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EMET

年間第25主日(B)

2021.09.17 20:00

2021年9月19日 B年 年間第25主日

福音朗読 マルコによる福音書 9章30~37節

 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。
 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、 抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

 エルサレム へと進むイエスの道は、十字架に向かって一歩一歩近づいています。かつて、イエスが行かれるところ は どこにでも群衆が集まって来ました。しかし今は違います。「イエスは人に気づかれるのを好まれなかった」と書かれています。十字架が近づくにつれ、イエスは人々の目を避けるようになるのです。それは、イエスが来られた目的が、驚くべき奇跡によって人々を引きつけることではなかったからです。この頃からイエスは、群衆の前で神の権威を示すのではなく、神の愛とゆるし、慈しみを語られます。その中で、ご自分の死と復活を予告されるのです。

 「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。 殺されて三日の後に復活する」。

 イエスは、弟子たちと共にゴルゴタの丘、すなわち十字架の丘へと向かうその途上においてこれを語りました。二度目の受難予告です。一度目の時(8・31参照)は、十字架の出来事がどのようにして起こるのかが語られました。しかし、今回は十字架の意味を説明しようとしています。一度目と違って、この二度目の予告では、長老、祭司長たちによってではなく「人々の手によって」引き渡されるということが強調されています。これは、イエスの苦しみと死の責任が私たちの側にある、ということを語っているのです。しかし、イエスの十字架の背後には、人々を救おうとされる神の堅い決意があります。神が独り子を人々に引き渡され、十字架上で死ぬという出来事は、同時に父なる神のみこころでもあり、御父がその決断をしておられるが故に実現されるのです。

 実際、パウロも次のように述べています。

「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」(ロマ8・31)

 人々を通してイエスを死に引き渡すのは父なる神なのです。イエスはこの父のみこころに従い、私たちに代って死んで下さいました。そして復活は、神の恵みの勝利を語るものです。その救いの恵みは、もはやどのような罪によっても決して取り消されることがありません。それが、イエスを通して神が実現して下さった約束なのです。

 当然のことながら、弟子たちにはこのイエスの言葉の意味が分かりません。それだけでなく、そのことについてイエスに尋ねることもできなかったのです。家に着いてからイエスは、「途中で何を議論していたのか?」と尋ねていますが、弟子たちは黙っていました。イエスは、父のみこころに従って十字架に向かって歩む覚悟をすでにしておられます。しかし、弟子たちは……。この時、自分たちの中で「誰が一番偉いか」と議論していたのです。このようにイエスが私たちを受け入れ、共に歩んで下さっているにもかかわらず、その中で一番偉い者が誰なのかといがみ合い、人よりも先になろうとする人間の現実とは、なんと悲しいものでしょうか。ここからは、イエスと弟子たちが同じ道を歩んでいながらも、それぞれ全く異なる思いでいたことが分かります。彼らは、自分の心の中で密かに抱いている期待を裏切られることが恐かったのです。

 ここで、弟子たちがこだわっている事とは何なのでしょうか。それは単純に、人から賞賛される者になりたいということではありません。弟子たちもイエスの弟子になる時点で、彼らなりに全てのものを捨ててここまで従ってきたのです。この時弟子たちが議論していたこと、それは「弟子としての歩みの中で、自分のやり方こそが一番正しい」という思いです。このような思いは、信仰生活や奉仕の生き方の中でも、無意識のうちに現れることがあります。私たちは、イエスに仕える生き方を選びながらも、弟子たちでさえもそうであったように、いつの間にか人間的な思いや価値観がそこに忍び込んでくるという現実を知らなければなりません。

イエスは、黙っている弟子たちに対して、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と言われます。これは単なる謙遜の勧めではありません。自分は誰よりも謙遜に仕えていると思っている人がいるなら、その人こそが「自分は一番偉い者だ」という思いに陥ります。そこには一番先の者になりたいがために、謙遜に人に仕えるという矛盾が生じてしまうのです。イエスは、「誰が一番偉いか」と議論していた弟子たちの姿に、人間の持つそのような思いを見ておられました。人間の集まるところ、それはどこでもそうですが、弟子たちの集団においても、誰が一番忠実に弟子としての役割を果たしているのかという無意識の競争があったのです。

 同じことは教会においても起こりうる事です。「謙遜になる」ということは、もちろん福音の大切な教えですが、自分は誰よりも謙遜に生きているという思いで、人よりも先になろうとするなら、それは人間の屈折した思いでしかなく、福音でもありません。ですから、イエスは一人の子供の手を取って真ん中に立たせ、その子を抱き上げながら仰います。

「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(マタ18・5)

 ここで語られていることは、「子供のように素直で純真な者になれ」ということではありません。この時代、子供は取るに足りない厄介者でした。しかし、 仕えることの意味を具体的に示すために、イエスは一人の子供を抱き上げてそう仰ったのです。仕える とは、私たちにとって受け入れ易く、かわいらしい子供に仕えることではなく、自分の願望を通すために駄々をこね、思い通りにいかないと激しく泣き叫ぶ子供に仕えることなのです。自分に栄誉をもたらす人に仕えることは、それほど難しくはないでしょう。しかし、イエスは、この小さな子供とご自身を重ね合わせて語っておられます。

 キリストの名によって、子供の一人が受け入れられる所では、イエスが受け入れられているのです。イエスは、十字架において死なれることによって、最も低い立場に立って下さいました。しかし、弟子たちは反対に、自らの栄誉のために上を見上げていました。イエスの十字架の意味が分かっていなかったのです。イエスの言う「全ての人に仕える者になりなさい」ということは、最も小さな者を受け入れなさいということなのです。私たちは、すべての者に仕えることを通して、神の愛を深く悟らされます。子供を受け入れることと、イエスを受け入れることは一つなのです。それは同時に、イエスの十字架と復活の意味をより深く知らされていく歩みでもあります。「受け入れる」とは、その人を仲間として認め、共に歩むことです。低く見られ、相手にされない人を仲間として受け入れ共に歩む……。それが、イエスの言う「子供を受け入れる」生き方なのです。

 根本的に受け入れ難いと思う者を受け入れ、共に歩むのが困難に思える者と共に歩む、それは大変厳しい教えです。しかし、イエスはそれを単なる戒めとしてではなく、自らの模範を通して語られました。イエスの周りにはいつも子供たちが集まっていました。イエスは騒がしいその子供たちを喜んで受け入れ、祝福なさいました。その中でイエスは「すべての人の後になり、すべての人に仕える者となりなさい」と仰っているのです。イエスは、謙遜の競争をして、奉仕の優劣を比較しながら一喜一憂する生き方とは無縁です。イエスの周りでは、幼い子供たちも一番後ろにいる人も安心して集まり、喜んで憩っていたということを、私たちは知らなければなりません。そこにこそ、イエスの語る「神の国、天の国」の姿があります。イエスの語る神は、幼子、乳飲みによってほめ讃えられるのを喜ばれる方なのです。人を受け入れる生き方が、人に仕える生き方の基本であることを、イエスは身をもって示されました。

 弟子たちが陥った人間の愚かさ、そこから解放されるために求められているのは、「イエスのみ名のために」という動機です。「イエスの名のために…」とは、イエスによって成し遂げられた救いのみ業のために、ということです。「救いのみ業」というのは、イエスが私たちのために死んで下さったことであり、イエスの復活によって与えられる新しい命の約束です。この救いのみ業を黙想することによって私たちは、自分が神に受け入れられていることを信じることができます。そこから人々を受け入れていく力を頂き、「すべての人の後になり、すべての人に仕える者となる」生き方が可能になるのです。このことは、神から自分が受け入れられている恵みの中でなされていくものです。それが、イエスを信じて生きることなのです。

 受け入れ難いと思われる人を受け入れて生きる時、そこには当然大きな痛みと苦しみが伴うでしょう。しかし、人間に与えられる本当の栄光、尊厳は、私たちが互いに受け入れ合い、共に生きていくところにあります。イエスは私たちをそのような歩みへと招いておられるのです。そして、その苦しみや痛みを私たちが負うことができるとすれば、そこにはまずイエスが、十字架の苦しみと痛みを私たちのために甘受して下さった事実があります。私たちの生き方の土台には、このイエスの十字架と復活が必ず先にあるのです。

(by The Spirit of EMET)