兄様は全てを知っている
「ウィリアム様はとてもお優しく聡明な方なのにミステリアスな雰囲気があって素敵だわ」
「あんなにも物憂げで儚げなルイス様が心惹かれるお方はどんな人なのでしょう」
「今夜はお二人ともいらっしゃらなくて残念ね」
「もっとあの二人のことを知りたいのに」
必要に駆られて参加した社交界で、婦人達のそんな声が聞こえてきた。
億劫ではあるが情報収集には役立つため、アルバートはモリアーティ家当主として求められる華やかさを背負ってこの場にいる。
社交界自体の規模は大きくないのでウィリアムもルイスも置いてきたのだが、それで正解だったようだ。
多くを持たない自分が唯一執着した兄弟として完璧な美しい弟達のことを、アルバートは他の何よりも溺愛している。
見目麗しい二人をこういった場に出せば数多の人間を魅了してしまうのは確実で、それを避けるために公的な場での注目を一手に引き受けてきたのだが、そのせいでより興味を抱かせてしまうのは面倒なことこの上ない。
ウィリアムは時折社交界に参加しているが回数は少ないし、ルイスに至ってはほぼ参加させたことがないのだから、その秘密を暴きたくなるのは人間心理として正しいのだろう。
耳障りな声で何かを喋っている目の前にいる貴族の声を聞き流しながら、アルバートは手元のグラスを傾けては弟達の瞳を思わせる赤を目で楽しんだ。
「お帰りなさい、アルバート兄様」
「お疲れ様でした」
「あぁただいま、ルイス、ウィリアム」
主催の顔を潰さない程度に場を盛り上げてきたアルバートは、惜しむ声に適当な笑みを返して早々に帰宅した。
住み慣れた屋敷に足を踏み入れれば、まるですぐそこで待っていたかのように弟達が出迎えてくれる。
不自然に着飾った人間達しかいない空間とは違い、ここは元々が美しいものばかりで作られていて心が落ち着く。
己の帰宅を喜ぶルイスとウィリアムの存在はアルバートにとって何よりの癒しだ。
アルバートは手を差し出したルイスにコートとハットを渡し、弟達を引き連れてリビングへと向かっていく。
「兄様、ワインと紅茶のどちらを用意しましょう?十分に飲んできたのであればホットティーを用意しますが」
「いや…あまり楽しめなかったからな。ワインとそれに合うものをお願い出来るかい?」
「分かりました。兄さんの分も用意しますね」
「ありがとう、ルイス」
部屋に着いて慣れたソファに腰掛けるとようやく一息つくことが出来た。
気分良く飲み直すためのワインを頼めば快くルイスは了解してくれて、いそいそと厨房へと足を運んでいく。
その後ろ姿をウィリアムとともに見届けてからその顔を見れば、変わらず優雅に微笑んでいる彼がいる。
「ふ…」
「兄さん、どうされましたか?」
「今日、お前とルイスがいないことを嘆く婦人の声が聞こえてきてね。あまり公の場に出ないせいか、お前達のことをミステリアスだと表現していたよ」
「知らないものを暴きたくなるのは自然な反応ですから。兄さんにばかり任せてしまいすみません」
「構わないよ。ウィルとルイスに面倒な思いをさせるのは私としても心苦しい」
「ありがとうございます」
整った容貌は冷たくも見えるのだろうが、柔和な笑みがそれを和らげていた。
加えてこの場には信頼した兄弟しかいないのだから、今のウィリアムの表情は最も穏やかな部類に入る。
他者を寄せ付けない仮面めいた笑みとは違う、安堵に満ちた甘いそれ。
アルバートには見慣れた表情だが、きっと彼を知らない人間が見ればより一層惹かれてしまうほどに蠱惑的なものである。
本人が意図していなくても、たぶらかされてしまう人間は多くいるだろう。
「彼女達にしてみれば、ウィルもルイスも秘密に満ちた気を惑わせる存在なんだろう」
「どうでしょうか。それほど大それた存在のつもりはありませんが」
「よく言う。だが、お前達の本当の姿を知るのが私しかいないと思えば気分が良いな」
「ふふ」
「ウィルがルイスに触れる指先の優しさも、ルイスがウィルを見る視線の熱も、お前達が誰より尊く愛を育んでいることも、彼女達は何一つ知らないのだから」
アルバートは足を組みその膝に両手指を組んだ手を乗せて、煽り見るようにウィリアムへと視線を固定する。
気品あふれるその視線を受けて尚余裕を崩さず、ウィリアムは同じく足を組んだまま優雅に微笑んだ。
ウィリアムとルイスが互いを想い合うことに理解があるどころか、アルバートはそんな二人をこれ以上ないほどに愛でている。
大袈裟ではなく、二人の本当の姿を知るのはアルバートしかいないのだ。
敬愛する兄が見守ってくれている安心感はまるで優越感に変わっていくようだった。
「そうですね。僕とルイスについて一番よく理解してくれているのはアルバート兄さんです」
「自惚れではないが、ウィルとルイスに関しては誰より詳しいという自負がある」
「それは嬉しい。たとえばどんなことを知っているので?」
「そうだな…ウィルはルイスがいないと一人では上手く眠れない、だとか」
「んんっ」
何を飲んでいたわけでもないのに突然咽せてしまった弟を、アルバートは楽しげに見つめている。
もうそろそろルイスがワインといくつかのアミューズを用意して帰ってくる頃だ。
日中二人きりで楽しんでいたのだろうし、つまらない社交界に参加してきた代わりに遊ぶことくらいは許されても良いだろう。
アルバートは笑みを深めて珍しく目元を赤く染めているウィリアムを見た。
「あぁ勘違いしないでくれ。決して子どものようだと揶揄しているわけではないよ。幼子とは随分と違う意味合いであることは重々承知している」
「…アルバート兄さん、それは」
「昔はルイスも一人で眠れなかったが、今ではある程度慣れてウィルがいなくても眠れるようになったな。だがウィル、お前は変わらずルイスがいなければ上手く眠れないんだろう?」
「よく、ご存知で」
「ルイスはあの見た目で存外豪胆だからな。ウィルの方がよほど繊細だよ。お前は元々ショートスリーパーではあるが、ルイスがいないから眠ろうにも眠れない夜もあったはずだ」
「…お察しの通り」
「まぁ意図して起きていようとしたとき、敢えてルイスを先に寝かせるのは褒められた手段ではないな。ルイスも寂しがっていたし、ウィルが休んでくれないと憤慨していたのも一度や二度ではない」
「ルイスがいると眠くなってしまうので、遅くまで起きていたいときはどうしても距離を置きたくなるんですよね」
「贅沢な話だな」
アルバートは苦笑しては足を組み直し、ルイスの足音がまだ遠くから聞こえるのを確認する。
そうして珍しく表情を崩したウィリアムを見ては日頃ルイスがぼやいていた悩みを解決するべく、低く甘い声を出した。
「さてウィリアム、ここで一つ提案だ。私が今の情報をルイスに売ると言ったらお前はどうする?」
「…今後、三日に一度はちゃんと眠ると約束しましょう」
「二日に一度」
「……分かりました」
「さすがウィル。聡明な弟で兄は嬉しいよ」
にっこりと笑みを深めたアルバートに、ウィリアムは諦めたような息とともに笑みを返した。
向けられたことはないが、アルバートが弟以外に向ける笑みはどこか胡散臭く白々しい。
隣で見かけることはあったけれど、おそらくこの表情はそれとよく似ているのだろう。
なるほど、これは逆らえない。
ウィリアムを心配するルイスの肩を持ち、それでいてアルバート自身もウィリアムの体を心配しているのがよくよく伝わってはくるけれど、その方法がスマートでありながらもいささか乱暴だった。
真相を知ってしまったルイスをけし掛けられてしまうとウィリアムには抵抗する術がないのだ。
ウィリアムは兄という存在の強さを実感しながら、近付いてくる足音の方へと視線を向けた。
「お待たせしました、お二人とも」
「お帰り、ルイス」
「ありがとう」
ワインボトルとグラス、アミューズの皿を乗せたトレイを持って帰ってきたルイスが机にそれらを並べていく。
注がれていく透き通った色が美しい白のワインは、酒というよりもグラスを飾る装飾品のようだ。
三つのグラスにその装飾品を注いだルイスは、続けて慣れたようにウィリアムの右側へと腰を下ろす。
目の前に二人の弟がいる状態を満足げに受け入れ、アルバートは用意されたグラスを手に取り優雅に喉を潤した。
「ふぅ…ようやく一息ついた気分だ」
「兄様、今日はどんな情報が手に入ったのですか?」
「大した情報はなかったよ。どこぞの婦人がお前達のことを知りたいと嘆いていた程度のことしかない」
「それはまた…酔狂なことで」
アルバートと同じくグラスを手に取りワインを楽しむウィリアムとは違い、ルイスは静かにアルバートの話を聞いている。
ウィリアムは数多の人を惹きつけるのだから興味を唆られるのも当然だろうが、そこに自分も当てはまるのかと思うと疑問符しか浮かばない。
そんなルイスの考えが手に取るように分かるのか、アルバートもウィリアムも敢えて訂正することはなく勘違いさせたままで居ることを選ぶ。
言って聞かせようにも自己評価の低いルイスの価値観を変えるのは難しいのだ。
「兄さんはともかく、僕のことなんて知っても意味はないでしょうに」
「そうでもないよ。私はウィリアムの次にお前を知っているという自負があるが、知れば知るほどルイスを愛しく想う」
「…それは、兄様が僕の兄様だからではないでしょうか」
「ふ、一理あるかも知れないな」
アルバートに甘やかされるのは何度経験しても慣れることはない。
そんな様子でルイスは頬を赤らめて視線を彷徨わせるが、その姿こそが愛おしさの原因なのだ。
気持ちを立て直したウィリアムがルイスを見つめる様を含め、アルバートは微笑ましい弟達の姿をしかと目に焼き付けていく。
「兄さん、ルイスについてはどんなことを知っているのですか?」
「ウィリアムの知らないルイスとなると中々条件が厳しいが…そうだな、ルイス」
「はい」
「先週よりも髪の毛にまとまりがある。この一週間、ちゃんとウィリアムに髪を乾かしてもらっていたんだね」
「え?」
「……」
ウィリアムが押し黙ったルイスの髪を見れば、普段と変わりなく艶のあるふわふわしたそれが形の良い頭を飾っている。
いや、普段と変わりなく、というほどウィリアムはあまり髪の毛を意識したことがない。
色と手触りくらいは抱きしめたときに感じるから変化にも気付くだろうが、まとまりなど気にしたことがないのだ。
だがふと思い出してみれば、しばらく前のルイスは後ろ髪がよく跳ねていたように思う。
それはそれで可愛らしかったし気にするほどのことでもなかったから、跳ねた髪ごと丸い後ろ頭を撫でていた。
今は記憶の通り、滑らかな猫っ毛が綺麗なフォルムで存在している。
「ルイスの髪は私ほどではないが少々跳ねやすい。ウィリアムには分からないだろうが、癖のある髪を持つ人間はきちんと手入れをしなければ髪がいうことを聞かないものでね。ルイスは髪をウィリアムに乾かしてもらわないと、随分と元気の良い跳ねを見せてしまうんだ」
「言われてみれば、たまにこのふわふわが大きいことがありましたね」
「それはほぼルイスが自分で髪を乾かした結果だろう。ルイスは自分のことに関しては興味がないというか、普段の器用さを無くしてしまうからな。一人では上手く乾かせないんだろう」
「ち、違います!下手なわけじゃなくて、最後まで乾かすのが面倒なだけです!」
「それならば尚のことアウトだろう。せっかくの綺麗な髪なのに、ルイスが大事にしないでどうする?」
「…ただの髪ですし」
気まずそうにアルバートから視線を逸らすルイスの本心は簡単に察してしまえる。
ウィリアムに髪を乾かしてもらうのがすきだからこそ、自分でやるのは億劫になってしまうのだろう。
それに気付いた瞬間、ウィリアムは自分の知らなかったルイスを知ることで一気に彼への愛しさが増してしまった。
いくら仕事が立て込んでいようといくらでも乾かしてあげるというのに、ルイスはウィリアムの中での自分の立ち位置を低く低く見積もっている。
細く絡まりやすい髪を慈しむ時間はルイス以上にウィリアムの方が大切にしているのだ。
少し前は確かにルイスが一向に部屋を訪ねてこなかったため髪を乾かしてあげられなかったし、本人には伝えなかったけれど密かに寂しく思っていたものである。
落ち着いた色合いの金糸を優しく指で梳き、僅かに跳ねている後ろ髪を撫でつけるように触れてみるがすぐにぴょんと飛び出てしまう。
その様子を見たアルバートは愉快そうに、そしてそれ以上の愛おしさを込めた声で忠告した。
「ウィル、この通りルイスはお前がいなければ綺麗な髪を台無しにしてしまう。お前が大切にするしかないだろう」
「そうですね。ルイス、これからは遠慮しなくて良いんだよ。跳ねている髪も可愛いけれど、君にはこの丸いフォルムが一番よく似合う」
「でも、ご迷惑なのでは」
「まさか。僕のルイスを僕の手で整えられるなら、他のどんなことより優先すべき事項だよ」
唇に隠しきれない歓喜を滲ませて、ルイスはかすかに俯いた。
そうしてゆっくりと上目にウィリアムの顔を見上げ、偽りのないその顔に安堵したように赤い瞳を緩ませた。
綺麗な二種類の赤が互いを見つめて熱っぽく潤む様子は、他のどんな宝石よりもよほど美しい。
大切な弟達のことをアルバートはそう評価しているけれど、他の誰かに理解を求めることなど決してしない。
ウィリアムとルイスを最も知っているのは自分だけであり、自分以外の存在を許すことはないのだから。
「兄様は僕のことをよく知っているのですね」
「あぁ。私はお前の兄だからな」
「他にはどんなことを知っているんですか?僕の知らない兄さんのことを知っていますか?」
「そうだな…」
ルイスが身を乗り出してアルバートに聞き縋ろうとする隣で、ウィリアムは指をひとつだけ口元に押し当てている。
いかにも、内緒ですよ、と言っているその姿を見て、さてどうしようかとアルバートは思案した。
ルイスは可愛い末っ子だが、ウィリアムとてアルバートにとって大切な弟だ。
二日に一度はちゃんと眠ると約束したのだから別の情報を教えるべきだろう。
そう考えたアルバートは期待に満ちた瞳をしているルイスを見やる。
「ウィリアムはルイスがそばにいないと少しばかり調子が悪くなる。集中力がなくなると言うべきか…本を読んでいてもぼんやりどこかを見ている時間が多い」
「そう、なんですか?」
「兄さん」
「ルイスが街へ使いに行くときに屋敷で待っているウィリアムは中々愉快だよ。微動だにせず椅子に腰掛けていて瞬き一つしないのだから。なるべく早く帰ってきてあげると良い」
「そうなんですか、兄さん」
「…さぁ、どうだろう」
赤く美しい宝石の一対が歓喜に染まり、より美しい輝きを見せている。
一方でもう一対の赤は照れたように瞼で隠されてしまっていて、嬉しそうな弟の姿をそこに映そうとしていなかった。
ねぇ兄さん、本当ですか?兄さん、ウィリアム兄さん、と袖を引いて真実を確かめようとしているルイスは年の割に幼く見える。
心からウィリアムがすきなのだから、自分のいない状況でも自分を求めているのだと知れば嬉しいのも当然だろう。
アルバートの言葉とウィリアムの態度で真実がどうか分かっているだろうに、どうにか肯定の言葉を引き出そうと縋る様子が可愛らしかった。
「ご安心ください、兄さんが望むなら僕はずっとおそばにいますね!」
「そうだな、それが良い。ルイスもウィリアムがいないときは随分と落ち着きがないからね」
「ルイス、そうなのかい?」
「に、兄様」
「ウィルがいないときのルイスははっきりと背中に哀愁が漂っている。見かねた私が声を掛けるときもあれば、寂しさを緩和させるためにルイスから私を訪ねることもあるな」
「へぇ、そうなんだ?」
「…!」
今まで知らなかったルイスの様子を知り途端に生き生きとするウィリアムをよそに、ルイスはあわあわと手を動かしては最終的に拳を握りしめた。
それがもう真実なのだと言っているようなものなのだが、口を噤んだルイスは何も言わなければバレないと思っているらしい。
羞恥で染まった頬をウィリアムに見せまいと顔を逸らしてはアルバートをジト目で睨んでいた。
不思議なもので、あれだけ冷たい表情を見せるはずのルイスの睨みが今は少しも怖くない。
拗ねた甘えばかりが先行していていっそ愛らしいくらいだった。
「お前達を最もよく知る私に言わせてもらうのなら、ウィルとルイスと接する中で一番重要なのはお前達を引き離さないことだろうな。ウィルはルイスがいなければ調子を保てないし、ルイスも身嗜みが疎かになる。何より、二人一緒でなければそれぞれの機嫌を保つことは私でさえも難しい」
「アルバート兄さん、さすがにそこまでではないと思いますが」
「ウィリアム兄さんの言う通りです。自分の機嫌くらい自分でコントロール出来ます」
「おや、そうだったかな?学生時代、ルイスに会うため度々脱寮していたウィリアムのフォローをしていたのは私の記憶違いだっただろうか」
「……」
「それに、一足先にウィリアムが卒業してウィル恋しさに落ち込んでいたルイスを日々慰めたのは私だったと思うのだが…違ったかな?」
「……」
「反論はないようだね。ルイス、ワインの追加を貰えるかい?」
「…はい」
空のグラスに透明な白を注がれ、アルバートは一息にそれを飲んでしまう。
そうして赤い瞳を同じくらいに染まった頬を晒している弟達に慈愛の視線を向け、温かな空間と癒される時間を堪能しながら足を組み替えた。
「ウィルもルイスも、互いと離れて生きることが出来る人間ではないよ。私が保証しよう」
アルバートは二人の兄として、他の誰よりウィリアムとルイスの扱いを心得ているのだ。
器用に卒なく生きているように見えて、どちらも互いがいなければ己の保てないのだから脆く儚い存在だと思う。
婦人達がこれを知ることはないだろうけれど、知らないのであれば上っ面でしか二人を評価出来ないのだから哀れなことだ。
この先も一生自分だけしか知らない弟達の取り扱いは正にトップシークレットである。
アルバートはそれを知る優越感を面映く思いながら、似たような顔で照れている弟達を肴にワインを飲み続けた。
(兄様は僕達より僕達に詳しいように思います)
(そうだね…さすがというか、抜かりがないというか、とにかくアルバート兄さんらしいことだ)
(これだけ長い時間お前達と過ごしていれば自ずと分かってしまうさ。ウィルもルイスも私の大切な弟なのだから)