中国の薬物学
https://www.ndl.go.jp/jikihitsu/part1/s3_1.html 【1本草学者の業績と蘭学の誕生】より
本草学ほんぞうがくとは、中国の薬物学で、薬用とする植物・動物・鉱物の、形態・産地・効能などを研究する学問。日本では江戸時代に全盛をきわめ、中国本草書の翻訳・解釈にとどまらず、日本に自生する植物・動物などの研究に発展した。また、鎖国下の貿易相手国オランダがもたらした西洋の学問は「蘭学」と称され、主に医学・天文学・兵学などの分野に大きな影響を与えた。
小野蘭山(おの らんざん) 1729‐1810
小野蘭山肖像本草学者。名は職博もとひろ。京都に生まれ、松岡玄達に学ぶ。私塾「衆芳軒」で研究・後進育成にあたったが、71歳で幕府に招かれて江戸に移り、幕府医学館でも講義した。主著の『本草綱目啓蒙』48巻(享和3(1803)-文化2(1805)年)は、明の李時珍の著書『本草綱目』の講義録で、江戸時代のもっとも完備した薬物研究書。島田充房との共著『花彙かい』は日本の科学的植物図鑑の嚆矢とされ、後にフランス語にも訳されている。シーボルトは蘭山を「日本のリンネ」と評する。門人は山本亡羊、木村蒹葭堂、飯沼慾斎、岩崎灌園、水谷豊文など、全国に1,000人以上いた。小野蘭山関係資料(電子展示会「描かれた動物・植物-江戸時代の博物誌-」)
23 本草綱目草稿 〔江戸中期〕【WA1-10-6】重要文化財『本草綱目草稿』第1冊の表紙
蘭山が『本草綱目』の講義に用いた覚え書き。余白部分はおびただしい書き込みで埋め尽くされており、袋綴じの折り目を切って裏面まで使用し、さらにメモの紙片346枚も付随する。安永末(1780)年頃までに作成され、没するまでの約30年間、補充・訂正を重ねて使用された。講義を聞いた弟子による記録はよくあるが、講述者自身の講義用覚え書きは珍しい。
『本草綱目草稿』第1冊の虫について書かれた部分
木村蒹葭堂(きむら けんかどう) 1736‐1802
木村蒹葭堂肖像大坂で酒造を営む豪商で、文人、博物家。名は孔恭こうきょう。その財で内外の書籍や、海外産貝類などの標本を集めた。本草方面では小野蘭山に師事、『一角纂考』『一角纂考』の表紙『奇貝図譜きばいずふ』『奇貝図譜』(電子展示会「描かれた動物・植物-江戸時代の博物誌-」) などの著作を残した。博学多識で交遊も広く、桂川甫周、大槻玄沢などの学者や、蔵書家で知られる豊後佐伯藩主毛利高標たかすえ、随筆集『甲子夜話かっしやわ』の著者である平戸藩主松浦静山まつらせいざんなどの大名とも親交があった。
24 蒹葭堂雜誌 〔江戸中期〕【WA21-16】『蒹葭堂雜誌』の表紙
物産、動植物など48項目について短文と図を記したもの。掲載箇所は北方の鳥「ヱトヒルカ」(エトピリカ)。「丸くむきたるを前々見ることありて形をうつしをきぬ」とある。
天明5(1785)年田沼意次たぬまおきつぐが蝦夷地へ調査隊を派遣、寛政4(1792)年ロシアのラクスマンが来航するなど、ロシア、北方への関心が高まっていたが、大坂は蝦夷産品の集散地であり、蒹葭堂も蝦夷の地図や産物を集め、蝦夷情報に精通していた。
『蒹葭堂雜誌』のエトヒルカの絵
24関連資料:木村蒹葭堂 誓盟状 天明4(1784)年【WA1-10-7】重要文化財『誓盟状』の外箱
天明4(1784)年、蒹葭堂が小野蘭山の内門(=上級)の弟子になった際の自筆誓約書。「本草学をやめる場合は、入門以来の書写・記録はすべて返納すること」(第3項)など、厳しい内容である。本居宣長の『宇計比言うけいごと』と類似の文書だが、書体のみならず書かれている内容も異なる。『誓盟状』(電子展示会「描かれた動物・植物-江戸時代の博物誌-」)
『誓盟状』
田村藍水(たむら らんすい) 1718‐1776
田村藍水肖像名は登のぼり。通称元雄。姓を「坂上さかのうえ」とも称する。町医であったが、朝鮮人参の栽培などで幕府に認められ、人参製法所の責任者となって人参国産化にあたった。幕命により諸州を訪れ薬用植物の採集や物産の調査も行っている。『人参耕作記』『琉球産物志』『琉球産物志』(電子展示会「描かれた動物・植物-江戸時代の博物誌-」)などの著作がある。老中田沼意次たぬまおきつぐ、薩摩藩主島津重豪しまづしげひで、木村蒹葭堂などとも親交があった。長男は善之よしゆき(号西湖)、次男は栗本丹洲で、ともに幕医・博物家。門下に平賀源内、曽槃そうはん(薩摩藩の本草学者)などがいる。
25 日本諸州薬譜 〔宝暦年間(1751-1764)頃〕【寄別11-5】『日本諸州薬譜』の表紙
藍水の著作『日本諸州薬譜』の草稿の一部。この草稿を整理・浄書する際に、藍水が作業済の目印とした太い斜線や欄外の「済」の文字が生々しい。内容は岩石、金属、温泉などで、動植物は含まない。藍水の子栗本丹洲の孫である大淵常範から、伊藤圭介に与えられた。現在は綴じの順番が狂っており、バラバラになった原稿が伝えられて来たものと考えられている。
『日本諸州薬譜』の石について書かれた部分
岩崎灌園(いわさき かんえん) 1786‐1842
岩崎灌園肖像名は常正つねまさ。小野蘭山に師事。幕府の徒士かちという低い身分だったが、若年寄堀田正敦ほったまさあつに見出された。その結果、屋代弘賢やしろひろかたが幕命で編纂した『古今要覧稿』(多くの書物から類似の事項を集めて分類し、まとめた百科事典形式の書物)の草木部の執筆を担当したり、薬園の設置を許されたりと、活躍の場を与えられた。代表作『本草図譜』は日本最初の本格的彩色植物図譜。
26 本草図譜記〔江戸後期〕【特1-2972】『本草図譜記』の表紙
『本草図譜』配本時の覚書。幕府献上本を含めて各所への配布の巻数・日付を記録している。掲載箇所は徳川御三卿の一つ田安家への配布分の記事。田安家へは、文政13(1830)年の山草類(巻5~8。木版・手彩色本)から配布され、天保11(1840)年6月配布の蔓草類8冊(巻25~32。筆写彩色本)には代金として3両下された旨が記されている。『本草図譜記』(電子展示会「描かれた動物・植物-江戸時代の博物誌-」)
『本草図譜記』のうち御三卿の一つ田安家への配布分の記事
『本草図譜記』の翻刻
26関連資料:本草図譜 巻16(巻5~96のうち)江戸後期【に-25】『本草図譜』巻16-18の冊表紙
田安家旧蔵。『本草図譜』は予約制で配布された。最初の4冊(巻5~8。巻1~4は存在しない)は木版で制作された(ただし、本電子展示会に掲載している本の巻5~8は後補の写本)。資金調達の困難からか、5年の空白後、巻9~96は筆写・手彩色本として制作された。本書のような彩色の図譜の場合、少部数であれば、版木を作って印刷するよりも手で筆写する方が簡便だったのだろう。そのため、出来には差が生じるが、本資料は田安家への配布本で、丁寧に描かれている。掲載箇所は画家竹本石亭画。
『本草図譜』巻16第21丁表から第22丁裏、龍常草・燈心草の部分
コラム国立国会図書館の本草学コレクション
当館には日本有数の本草学コレクションがある。伊藤文庫は、伊藤圭介が収集し、孫の篤太郎が整理・保存していた本草学関係書約2,000冊からなる。その中には、多数の博物家の自筆資料、散逸した著作の実物や写し、一枚刷り、書簡、広告等をも含む『植物図説雑纂』『植物図説雑纂』の目次(122冊(分254冊))などの貴重な資料集がある。また、白井光太郎の旧蔵書で、本草学関係の和漢洋の古書など約6,000冊からなる白井文庫は、主著『日本博物学年表』『日本博物学年表』の表紙に使用された資料のほとんどが含まれる。平成13(2001)年には小野蘭山関係資料89点をご子孫から寄贈いただいた。小野家旧蔵書(電子展示会「描かれた動物・植物-江戸時代の博物誌-」)本電子展示会の『本草綱目草稿』のほか、谷文晁筆の『蘭山翁画像』『蘭山翁画像』の外箱なども含まれており、この2点を含む11点は平成27(2015)年に国の重要文化財に指定された。
(参考)リサーチ・ナビ 国立国会図書館の重要文化財
これらの収集以後も、本草学関係の資料は少しずつ増えている。今回紹介した杉田玄白の書簡は、宛先である木下家からの寄贈、また、南方熊楠の白井光太郎宛葉書は、昆虫学者長谷川仁氏ご子孫からの寄贈である。また、田村藍水・息子の西湖の執務記録である『万年帳』『万年帳』の外箱などもご子孫から寄贈いただいた。所蔵資料が新たな資料を呼び、コレクションがさらに充実していく、善き例と言えるだろう。なお本草学コレクションは電子展示会「描かれた動物・植物-江戸時代の博物誌-」電子展示会「描かれた動物・植物-江戸時代の博物誌-」で紹介している。
『万年帳』巻1の巻頭
杉田玄白(すぎた げんぱく) 1733‐1817杉田家(電子展示会「江戸時代の日蘭交流」)
杉田玄白肖像小浜藩医。前野良沢、中川淳庵、桂川甫周らと『解体新書』を訳述し、安永3(1774)年刊行、日本医学の発展に大きな影響を与えた。晩年の回想録『蘭学事始』には、翻訳の苦労が描かれている。家塾天真楼で大槻玄沢などの弟子を育て、蘭学の発達に貢献した。
27 杉田玄白書簡(『木下文書』のうち)〔文化3(1806)年〕【YR1-N23】『木下文書』の外箱
木下宗白宛。宗白も小浜藩医で、玄白に師事した。内容は、宗白からの手紙に対する返事と類焼見舞いに対する礼状で、年記はないが、文化3(1806)年玄白74歳のものと推定される。当書簡を収める『木下文書』は、宗白の子孫で医師の木下熙ひろむが杉田家からの書簡などを明治42(1909)年に整理したもので、親交のあった日本画家の富岡鉄斎が箱書と自序を代書している。
「杉田玄白書簡」『木下文書』の富岡鉄斎の箱書と自序
「杉田玄白書簡」の翻刻
桂川甫周(かつらがわ ほしゅう) 1751‐1809
『蝦夷草木図』の巻末識語桂川甫周署名名は国瑞くにあきら。号は月池。幕府奥医師で、『解体新書』の翻訳にも携わった。ツュンベリーら江戸参府オランダ商館長一行と会談し、新知識の吸収に努めた。将軍家斉の内旨を受け、大黒屋光太夫のロシアでの体験見聞を聴取、分類記録した『北槎聞略ほくさぶんりゃく』は名著として名高い。
28 蝦夷草木図 小林豊章画 桂川甫周写 寛政5(1793)年【寄別11-2】桂川甫周『蝦夷草木図』の表紙
幕吏小林豊章が寛政4(1792)年に西蝦夷地(北海道の日本海沿岸)と樺太南部を調査し、そこで目にした植物を写生してまとめた図譜。掲載資料は、甫周が寛政5(1793)年に幕府の献上本を模写したもの。掲載箇所に描かれているのはポロヤキナ(エゾオグルマ)。伊藤圭介旧蔵で、ピンク色の付箋は圭介筆。圭介の孫・理学博士伊藤篤太郎のメモもあり、本図に「Cineraria」と学名を記したのはシーボルトという。
桂川甫周『蝦夷草木図』のポロヤキナの絵
栗本丹洲(くりもと たんしゅう) 1756?1834
『蝦夷草木図』の跋栗本丹洲署名名は昌臧まさよし。通称瑞見。田村藍水の次男で、幕府医官栗本昌友の養子になった。幕府奥医師として医学館において本草を講じ薬品を鑑定した。それまで十分な研究がなされていなかった動物の研究に尽力し、『皇和魚譜』『皇和魚譜』の表紙『千虫譜』『千虫譜』の目次などの著作を残した。シーボルトに『蟹蝦類かいかるい写真』『魚類写真』(この場合の「写真」は写生のこと)を贈り、シーボルト編『日本動物誌』(Fauna Japonica)にも引用されている。
29 蝦夷草木図 小林豊章画 栗本丹洲写 寛政9(1797)年【亥-215】栗本丹洲『蝦夷草木図』の表紙
若年寄堀田正敦ほったまさあつは、寛政9(1797)年丹洲に命じて所蔵していた『蝦夷草木図』に漢名・和名と注釈を加えさせた。掲載資料は、その際、丹洲が自身のために転写したもの。朱字は丹洲の書入れで、藍字は幕医坂丹邱のもの。江戸時代は木版などの印刷による書物の出版も盛んだったが、書写による写本での流通も引き続き行われた。掲載資料28、29とも原書に近い転写本で描写も丁寧なものだが、元とした本の違い、所蔵者の書入れなどにより、伝える内容はすでに同一ではなくなっている。『蝦夷草木図』(電子展示会「描かれた動物・植物-江戸時代の博物誌-」)
https://square.umin.ac.jp/mayanagi/paper01/ChiBencaoTec.html 【中国本草学の科学技術と思想*1】 より
1.中国伝統医学について
1.1 歴史と特徴
中国では医療の記録を甲骨文字まで遡ることができる。これによると治療は祭祀で行われているので、巫が医療も担当していたらしい。その痕跡として、醫の古字は下半分を酉(酒壺の象形)でなく巫に作ること、『史記』扁鵲伝は「六不治」の一つとして、「巫を信じて医を信じない病人は治らない」と記すことなどがある。
一方、文献上では『周礼』天官の医師に「食医・疾医・瘍医・獣医」の医官4種を挙げるので、専門職として巫から医が分化し始めたのは先秦時代に遡ると思われる。むろんこれに類した歴史経過は、一人中国文明に限るまい。しかし以後、今日まで続く中国伝統医学には独自の特徴と体系が築かれてきた。その初期の要因として、第1に経絡の発見と針灸療法の開発、第2に処方の固定化(命名)と経験の蓄積、第3に本草における薬物知識の蓄積を挙げておきたい。
1.2 範囲と基本古典
中国伝統医学の範囲には様々な体系が含まれる。とはいえ、その主体は基本古典の面から、医経(医学理論と針灸-『素問』『霊枢』『難経』『明堂』等)・経方(薬物治療の処方-『傷寒論』『金匱要略』等)・本草(薬物の鑑別と作用-『神農本草』等)の3分野に大別しえよう。またその他にも、運動療法・食事療法・煉丹服石術・房中術など、予防医学的色彩の濃い養生の分野がある。
2.中国本草学について
2.1 呼称の由来と初期の記載
本草の呼称は『漢書』芸文志に「経方者、本草石之寒温、量疾病之深浅…」、とあることに由来する解釈もあるが、定説はない。しかし、『漢書』郊祀志の成帝(前33~前7)条に「本草待詔」、楼護伝に「護誦医経・本草・方術数十万言」などの記述があるので、遅くとも前漢時代には「木草待詔」という職称や、数十万言を暗誦する一部をなす書物のあったことが知られる。ただし『漢書』芸文志には「本草」と付けられる書の記録がなく、唯一経方の部に「神農黄帝食禁七巻」と記録される書が、あるいは本草書の系統かと疑われるのみである。
2.2 歴代本草書
現在に伝えられる『証類本草』は、500年頃に陶弘景が当時あった『神農本草』と『名医別録』を合編し加注した『本草経集注』を核とし、以後歴代政府の薬局方として『新修本草』→『開宝本草』→『嘉祐本草』→『証類(大観)本草』と宋代まで、順に注釈や薬物を追加した階層的編成となっている。したがって一定の規則に従えば順番に本草書を遡り、各時代ごとの発展状況を知ることができる。また『証類本草』以前の古本草を復元することも不可能ではなく、これまで『神農本草』『名医別録』『本草経集注』『新修本草』などが、日本・中国の研究者により幾度も復元されてきた。
ただし『証類本草』の階層的編成は臨床の利用に不便な体裁である。そこで明代に至り、李時珍は各薬物の形状・作用等の別に歴代の記述を再編成した『本草綱目』を著し、以後の本草学に強い影響を与えた。しかしそこに引用された『証類本草』など先行文献の文章には省略・誤謬が少なからず、利用に当たっては十分な注意が必要である。
3.中国本草の目的と科学技術及び思想
3.1 基原の解明と品質の保証
本草学の目的は、第1に薬物の真偽と良劣を判別し、各々の基原を解明することにある。そのため同名異物・異名同物などの考証と出典調査が要求され、これは後に名物学として発展してゆく。また産地名や産出地の特徴と採取時期・部位(→物産学)、生態・形状の自然科学的観察(→植・動・鉱物学)、乾燥・加工・保存法(→炮製学)、重量・体積の基準換算率の設定(→度量衡)なども品質を保証するために必要であり、いずれも本草学の主要分野として歴代の記録が集積されている。
3.2 作用の網羅と整理
本草学の第2の目的は、各薬物の作用を網羅し整理することにある。これには「五味」「四気」「毒」の3概念が、『神農本草』の段階より用いられてきた。
薬物の味を酸・苦・甘・辛・鹹の「五味」で表現することは、五行説と古代中国の栄養思想が大いに関与している。つまり「五味」は薬物自身の持つ栄養素-成分の象徴的表現といえるが、同時に品質の鑑別も兼ねていることは無視できない。一方、陰陽思想からは、病態に対する薬物の暖めたり冷やす作用を、寒・熱・温・涼の「四気」に帰納する。しかしそれは概念上の規定にすぎず、個々の薬物では寒・平・温の3類に大と微を前付し、実際は5~6段階に規定されている。さらに薬物の生体に対する有用性は、有毒と無毒に総括して表現される。ただし有毒とは、長期ないし大量の服用を前提とした有害作用のことで、必ずしも致命的な毒性のみに限らない。以上の3概念は、薬物自身の特性、病態に対する特性、生体に対する特性より各々が規定されている点で興味深い。
しかし薬物の臨床応用にとりわけ必要なのは、具体的な効能の記述といえよう。そして歴代の記載には、現代の薬理スクリーニングの参考にすべき点も多い。かつそこには主作用ばかりでなく、副作用も短期服用と長期服用に分別して観察する視点が見られる。
他方、薬物の効能を古くは「下痢を治す」のように症状で表現していた。唐代頃になると医学理論の体系化と並行し、「胃腸の冷えを治す」のように、病理・臓腑概念を介した記述が徐々に増加してくる。そして宋末頃より「四気」「五味」概念を組み合わせた多様な薬理説が提唱され始め、明代には薬理的表現が主流となり現代の中国に至っている。しかし日本では江戸中期以降、それら薬理説の思弁的傾向を排撃する考えが主流である。
3.3 応用
本草学の第3の目的は、各薬物の具体的な使用方法を指示することにある。一般にその指示には、単味で投与する場合と2~3味の簡単な処方を投与する場合がある。
後者については他薬との相乗作用を、「七情(単行と相須・相使・相畏・相悪・相反・相殺)」から規定することが、六朝時代以前より盛んに議論されていた。また各薬物や病状に応じた製剤(煎剤・散剤・丸剤・膏剤・霜剤)、服用法(時間・分量・年令・体力・症状)の指示も早くから議論されている。とりわけ製剤方法には、六朝時代までに精緻な技術が開発されていた。いうまでもなく、それらの目的は主作用の増強と副作用の軽減にあり、現代も使われる漢方処方が後漢時代に開発されていた最大の要因といえよう。
3.4 薬物の分類
本草では多種の薬物を整理する都合上、それらを何らかの方法で分類しなければならない。
まず『神農本草』で行われたのは上薬(無毒で長期や多量に服用可能の長生薬)、下薬(有毒で短期のみ服用可能の治療薬)、中薬(上薬,下薬の中間的性格の薬物)の3品分類である。これは三才思想や神仙思想を背景に持つとはいえ、人体に対する作用面から自然を類別するという中国本草に独自の視点である。次いで5世紀末の陶弘景からは、玉石・草木・獣禽・虫魚・果穀菜などの自然分類も3品分類内に併用された。しかし16世紀の『本草綱目』が自然分類のみで整理し、3品の類別をただ記述するにとどめて以来、3品分類は名目上の価値も失われた。
ただし3品分類に代わり、より細分化した効能面からの類別が12世紀末頃から自然分類に併用され始めてくる。それが発展し清代に至ると、自然分類は用いず、補火・滋水・温腎・散寒などの薬理面からのみ分類した本草書も出現した。これは上述の効能表現法の変化と呼応した傾向であり、現在の中国では近代薬理学的観点も加味した効能分類法が一般に採用されている。
3.5 新薬の開発と収載
中国本草の薬物数は、漢代頃の『神農本草』365種から現代の『中薬大辞典』5767種まで、徐々にその数量を増加させてきた。そして歴代の新収薬は、どの本草書の段階で採録したかを明記するのが原則なので、その由来を時代的に把握することも可能である。それらを見ると新収薬は、民間薬の収載、国内(南北)や外国(ペルシヤ・インド・タイ・ベトナム・朝鮮・日本・欧米)との交流によるのが大部分だが、類似薬や偽薬の収載と分条による場合も少なくない。
4.中国本草学の現代的意義
中国本草学は約2000年にわたり積み重ねられてきた体系であり、その現代的意義は多面に及んでいる。すなわち第1には中国の中薬学や日本の和漢薬学など、伝統医療の基礎分野として。第2には生薬学・天然物化学・薬用資源開発など、現代薬学の資料として。第3には医学史・薬学史・生物学史・農学史・科学技術史など、中国史の史料として。そして第4には博物学・文献学・文字(字形・音韻)学など、中国学の史料としてである。以上のごとく本草書はそれ独自の研究にとどまらず、諸分野の研究にも限りない価値を提供している。