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窮鳥のこゑ

2018.09.12 01:50

https://fuhou-shinbun.com/goner.html?id=9955 【中上健次 氏】より

作家[日本]

1992年 8月12日 死去腎臓がん享年47歳

中上 健次(なかがみ けんじ、1946年8月2日 - 1992年8月12日)は、日本の小説家。

妻は作家の紀和鏡、長女は作家の中上紀。

和歌山県新宮市生まれ。

和歌山県立新宮高等学校卒業。

新宿でのフーテン生活の後、羽田空港などで肉体労働に従事しながら作家修行をする。

1976年『岬』で第74回芥川賞を受賞、戦後生まれで初めての芥川賞作家となった。

紀伊半島を舞台にした数々の小説を描き、ひとつの血族と「路地」(中上健次は被差別部落の出身であり、自らの生まれた部落を「路地」と名付けた)のなかの共同体を中心にした「紀州熊野サーガ」とよばれる独特の土着的な作品世界を作り上げた。

主要作品に『枯木灘』(毎日出版文化賞、芸術選奨新人賞)『千年の愉楽』『地の果て 至上の時』『奇蹟』などがある。

1992年、腎臓癌の悪化により46歳で早逝した。

http://bookjapan.jp/search/review/200803/waga_masaki_01/review.html 【エレクトラ―中上健次の生涯】より

聖と賤がせめぎ合う熊野。無告の民、そして作家への賛歌。著 高山文彦

文藝春秋 [伝記] [ノンフィクション] 国内  レビュワー/和賀正樹

紀南の勝浦で、中上健次が亡くなって18年―。腎臓ガン。死期を悟った作家が東京・慶応病院を抜け出して、ふるさとの海辺の病院に転院。46歳で生涯の幕を閉じた。

本書は、紀州の被差別部落に生を享けた少年が、どのような人びとに巡り合い、文学をわがものとし、いかに死んでいったかを、克明な取材を通じて、明らかにしたノンフィクションである。

中上さんは戦後生まれとして、初の芥川賞を受賞した。また、晩年は谷崎潤一郎的な世界を理想とし、アジアでもっともノーベル賞に近い作家とも言われてきた。

帝国化するアメリカ。代理出産。拡散する核。天皇制。近代のあとにくるもの。

文明が進むに比例し、混沌を増す日本と世界。ことあるたびに、中上さんなら、どう見るのか、意見を聞きたかった。厄介な現実を前に、従来の〈知〉の秩序から自由であったひとの言葉を、識者もメディアも欲していた。

「人間なんて、いっこも賢ならんわだ。その証拠に、もう何万年前から、ずっと戦争しいやるわだ」

歌うような新宮弁で、こう語ってくれたかもしれない。

その喪失感を埋めるかのように、没後、幾冊かの研究書、解説書が出版された。なかで、自己と中上さんを最も重ね合わせているのが、本書であろう。

著者の高山文彦さんは、26歳から9年間、作家・大下英治さんの取材助手を勤めてきた。自分の名前で作品を発表することはなかった。最初の自著が刊行されたとき、妻は泣いた。

中上さんの母は、漢字を読めなかった。本を読むと頭が変になると、子どもたちに読書を禁じた。新宮の春日にかぎらず、全国どこの被差別部落でも、こんな話に行き当たる。たとえば、都会で電車にひとりで乗れない。駅に有人の窓口がなくなり、券売機が設置されたからだ。文字が読めないと、切符すら買えない・・・・。

路地(熊野の被差別部落)の子どもとして、初めて文字をわがものにした中上さんも、高千穂の山村に生まれた著者も、ひときわ文字がかたちづくる世界、文学への思慕と渇望が深かった。

4回目の候補で受賞となった芥川賞。記者会見場で、中上さんは担当編集者のワイシャツに顔をくっつけ泣いた。

高山さんは、当事者への取材をもとに、こう再現する。

「あなたが、はじめておれを人間あつかいしてくれた。おれにたいして、はじめて人間あつかいしてくれた」

「(中略)あなたに会わなかったら、ほんとに永山則夫になっていたよ。あなたのお蔭です、そうならなかったのも・・・・・」

最後は嗚咽になって、かすれた。

もうひとり、忘れられない編集者がいる。処女作のころからの伴走者だ。

「この原稿は発表できない」

期が熟していない。せっかくの素材が未消化だ。理由を列挙して、『エレクトラ』220枚の雑誌掲載を、かれはこころを鬼にして断った。生まれ故郷の新宮を舞台に母系の一族と母殺しの物語を、ギリシア悲劇をモチーフに書き上げたもの。この作品は、八王子の自宅が長男の失火により全焼し、幻となる。

ふたりの編集者との濃密な交わりを支柱とし、「日本の原郷」熊野の被差別部落を礎石に、著者は中上さんの実像を組み上げていく。

人生は、出会いで決まる。中学一年生のとき、山本愛という国語教師にめぐり合い、緑丘中学校の生徒会誌に習作「帽子」を発表した。山本は健次少年に対して文才があるという程度ではなく、文学的才能があると鼓舞した。愚図で引っ込み思案の肥満児。私生児。そして「部落民」。幾重にも桎梏を背負った身に、大きな励みになったことは、想像に難くない。このあたりが、読み手にも、ひときわ心地よい。記者会見場で泣いて離さなかった編集者の向こうに、山本の姿も浮かんでくるようだ。

青年となって上京した後も、帰省のたびに地元の詩人が主宰する紀南文芸の会に顔を出し、同人誌「道」に詩を寄稿している。新宮で刊行されていた「さんでージャーナル」に載った『故郷を葬る歌』の一節を紹介しよう。

ひらけ熊野

俺の男根とはらからの精液をくめ

浅利

亀井

山下を刺せ

ほそぼぞと肛門をひらき流れる売春婦(みうり)川よ(中略)

市長を殺せ

教育長を殺せ

裏切り者渡辺靖男をしばり首にしろ

母千里を殺せ

父、七郎を殺せ、留造を殺せ

姉、鈴枝を殺せ、静代を殺せ、君代を殺せ

熊野よ、わがみくそもじよ

わが町、春日を燃やせ、野田を燃やせ

この連潯(れんじん)にしるされたもろもろを

呪え(以下略)

故郷への愛憎がまじったアンビバレントな感情は、どうだろう。

著者は、熊野三千峰の山襞に入っていくように、作家以前の中上さんの内面に沈潜していく。同時に、新宮の路地がいかに発生したのか、史料にあたる。

遠州浜松の藩主・水野重央(しげなか)が新宮藩主として転封。武士には、兜や鎧のサネをつなぐ革紐、弓の弦など皮革が不可欠だ。武具・防具の製造に携わる職人、処刑人を帯同。かれらが春日に住みついた。近世以降は、このように始まった・・・・。

部落史になじみが薄い読者への配慮も忘れない。

また、著者は、一族で事故死した者が多いと実名をあげて検証する。

事実、路地の男は、簡単に死んでいく。転落死。圧死。窒息死。危険で過酷な雑業で生計を立てる以外、道が乏しかったからだ。そして劣悪な住宅に暮らし、過度に飲酒し、生存の証のごとく性交する。

「多情多恨の路地の者たちは蜂のように蜜を運び、花のように受精した」

著者の路地を語る日本語は優しい。路地の男は、現世に見切りをつけるのも早い。中上の兄も、書評者の同級生の路地の男(建築業)も自ら命を絶った。

そして再度、思いを新たにする。熊野全体が、中上健次の孵卵器であったことを。

日本初の口語童謡「お正月」や「はと」の作詞者・東くめ。大逆事件で獄死した初期社会主義者・大石誠之助。文化学院を創設し、戦時下に男女共学、制服・校則なし、自主的な教科書の制作した山林王・西村伊作。谷崎潤一郎の妻を「譲渡」の佐藤春夫。新宮が生んだ自由な文化人の血潮が、今も熊野にとくとくと脈打っている。中上さんは、その波打つ沃野に育ったとも言える。

法名・文嶺院釈健智。

志半ばで倒れた「文学の獣」は、熊野灘の怒涛が聞こえる新宮の南谷墓地にねむっている。墓石は、土建業を営む肉親が、公共事業の工事現場から掘り出してきた巨岩を加工したもの。墓標まで、中上さんらしい。

都市だけが歴史の舞台ではないぞ。辺土を見よ。本書からは、正史には決して姿を現さない、近代日本の無告の民の叫びがきこえてくるようだ。