「変化」を拒み「一定」を嫌う人々
次期総裁選で賑わす連日のニュース。
私達はいい加減、人間の心理を弁える必要があると強く思った。
総理の支持率は、
「低いところから功績が認められ徐々に上がっていく」のか、
「高いところから徐々に下落していく」のか。
さて どちらだろう。
答えは前者である。
なぜなら毎度毎度、現総理の至らなさに呆れ、消去法で逃れ逃れ辿り着いた次期総理であるため、誰が成っても「よし、これなら‼」というマインドに国民が浸ることは永久にない。
前任から逃れた一時的な期待感が、新内閣発足時の(やや高い)数値を作り出し、そこから徐々に低迷していくのがオチだ。
人は「変化」を恐れ、拒むくせに「一定」に飽きる癖(へき)が在る。
では、どこで変化を拒み、どこで一定に飽きるのか?
それは、自分自身がリスクを犯すか否かで多くは決まるようにできている。
言い換えれば「自分にとって都合の良いことか悪いことか」の判断によって、だ。
デジタル操作を得意としない人にとってはアナログを押し通そうとするだろう。
車を買い替えたい人は、前のものに飽きてしまったけど、支払いも終わっていて自分にリスクが無いから決断できるのだろう。
ようは、自分に不都合は変化は受け入れないけれど、同じことの繰り返しには飽き飽きして変化を求める生き物という理解さえあれば良いのだと思う。
では先の話題に戻り、リーダーへの信頼や期待という面において、私たちは前任との比較で物事を判断するという相対評価を繰り返しているうちは、物事の真髄や本質を見抜く癖(くせ)を習慣化できているとは言えない気がする。
癖(へき)をやめ、癖(くせ)をつける。
何となくという癖(へき)をやめ、意図して見に行く癖(くせ)をつける。
こうして、頬を叩かれるように目を覚ました あなたに辿り着いて欲しい答えは、
私を含めた凡人は「マクロを語っても仕方がない」ということ。
さ、目の前のことを一生懸命やろう。
リーダーが誰でも、世界がどうでも、自分の家庭や職場の雰囲気は明るくできるはず。
景気がどうでも、息子のサッカーは必ず勝つようにできている。
日本の人口が減少し、景気が悪くなっても早くから全世界株式に突っ込んでおけば孫の代も安心できるのだから。
取り掛かるは自分と、その周りの充実・発展(ミクロ)である。