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『俳句の誕生』

2018.09.14 06:10

https://mmpolo.hatenadiary.com/entry/20180610/1528628355 【長谷川櫂『俳句の誕生』を読む】より

 長谷川櫂『俳句の誕生』(筑摩書房)を読む。長谷川は朝日新聞の俳壇の選者だし、読売新聞に「四季」というコラムを持っていて、毎日俳句や短歌を紹介している。以前伯母の俳句が取り上げられたとき、ここに紹介したことがある。「四季」で紹介したコラムを集めた『麦の穂―四季のうた2008』(中公新書)を読んだこともあった。

 中世(鎌倉、室町時代)に連歌が流行した。そこからやがて「滑稽を主とする俳諧連歌」が生まれた。これを「優美を主とする連歌」に対して「俳諧連歌」、単に「俳諧」と呼んだ。この俳諧連歌、俳諧を明治になって連句と呼ぶようになった。対して1句からなるものを俳句と呼んだ。連句は連ねる句の数に応じて百韻(百句)、世吉(=よよし、44句)、歌仙(36句)などの形式があったが、江戸時代に流行し、芭蕉が心血を注いだのは36句の歌仙だった。

 俳句は歌仙の発句(最初の1句)が独立して誕生した。長谷川は芭蕉の「古池」の句を論じる。それまで蛙=かはづは鳴き声が歌われていた。和歌においては「かはづ」河鹿の声は山吹の花と取り合わせるのが鉄則だった。弥生(旧暦3月)も末のころ、芭蕉庵に集まって句を案じていると、蛙が水に落ちる(飛びこむ)音がときおりするので、芭蕉がまず「蛙飛こむ水のおと」の七・五を作った。其角が「上五は山吹がいいのでは」と言ったが、古池に決まった。其角の提案した山吹は王朝以来の和歌の伝統に則っていた。芭蕉の選択は和歌の伝統を拒否し俳諧の新しい道に入ろうとしていたと長谷川は書く。

 長谷川は近代俳人として、一茶を挙げる。一茶はこれまで芭蕉や蕪村より格下の俳人とみられてきた。一茶は「子ども向けの俳人」と軽んじられてきた。一茶は江戸時代後半の大衆化=近代化時代の俳人だった。芭蕉や蕪村の時代は江戸時代前半の古典主義の時代だった。古典主義時代、俳句をするのは古典の知識のある教養人たちだった。近代大衆社会が出現すると、古典を知らない人々も俳句をするようになる。そうなると芭蕉のように古典を踏まえた俳句はもはや通用しなくなり、日常の言葉で俳句も詠まれるようになる。その要請にもっともよく応えたのが一茶だった。

 一茶の句の特色はまず古典文学に頼らず、誰にでもわかる日常の言葉で描かれていること、次に作者の気持ちが生き生きと、ときに生々しく描かれることである。この二つは俳句にかぎらず近代文学がそなえるべき条件である。

 わかりやすさと心理描写。この二つは近代文学の条件だった。そしてそれを備えた近代大衆俳句は子規になってはじめて生まれたのではなく、一茶の時代にすでに誕生していた。子規は一茶からつづく俳句の大衆化の流れの中で俳句を作っていたのである。子規は「近代俳句の創始者」の栄誉を一茶に譲らなければならないだろう。

 第9章「近代大衆俳句を超えて」には厳しく興味深い意見が綴られている。虚子は大衆に対して、客観写生、花鳥諷詠の標語を提示した。しかし、虚子自身はこれらの標語に束縛されることなく想像力を自由に働かせて句を詠んだ。虚子の批判者となり、同時に虚子の真の後継者となったのは加藤楸邨と飯田龍太だった。二人とも言葉の想像力を自由に遊ばせて俳句を詠んだ。

 敗戦が日本と日本人を変えてしまったと誰でも思っているが、そうではないと長谷川は言う。昭和30年代に始まった高度成長が古い日本と日本人を内部から破壊し、新しい日本と日本人を出現させた。高度成長時代(1954−73)に入ると、近代大衆俳句は飽和状態に達し、内部から崩壊が始まる。誰もが批評めいた発言をし、誰もが選句をするようになった。その結果、どれが良い句でどれがダメな句かわからなくなってしまった。その背景にあったのは虚子の死だという。俳句が批評を失ってしまった。末尾で長谷川は次のように書いて本書を閉じる。

 虚子が去り、楸邨が去り、龍太が去り、大岡信も去ってしまった。この本の最初にふたたび立ち返れば俳句の俳とは批評のことだった。批評を喪失した俳句は果たしてどこへゆこうとしているのだろうか。

 俳句の誕生という題名に引かれて読み始めたが、実に重い内容だった。同時に極めて興味深いものだった。現在の俳句の世界の問題が少しわかったような気がする。


https://book.asahi.com/article/11645386 【切れ字が生む 沈黙の世界と対話 長谷川櫂さん】より

 言語化することで失われてしまう言語以前の世界に、言葉で触れるにはどうしたらいいか。こんな難問への答えを、俳人の長谷川櫂(かい)さん(64)が評論『俳句の誕生』(筑摩書房)で鮮やかにまとめた。鍵になるのは「切れ字」が生み出す「間(ま)」だ。

 芭蕉の句、〈古池や蛙(かわず)飛びこむ水のおと〉について、弟子の支考による『葛の松原』の記述から、「芭蕉は古池を見ていたわけではない。部屋の中での句会で、カエルが飛び込む音を聞いて作った」と分析する。

 「古池や」の「や」は間を生み出す切れ字。この1字によって、芭蕉の心は実在の空間から離れ、心の世界に浮かぶ古池、にたどりついた。それは、言葉の理屈の介在しない「空白の時空、沈黙の世界」であり、その世界でこそ詩歌が生まれる、というのだ。

 実作者としてはどのように沈黙の世界と対話しているのか。俳句を作るときの心の状態は「心がさまよっている、ぽーっとしている」という。意図してそういう状態に自らを置くこともできるが、日常生活のなかで突然、そういう状態が訪れることもあるという。他人との会話の途中や車の運転中、あるいはジムで運動しているときにも。

 2015年発表の句集『沖縄』にはこんな1句を収めた。

 《夏草やかつて人間たりし土》

 沖縄本島のかつての激戦地を訪ねた際に作った句だ。脳裏に戦争をめぐる様々な場面や言葉が次々と浮かんでは消えていった。たどり着いたのが切れ字の「や」と「かつて人間たりし土」という言葉だったという。夏草が茂る実在の風景から、死者たちの血や骨が土を覆う過去へと読者は連れて行かれ、おびただしい死を前に人間が抱く、言葉に尽くせない悲しみや怒りを受け止めることになる。

 『俳句の誕生』では、現代の俳句について〈大衆化が極限にまで進み、内部から崩壊しつつある〉と警鐘を鳴らした。〈批評と選句の能力を備えた俳句大衆の指導者だった〉高浜虚子の死後、高度成長とマスメディアの発展によって大衆化はさらに進み、批評は衰退していった、とみる。近年では加藤楸邨、飯田龍太の名を挙げ、「2人が亡くなった後には批評性を持ち、時代を代表する俳人はいなくなった」と指摘する。

 こうした厳しい批判の言葉は、自身にも返ってくるのでは。そう問うと、「言葉と俳句の歴史を踏まえ、単なる好みでない選句ができ、きちんとした評論を書く。それが批評性を持った俳人。自分はそうなりたいと思っている」と話した。

 同書は、サントリー学芸賞を受けた『俳句の宇宙』に始まる批評3部作の3作目でもある。「俳句の批評とはどうあるべきかという問いに対する現時点での答え。それがこの本です」(赤田康和)=朝日新聞2018年6月27日掲載


https://note.com/novalisnova/n/n802529180e8e 【長谷川櫂『俳句の誕生』】より

正岡子規が唱えた俳句の方法としての「写生」は「対象への凝視、精神の集中を要求する」ものだが著者の長谷川櫂によれば「集中ではなく」「心を遊ばせること、いわば遊心こそが重大」だという「人間の心は遊んでいるとき、自分を離れ」「はるか昔に失われた言葉以前の永遠の世界に遊んでいる」からだ

矛盾する表現になってしまうが写生は「言葉によって失われた永遠の世界を言葉で探ること」だというのだ

さて子規の後継者を名乗った高浜虚子は写生をさらに進めて「客観写生」を唱えたが

そのことで「目の前にあるものを言葉で写せば誰でも俳句ができる」という写生が孕んでいた「想像力の働きを無視する」という欠陥がむしろ際立ってしまうことになり「対象の形態だけを写したガラクタのような俳句」が量産されることになってしまったようだその「客観」ということへの誤解から虚子は今度は「客観写生と根本的に対立する」「花鳥諷詠」を唱えたが今度は「俳句の対象が花鳥の象徴する趣味的な四季の風物だけに限定され」してまうことになったそのほかにも虚子は「漢字四文字の熟語を次々に作りだした」がなぜそういうことになったかというとそれらは「膨張しつづける俳句大衆を束ねる近代特有の標語」として作られていったようだ

この「標語」による啓蒙・指導は俳句の問題だけではなくとくに高度経済成長の時代以降の「大衆化」の問題と深く関わっているこの問題を端的にいえば理解・認識・体得することの難しいことはごく少数の人にしか可能ではなくそれを「大衆化」しようとするときには「標語」のような表現で啓蒙・指導するしか方法がないことである

「大衆を束ね、動かすため」にはそうした「標語」が必要であり「近代とともに誕生した新聞、のちにはラジオ、テレビ、インターネット」はそのための強力な「マス」のメディアとなってきた政治権力もそれに対するアンチ・権力もまた民主主義という陥穽にもなりがちな主義も「標語」による印象操作で「大衆」を動員する

「大衆」はカンタンなことばでカンタンに理解できて快く感じられる情動的な言葉でなければ動かない

しかも現代ではだれもが「一家言」を持った「批評家」のようにふるまって恥じなくなり

「承認欲求」によって自我を肥大させてゆく俳句において虚子の死以降「信頼できる批評と選句」が失われ「俳句大衆は誰の批評を信じ、誰の選句を信じていいかわからな」くなったように「極端な大衆化」のもとで依拠できるのは「人気」「本の売れ行き」「マスコミへの露出度」「アンケート調査」のようなものでしかなくなってしまう

ほんらいの権威がある場合は人はそれに従うことで道を歩むことができるが「極端な大衆化」というのはそうした権威が失われそれぞれがみずからの道をつくりながら歩む以外になくなってしまっているということであるつまり「大衆」の一人ひとりがじぶんの権威になる以外にないにもかかわらず「大衆」は「標語」で動く現代においてはかつて秘教であった神秘学が隠されたものではなく開示される必要があったのもだれもが自己教育によって学べる環境が必要とされたからだろうがそこにも俳句の大衆化と同じ問題が起こりがちなのはいうまでもない「標語」のような神秘学ほど度しがたいものはない