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「宇田川源流」 コロナウイルス禍で影響を受ける子供たちとその教育に関する宇田川の個人的な持論

2021.09.13 22:00

「宇田川源流」 コロナウイルス禍で影響を受ける子供たちとその教育に関する宇田川の個人的な持論


 コロナウイルス禍が、かなり長引いている。今既に「ゼロコロナ」をいうような人はほとんどいないのではないか。昨年のうちは「ゼロコロナ」を目指せといっていた人々がこぞって前言を翻しているは少なくない。

実際に、私自身「ゼロコロナ」を目指すべきとは主張していたが、一方で「今まで疫病で完全に撲滅したのは天然痘だけである」ということを鑑みて「ウイズコロナ」に舵を切らなければんらないということを言っていた。もちろん「目指す」ということと、現実的に対応するということは異なる。しかし、今回のように「緊急事態」という状態で「目指す」ことを強調していては話にならず、全体を混乱させるだけになる。

 結局、今回の内容で考えれば、その内容をいかに考えてゆくのかということが非常に重要になってくるのである。つまり、現実的な対応を考え、その対応策に関して多くの国民が協力するという体制ができていなければ、物事はうまくゆかない。その意味で、「全体から見て最善の策」を考えるのであるが、日本の場合はその時にも「緊急事態条項がない」ということから、政府が思い切った政策を討つことができない。結局は国民に対してお願いベースの政治対応しかできないのが現状である。

 さて、そのような状況であっても、「現状を変更する」ということは、何かほかに影響が出るということになる。現在でも外食業や観光業などは、かなり大きな影響を受けていることは、当然にその内容をどうするかということになる。「自粛要請」という「お願い」で「カネを出す」ということの是非が問われているわけであるが、一方で、その影響している範囲は、そのような一部の業界だけではなく、そのほかのところにも出てきている。まさに今回上げる子供ということにも考えなければならない。

 正確に言えば、全体にその内容が出てきているのであるが、子供はその部分で影響が出やすいところにあるのではないだろうか。

コロナで子供の学力格差が拡大 塾通いの有無で加速する「分断」

 たとえ環境に恵まれなくても、努力すれば未来は開ける。なぜ勉強するの? なぜ練習するの? と問われたとき、大人はたぶんそう答えるだろう。だが、新型コロナウイルスの感染拡大によって、大人にはそう答えられる余裕がなくなってきた。急速に悪化する家計が子供の学力に影響を及ぼし、さらに子供同士で差別感情を抱かせ始めている過酷な現実について、ライターの森鷹久氏がレポートする。

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 新型コロナウイルスの子供への感染が広がるなか、新学期が始まることを思い、親たちは落ち着かない日々を過ごしている。自分の子供だけはなんとしてでも守りたい、というのが親心ならば、自分の子供だけにはどうにか勉強をさせたい、スポーツをさせたい、と思うのも、やはり親心である。そんな親心が、コロナ禍に見舞われた子供達の環境を、歪に変貌させている。東京都内の学習塾関係者が打ち明ける。

「コロナ禍で、子供たちの学力や体力に明らかな差が出てきています。当校は比較的授業料も高く、教育に熱心な親御さんが多いため、感染対策で授業がなくなっても、子供用のパソコンやタブレットを買い与え、すぐにリモート授業環境を整えられる方ばかり。コロナ禍による授業の遅れもあり詰め込んだスケジュールになっていますが、その分、塾に通えている子供達の学習スピードは早いんです」(都内の学習塾関係者)

 問題は、家計に余裕がないなどの理由で、塾に行けない子供の存在だ。休校や短縮授業によって大幅な学習遅れが発生しているという学校も少なくない。そのような環境にあって、塾に行かず、学習の機会が学校だけという子供たちは、目に見えて学力が低下しているというのだ。

「そうした家庭は、親御さんが非正規社員などで収入も低く、コロナ禍であっても仕事は休めない。だから、子供の面倒を見る時間も余裕もなく、結果的に子供は置き去りにされています。そんな家庭環境では、よほど勉強が好きでない限り、子供が自発的に学習に取り込むことはほぼないと言っていいでしょう」(都内の学習塾関係者)

 こうした「格差」の傾向はすでに顕在化していて、以前、筆者は取材し記事にしている。たとえば、塾に通っていた生徒でも、両親がコロナの影響で収入が減ったため塾の授業数を減らさざるを得ず、学習機会を奪われるような事態も起きていた。あの後、子供たちを取り巻く環境はますます過酷になっていた。

「富めるものはますます富み……ではないですが、余裕のある家庭の子供はコロナ禍だろうが勉強も遊びもなんでもできて、余裕のない家庭の子供は勉強も遊ぶこともできない。たとえ学習意欲がある子でも、そうした環境に陥れば、成績は確実に落ちます」

 こう話すのは、東京都内の学習塾経営・松尾隆さん(仮名・40代)。商店街に位置する地域に根ざした中堅規模の学習塾で、授業料も手頃だからか、あまり学習意欲の高くない子たちが「なんとなく通う」ような場所だった。しかし、コロナ禍が続き、生徒の親たちが経済的に困窮し始めると、子供たちの様子は一変した。

「土地柄、飲食店経営など商売をしている親御さんが多かったせいか、塾を辞めたり、授業数を減らす子供達が出てきたんです。事情が事情だから、授業料を据え置きにするなどして対応してきましたが、それでも親御さんが店を畳んだりして、塾を辞めていく子もいました。この頃からでしょうか、子供たちの中に、妙なヒエラルキーが生まれたような気がします」(松尾さん)

 塾の生徒のうち、家が裕福だったり、コロナの影響をほとんど受けていない家庭の子供たちが、授業にあまり来られなくなったり、辞めていく生徒に対して軽蔑するような目を向け始めたのである。

「生活に心配がない家庭の子達は、塾の他にも有料の学習アプリで勉強したり、親たちのバックアップをしっかり受けている。そうでない子は、裕福な子達を羨ましそうに見ている。まさに『格差』を目の当たりにしたような気分でした」(松尾さん)

 大人でも「格差」を感じた瞬間、人間関係はどうしても歪んでしまう。それが子供なら尚のことで、塾に通えなくなったことは、親の収入の多寡が関係しているとすぐに察し、誰が有利で誰が不利なのかを感じ取る。現状、そこで「いじめ」が起きているわけではないというが、子供達の世界でも「分断」が起き始めているのではないかと危惧しているという。

 また、学力だけでなく体力も同様で、両親がコロナ禍に翻弄されていることでずっと自宅に閉じこもり、夏休みの間、全く運動をしないという子供も出始めている。コロナ禍が終われば、全てが解決される、という風潮もあるが、すでに取り返しがつかないほどの「格差」が出現している可能性も高い。

 どこにもいけない、遊べない子どもたちにとっては退屈だった夏休みが終わり、新学期が始まった。だが、大人だけでなく子供も含めたコロナ感染拡大が止まらない場合は、休校になったり短縮授業になる可能性もあるだろう。そうなれば、生まれつつある格差は際限なく広がっていくのは自明だ。だが、こうした子供達の機微に気づけないくらいに、今は大人たち自身に余裕がなくなっているのだ。

2021年9月6日 16時5分 NEWSポストセブン


 さて、子供の教育というのは誰がするのであろうか。このようなことを言うと「学校」「社会」などということが出てくる。実際に、教育を「施す」ということになれば、特にその教育が学業をさせる、強化を教えるというような状況になった場合には、「学校が」というような話になるのかもしれない。しかし、そもそも「教育」というのは、「学業だけの事なのであろうか」ということになると、必ずしもそうではないということになる。

 さて、では「教育が失敗した」場合、それは「誰が責任を負うのか」ということを考えた瞬間、その答えでよいのかということを考えなければならなくなる。

まずは「教育」が「社会性を身に着ける」「人間性を育てる」ということで定義をし直し、その中の一つが学業であるとなった場合に、その「社会性が身につかなかった」「人間性がない状態の子供が育った」という状態になった時に「学校」や「社会」がその責任を負ってくれるのかということが出てきた場合、実際はどうであろうか。

例えば、もっともテレビなどでわかりやすい話をすれば、極端な例であるが「生徒が何か猟奇的な事件を起こした」という場合、学校や社会は、どのような責任を負うのであろうか。実際に、その家族だけが悪者にされ、なおかつマスコミの餌食になり、そして友人なる人間が出てきて、昔から変人であったかのような言い方をするという現状である。これが「自分たちが教育をした」ということになるのだろうか。

 学業を施すのは学校かもしれないし、社会の温かい目がなければ、人間性などはわからないし、もしも誤った方向に行ったときに、それをたしなめる人がいないということになる。しかし、その人達は「お節介」でしかなく、責任をもって正しい道に連れ戻すようなことはしない。つまり、子供に責任を持つのは親や家族しかないということになる。しかし、現在は「共働き」が普通であり、その家族は教育(社会教育を含む)の場にいないということになるのである。

 さて、そのうえで、上記のような内容、これは「教育」ではなく「学力」ということになっているのであるが、実際はどうであろうか。

 「生活に心配がない家庭の子達は、塾の他にも有料の学習アプリで勉強したり、親たちのバックアップをしっかり受けている。そうでない子は、裕福な子達を羨ましそうに見ている。まさに『格差』を目の当たりにしたような気分でした」(松尾さん)<上記より抜粋>

 単純に「金をかければ学力に差ができる、ということを言っている。まあ、現在塾などで考えた場合には、そのようになる。一方、学校はそこまでの事は行わないし、また、親などが教えるということもあまり現実的ではない。

しかし、このことは別にコロナウイルスと関係があるわけでもないし、また、私のような経験をしていると「塾」に通ったり、「金をかけたり」ということをしたところで、必ずしも学力がつくとは限らない。塾などに通っている人が良いのは「興味を持った教え方ができるか」つまり「子供一人一人に、興味を持たせて勉強をするという習慣づけができるか」ということでしかなく、ある一定以上の勉強は、自分で行うものであり、そのわからないところを聞けるまた調べられるという環境が重要なのである。

 単純に、金さえかければよいというのではなく、「環境づくり」ということであり、その内容を、塾にばかり任せてしまっていては意味がない。学力を作らないことを「塾」に責任転嫁をするこの風習はあまり良くないのではないか。

子供はだれが育てるのか。子供が育った、または育たなかった責任は誰にあるのか。

 そのことを考えるべきではないか。