余野本城(摂津国・豊能町)
<別称> 水牢城(『日本城郭大系』)、余野城(「東摂城址図誌」『豊能ふるさと談義』)、下参照
<住所> 大阪府豊能郡豊能町余野
<比高(標高)> 60m(406m)
<形態> 山城
<時期> 中世(戦国?)
<アクセス>
自治体や付近の方々に聞いたところ、私有地ではあるが立入禁止などではないとのことである。ネットにあるここ付近から登った。
<歴史>
余野付近には城館が非常に密集していることもあり、伝承が混乱しているようである。整理すると、現在「余野城」と呼ばれる城山キャンパス付近は「幣ノ木」城などと呼ばれることが多く、『大阪府中世城館事典』『豊能町史』で「水牢城」と呼ばれる野間口の城は「水牢古城(山)」と呼ばれ(若干、疑問も残る)、余野本城が「余野城」と呼ばれたと思われる。
以上を元に城史を整理すると、水牢古城は鎌倉期の余野氏が築いた城とされ、余野山城守頼幸(能勢氏の一流とされるも、史料からは不明)が明応年間余野に復帰した際に余野本城・余野城・余野城南麓の館を築いたという。そして天正年間の高山氏との対立で全て焼亡したという(以上は『東能勢村誌』、『大阪府全志』)。また『摂陽群談』『摂津名所図会』「新改正摂津国名所旧跡細見大絵図」の「余野古城」、『摂津志』の「余野城」はどちらを指すか分からない。
「東摂城址図誌」の余野城は、小字から余野本城の位置を指している。形状は余野城にも似ているので『豊能ふるさと談義』では混同しているとも推測されているが、西側に井戸が描かれているので余野本城を指していると思われる。
<構造・現状>
大きく中央の主郭とそれを囲む横堀・竪堀群に分けられる。
主郭には西側の虎口付近に土塁が配置され、また虎口から中央に入り込む箇所では道のように郭が窪んでいる。主郭南には櫓台とも捉えられる高まりがあり、何らかの建物が建っていた可能性も考えられる。主郭から横堀へは、虎口以外にいくつか道らしきものが見られたが、構造的に当時からあったとは考え難いので、当時はなかったかもしれない。
北側の横堀ははっきりと構築されているが、時計回りに横堀を辿っていくうちに不明瞭になり、一部では帯郭状にもなっている。また横堀の途中では竪堀が配置され、非常に深く長いものもある。
西側は畝状竪堀群になっている。竪堀の条数は、はっきりしないものもあるため正確に数えることは難しいが、6, 7条ある。非常に緩やかかつ短いが、虎口付近にある土塁を備えた小郭が横矢をかける配置となっており、技巧的な構造になっている。また西側には井戸がある。
「摂津能勢郡の戦国期城館にみる築城・改修の画期」では余野本城の縄張りを「明智系」と推定し、伝承などから天正年間の改修を推定している。一方で『豊能町の中世城郭』では能勢一族との関わりを想定している。
<史料・資料>
『摂津志』、『摂陽群談』、『摂津名所図会』、「東摂城址図誌」、「新改正摂津国名所旧跡細見大絵図」、『東能勢村誌』、『大阪府全志』、『豊能ふるさと談義』、『日本城郭大系』、『豊能町史』、『豊能町の中世城郭』、「摂津能勢郡の戦国期城館にみる築城・改修の画期」、『大阪府中世城館事典』