花びらや今はしづかにものの上
https://koutenn.blogspot.com/2019/01/ 【牡丹も我も最後は一火炎 長谷川 櫂】より
牡丹も我も最後は一火炎 長谷川 櫂
「俳句」二月号。「死の種子」と題された50句から、長谷川さんが自らの死と向き合われていると感じました。「PET検査」という前書きの句もありますから、がん細胞の位置を特定する必要があったのでしょう。検査結果に基づき、医師から余命を宣告されたのかも知れません。ドイツの哲学者ハイデガーは、人間は死という有限性に気づいたときはじめて、時間というものに自覚的になり、人生がかけがえのないものとして迫ってくると、「根源的時間」という考えを示しました。50句を貫いているのは、「根源的時間」に他なりません。枯れてからからになった牡丹も、この私も、最後は一本の火炎として終わるという、この静謐な眼差しに、命の終わりを自覚し、だからこそこの一日を生き切ろうとする意志を感じます。今後作者が生み出す一句一句を注視したいと、切に思います。
https://kazahanamirai.com/aharehanabiranagare.html 【あはれ花びらながれ をみなごに花びらながれ……三好達治「甃のうへ」より】より
「あはれ花びらながれ をみなごに花びらながれ」で始る「甃のうへ」は、三好達治の代表作であると同時に、日本近代詩が生んだ名作の一つであります。
「甃のうへ」の「甃」は「いし」と読み、石畳、敷き瓦(石畳のように敷き並べた平たい瓦)のこと。
パソコンで「いし」と入力しても「甃」とは変換できませんし、現代人の生活とはかけ離れた言葉とも言えそうです。
しかし、「甃」は「秋」と「瓦」を組み合わせた、抒情豊かな漢字なので、三好達治はこの言葉を使ったのでしょう。日本人として、こうした「風情」や「もののあはれ」を解する感性を失いたくないものです。
ところで、この詩が人口に膾炙している(広く知られている)理由は、教科書に載っていたことと、何といってもその覚えやすさでありましょう。
音調も優雅で、しっとりとした情緒に浸ることができます。
さっそく、その「甃のうへ」を引用してみましょう。
甃のうへ
あはれ花びらながれ をみなごに花びらながれ をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかの跫音〔あしおと〕空にながれ をりふしに瞳をあげて
翳〔かげ〕りなきみ寺の春をすぎゆくなり み寺の甍〔いらか〕みどりにうるほひ
廂〔ひさし〕々に 風鐸〔ふうたく〕のすがたしづかなれば ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃〔いし〕のうへ
ところどころに意味がとりにくい言葉がありますので、少しく注釈を入れてみます。
●「甃」は「いし」と、「甍」は「いらか」と読みます。紛らわしいですよね。読者の方からご指摘を受けましたので、以下、訂正してお詫びいたします。
三好達治が歩いているのが石畳である「甃(いし)」の上で、三好達治が見ているのが寺の瓦屋根である「甍(いらか)」です。
ともに「瓦」という字が組み込まれいることに注目してください。「甍」は屋根瓦。また、瓦葺きの屋根を意味します。「甃」は石畳のことで、敷き瓦とも言うのです。
最初にも少し触れましたが、この詩のタイトルが「石畳」だとしたら、三好達治ならではのデリケートな情緒は台無しになってしまうでしょう。
●「風鐸(ふうたく)」は「仏堂や仏塔の軒の四隅などにつるす青銅製の鐘形の鈴」のこと。
●「寺」は、三好達治によれば、東京音羽の護国寺だとのこと。しかし、詩にする時に浮かんだイメージは、京都の寺々であったと語っているとか。吉田精一「日本近代史鑑賞」で、このことを知りました。
■「あはれ花びらながれ をみなごに花びらながれ をみなごしめやかに語らひあゆみ うららかの跫音(あしおと)空にながれ」と連用形を続けていることで、映像の流れが感じれるとともに、心地よい音調にうっとりと酔えます。
連用形の多様は、三好達治が敬愛した萩原朔太郎の影響であることは間違いありません。
萩原朔太郎はその名作「竹」などに見られるとおり、連用形を多用することで、情念を畳みかけることに成功しています。
以下で、萩原朔太郎の「竹」を引用しておきましょう。
竹
光る地面に竹が生え、青竹が生え、地下には竹の根が生え、根がしだいにほそらみ、
根の先より繊毛が生え、かすかにけぶる繊毛が生え、かすかにふるえ。
かたき地面に竹が生え、地上にするどく竹が生え、まつしぐらに竹が生え、凍れる節節りんりんと、青空のもとに竹が生え、竹、竹、竹が生え。
しかし、形式上の類似はあっても、詩作品に表出された内容は、三好達治と萩原朔太郎では、まるで違うことは言うまでもありません。
■三好達治が影響を受けた詩人に、室生犀星がいます。室生犀星の「春の寺」に似ていることは確かです。
以下で、室生犀星の「春の寺」を引用しておきます。
春の寺
うつくしきみ寺なり み寺にさくられうらんたれば うぐひすしたたり さくら樹に
すゞめら交り かんかんと鐘鳴りて すずろなり。 かんかんと鐘鳴りて さかんなれば
をとめらひそやかに ちちははのなすことをして 遊ぶなり。 門もくれなゐ炎炎と
うつくしき春のみ寺なり。
■一つひとつの言葉の美しさも、特筆に値します。
「あはれ」「をみなご」「しめやかに」「語らひ」「うららの」「をりふしに」「瞳をあげて」「翳りなき」「すぎゆくなり」「みどりにうるほい」「すがたしづかなれば」「影をあゆまする」
流れが良いので、さっと読んでしまいがちですが、吟味しますと、一つひとつの言葉は厳選され、限界まで寝られていることに気づきます。
決して情緒のおもむくままに歌われた詩ではなく、理知によって統制された作品です。
■最後の2行「ひとりなる わが身の影をあゆまする甃(いし)のうえ」が実に効いています。
この孤独の哀愁により、この詩の抒情はさらに純化され、読者の胸に深く染み入るのです。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1393707753?__ysp=6Iqx44Gz44KJ44KE5LuK44Gv44GX44Gl44GL44Gr44KC44Gu44Gu5LiK 【三好達治さんの『甃のうへ』 詩の終盤に わが身の影をあゆまする甃のうへとありますがこの部分に表された心情というのはどういうものなのでしょうか??回答よろしくお願いします】より
「動く世界」というものと、「動かぬ我」というものとの対比で描いた詩なんですね。
詩人は佇んで動くものを見詰め、その動くものが他のものと連関していることに気付いている。
花びらが流れていく。つまり、木の枝から離れて風に流れる。その流れた花びらが、今度は子供たちに降り注いで行く。その子供達の静かな語らいと足音が空に響いていく。
そういう次々に動くものたちが連関し、互いに響き合うことを示してくわけ。
世界というものは、変転流転しているんです。その「変転流転」というものが、この世界の実相であり、また美しさなんですよ。
この詩の最初に「あはれ」と謳い出す。「あはれ」とは「もののあはれ」のことであり、日本の美の真髄を示す言葉ですね。仏教の無常観から出た、全ての形あるものが滅び去る、という悲しみ、喪失の美学のことなんです。
花びらは美しく咲くが、やがて必ず散っていく運命にある。だからこそ美しいと感ずるんです。世界の変転流転に美しさがある、というのはそういうことなんですよ。いつか変化し、滅び去ることの悲しみが美を感ずる根源であり、それが詩の最初に宣言されているんですね。
花びらとしたのは、その滅びの美学の代表だからなんです。日本の華道というものは、花が萎れ、枯れてしまうものだからこそ、今の美があることを示す芸術なんですね。
花びらの後、次々と美しい光景が詩人の感性によって語られていくけど、それらの美しさの底には、「喪失する」という美学の根源がまた流れているんですね。今詩人が見ているものは全て喪われるものなんです。それは世界が常に変転流転しているからなんですよ。
詩は寺院のことを最後に語るけど、人為は仏教の無常観の象徴ですから。そこの廂に提がる風鐸によって、変転流転の世界の描写が終わる。
その風鐸は動かないんですね。風の力で揺れて涼しげな音色を奏でるはずの風鐸が、詩の最後に於いて動かない。
これは即ち、今佇んでいる詩人、また人間存在というものを示しているわけ。無常観を知る人間のことなんです。ただ世界の規律である変転流転に流されるだけではない者。佇んで、動くものを見詰める者。
しかし、その動かない詩人も、自分の伸びる影は動いていた。寺院の中にある敷石に、影は次々と移動していたんですね。
自分が動かないつもりでいても、我々は常に変転流転する世界によって規程されている、ということ。美を感じながら、同時に我々もまた「美しい」存在なのだ、と言っているんです。
「石」という悠久の年月を経て残るものの上を、影という儚く、容易く姿を変えるものが通り過ぎる。その余りにもかけ離れた時間軸の差は、我々の命の儚さを、またそれ故に我々が激しく躍動する美を宿していることを示しているんですね。