咲きみちて花におぼるる桜かな
http://kyo-moyai.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/post-6bf4.html 【「和の思想」 長谷川櫂 を読む】より
著者は俳人であり、その分野から「和」をどのように分析するのか興味があり手にした本である。
和食、和服、和室・・・、「和」はいろいろな言葉に添えられて日本的という意味を付け加えているに過ぎないように見える。
だが本来、和とは、異質なものを調和させ、新たに創造する力を指すのだ。
倭の時代から人々は外来の文物を喜んで迎え、選択・改良を繰り返してきた。
漢字という中国文化との出会いを経て仮名を生み出したように。
和はどのように生まれ、日本の人々の生きる力になったのか?豊富な事例から和の原型に迫るものである。と言うのが、この本の大筋である主題である。
先ずは、谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」の分析から始めている。
陰翳礼讃の冒頭から谷崎は「日本的なもの」と「西洋的なもの」の分裂に悩んでいるという。谷崎は陰翳礼讃の世界を実現するために自分で住宅を設計して、日本の光のとらえ方を追求するわけであるが、その考え方、とらえ方の中に白人と黄色人種との違いのとらえ方の影響が大きいと分析する。
つまり、日本人はどんなに白くとも、白い中に微かな翳りがある・・・この白紙に一点の薄墨のしみ・・・という表現についての谷崎が持っている矛盾点を指摘する。
谷崎は政治的、社会的な意図に基づいてこの主張をした訳ではなく、純粋な「美」の信奉者として書いている。
と言う事は、白人の持っている白さに美を感じながら、日本人の肌には「しみ」という翳りを感じるという矛盾をはらんでいる。
西郷隆盛や大久保利通などの近代化第一世代は、明治と言う時代で西洋化という近代化の方針に何の迷いもない。
次の近代化の第二世代・・・文学では坪内逍遥、森鴎外、夏目漱石、尾崎紅葉は親の世代である第一世代の人々が決めた西洋化という近代化の方針とその土台を受け継いだ、近代化の一番最初の相続人であり、選択権はなく、西洋化を進める事を要求された。
次の第三世代は明治になり生まれた人々であり、永井荷風や谷崎潤一郎である。
この世代は明治の近代化の枠組みが完成しつつある時には、受け入れるか拒絶するかの二者択一を迫られる。
そのような時代に自己への問いかけが谷崎の背景にあると分析している。
話が横道にそれてしまったが、本来の「和」とは
この国には太古の昔から、異質なものや対立するものを調和させるという、いわばダイナミックな運動体といての「和」があった。この運動体としての「和」が基本だという結論である。
建築の分野では、小堀遠州の仙洞御所の庭園の水際の構成の仕方、現在建築においては、隈研吾の素材の使い方や構成の仕方から、異質なものの調和を導き出している。
本来の分野である俳句の世界では松尾芭蕉の句をもとに「間」という内容を考え、吉田兼好の「徒然草」や屏風、書から「間」の構成を考察している。
読み進んでくると、「日本的なるもの」という概念には確かに、いろいろなものを取り込んで独自と言うか調和させる特質は「和」の中にあると私自身も考える。
建築においては、1950年代からの歴史を学ぶ中で、一般的に日本的と言われる「寺」にしても大陸から伝来したものである。日本本来の建築形態と言えば、伊勢神宮に代表される神社であるし、そのエッセンスを抽出しなのが、丹下健三の代々木の代々木体育館だと言われている。
しかし、「和」、「日本的なるもの」を考えるのは本当に難しい課題だと思う。
この本で気になった事は「桜」の話
著者は俳句の選者にもされているのが、日本の季語として「桜」の植樹運動をNPO法人で行っている。その「桜」は染井吉野ではなく、日本本来の山桜だ。
桜は明治の近代化以降、良い時代とはいえない。何故ならば、桜の散りぎわの良さが、「潔く散る」という思想のもと軍国主義に利用されたという所が大きい。
俳句をつくる方で「桜」を材題にした句は一切つくらない(戦争の悲惨さを思い出させる)おられるようだ。
平安時代の源氏物語の時代の「桜」は、猛々しい大和魂の象徴ではなく、柔和で優美なものの象徴であったという事である。
「桜」に対して又違う一面を見ました。
https://sectpoclit.com/moshi-1/ 【もしあの俳人が歌人だったら】より
このコーナーは、気鋭の歌人のみなさまに、あの有名な俳句の作者がもし「歌人」だったら、どう詠んでいたかを想像(妄想)していただく企画です。あの名句を歌人のみなさんはどう読み解くのか? 俳句の「読み」の新たなる地平をご堪能ください! 今月の回答者は、鈴木美紀子さん(「未来」)・服部崇さん(「心の花」)・鈴木晴香さん(「塔」)の御三方です。
【2021年4月のお題】
さきみちてさくらあをざめゐたるかな
野澤節子
【作者について】
野澤節子(1920-1995)は、横浜生まれの俳人。1950年代に角川『俳句』編集長をつとめた叙情派俳人・大野林火(1904-1982)が1946年に「濱」を立ち上げると、すぐに投句をはじめた林火っ子。句には、学生時代からの闘病(脊椎カリエス)で培われた「いのちのうた」という趣あり。掲句が詠まれる直前、「蘭」を創刊した1971年には、第4句集『鳳蝶』により読売文学賞を受賞している。
【ミニ解説】
季語は「さくら」(春)。歌人の方は驚かれるかもしれませんが、「桜」と「花」は大方の歳時記において別のものとして扱われています。「花」といえば、平安時代以降は桜のことを指すのが一般的で、〈久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ 紀友則〉が有名ですね。一方、「桜」といえばソメイヨシノが有名で、これは幕末に江戸染井でつくられて明治以降に広まった品種。もちろん、大和の「吉野山」にあやかった名称ですが、あちらはヤマザクラです。当然、平安以降の「花」もヤマザクラでした。
というわけで、この句の桜は一斉に華々しく咲くソメイヨシノ。だからこその「さきみちて」というわけです。その満開の桜は何色でしょうか。白でしょうか。ピンクでしょうか。この作者は「青ざめている」と少しだけ読者の期待を裏切っています。時間帯はいつでしょう。朝でしょうか。昼でしょうか。夕方でしょうか。ここにはいろいろな可能性がありますが、ひとつの解釈としてはまだ涼しい朝。爛漫と咲いているのに、どこか冷たくて、さみしげで、儚げ。そこには野澤節子らしい「いのち」に対する感受性が見えるかもしれません。
俳句では、高濱虚子の〈咲き満ちてこぼるる花もなかりけり〉が有名です。節子は当然この句を知っていたはずです。この「花」もヤマザクラというよりはソメイヨシノと読んだほうがしっくりきますね。この句のポイントは、「花は散るもの」というイメージに対する裏切り。天気がよくて風もなくて散る花びらもない。商売繁盛・諸行無常の響きばかりの忙しい社会のなかで、どこか時が止まってしまったかのような感じです。節子は、この虚子の句をどう思っていたのでしょうか。
節子の句が作られたのは1973年、結社誌「蘭」を創刊してまもないころの一句です。ひらがなのみの表記は、読み手の理解を少しだけ遅らせつつ、読者をこの句の「うた」性に誘っているようにも見えます。前半で2回反復される「さ」の音、後半で2回反復される母音。満開の桜は、「こぼるる花もなかりけり」という堂々とした現実とは逆に、ゆるやかな春の水の流れのように、あるいは淡い水彩画のように、現実感を失っていくところが魅力です。
しかしこのとき節子には何があったのでしょう? 歌人のみなさんはどんな状況や心情を連想されますか?
【回答者1:鈴木美紀子さんの場合】
バレエの「白鳥の湖」。オデットの清純さに惹かれたはずのジークフリート王子は、悪魔ロットバルトの娘オディールの妖艶な魅力に抗うことはできませんでした。来世で王子はオデットと結ばれますが(諸説あります)、官能的なオディールの面影を密かに追い求め、狂おしく胸をざわつかせていたのかも……。
さて、桜の話。真昼の桜と夜の桜は別人のようです。白昼の桜は舞台装置の虚構めいた華やかさですが、夜の桜はどうでしょう。見る者の心をなまめかしく捕らえ、妖しく泡立たせます。脈打つようにゆれる花びらは月の魔力を得て、いのちが発光しているようです。けれど、空にうっすらと朝の光が兆すと、桜は薄くれないの瞼を閉じ、闇の抱擁をほどきながらその素顔を儚く透きとおらせるのです。
それにしても、来世で王子は気付いたのでしょうか。愛に〈咲き満ちて〉人間の姿に戻ったオデットよりも、恋に怯えていた白鳥オデットの〈蒼ざめた〉羽根の方がどんなに美しかったのかを。
【回答者2:服部崇さんの場合】
最近、短歌らしくない短歌って何だろうとたまに考える。短歌には短歌らしい短歌、短歌らしくない短歌があると考えてみるのだが、同じように、俳句には俳句らしい俳句、俳句らしくない俳句があると思う。掲出句では、満開の桜の花が明るいピンク色ではなくうす暗い青色を見せている。天気が曇りで桜の花も青みがかって見えているのかもしれない。
しかしながら、それと同時に、作者の心情が晴れやかでない様子が詠み込まれているようにも感じられる。ここには、景に心情を託すという伝統的に短歌が得意としてきた技法が用いられているのではないだろうか。その意味で、この一句は俳句らしい俳句というよりも「短歌らしい俳句」と言ってもよいのではないか。
ソメイヨシノはエドヒガンとオオシマザクラの交雑による単一の樹が広まったものらしい。何かと何かが交雑して新しい種ができることにはわくわくさせられる。短歌と俳句との新たな交雑から何が生まれてくるだろうか。
【回答者3:鈴木晴香さんの場合】
いつも乗る電車が、聞き覚えのない駅に着いた。いったいどうしたんだろう。新しい駅ができたのかな。そうか、いつのまに工事をしてたのか。そう思いながらしばらく窓の向こうを眺めていると、次も見たことのない駅だ。何かおかしい。何がおかしいんだろう。そうか反対方向に乗っているんじゃないか。なんでそんなことに気づかないんだよ。
ひとは、自分が間違っているということを信じたくなくて、世界の方を修正してしまう。「新しい駅ができたのかな。」そんなはずはない。なのに、私の知らないうちに私がそう思い込んでしまう。あおざめるには、時間がかかる。
手のひらを太陽にかざして、真っ赤に見えるのは私の血潮ではない。ひかりの色が吸収されて、赤だけを通しているのだ。はなびらに血は流れていない。幹の内側の細胞はもう死んでいる。こんなにも咲き満ちた日に、桜はそのことにやっと気がついた。もう何度、咲いてきたことだろう。あおざめるには、時間がかかる。