもお教えになられました。イエス様は、「憐み」と「赦し」を結び付けて諭しておられます。ですから、「憐み」と「赦し」は、切り離せないのです。

 ヘブライの人々が神様の意志と憐みによってモーセをしてエジプト文明下の奴隷状態から解放され、カナンの地パレスチナの高地を中心に自由民として生きるように導かれたとき、彼らが、自由民の自由と尊厳を損なっていくような返せない借金を互いに負わせないよう苦心したり、生活必需品を担保に取った場合、返済が完了しなくても生活に差し支えないよう出来るだけ早く担保を返却するなど工夫したことを、わたしたちは聖書によって知ることができます。また、すべての借金や借財を棒引きにするヨベルの年のことなども聖書に記されていることを知ることができます。これらは、互いに守り尊重すべき戒めになりました。

 ヘブライ初期のそのような戒めが守られなくなっていったイスラエル・ユダヤの歴史上に現れてくださったイエス様が、一万タラントンの借金をしている家来と百デナリの借金をした仲間のことをたとえて、多く赦されたのに少を赦せないのかと問う姿には、歴史的な意味をも込めた被造物個々人の存在のかけがえのなさ、存在の自由と尊厳が損なわれてはいけないという深い意味が伴っていると深く考えさせられます。

 いじめや暴力や紛争や戦争が絶えないこの社会や世界で、「憐みと赦し」が世界や社会を覆うなら、どんなにか世界も社会も変わっていくことでしょう。

 救いも赦しも神様が与えてくださるのだと聖書は教え導きます。無力さや弱さや至らなさを覚えるわたしたちが、信仰によって、赦していただかなければならないことに気づかされ、信仰によって救いに導かれなければならないことに気づかされ、他者と共に救われ赦されて生きることができるようにと、「憐み」と「赦し」が自分と他者のことがらになっていくことを共に祈りましょう。