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個人の記憶というもの

2018.09.14 10:22

http://bibou726-49.jugem.jp/?eid=310 【個人の記憶というものー閻連科のメッセージから】より

 昨年の今日(5/13)は、東京へ出かけた日です。70歳を機に集まろうという東京の友人二人からの誘いに、喜んで出かけました(2019.6.14、29「坂と丘と谷の街ー東京への小さな旅ー」(1)、(2・完))。

 東京から帰途につく日(5/15)、学生時代の友人と旧交をあたためる家人と別れて、上野の丘を独り歩きしたとき、鉄筋コンクリート造のホテル旅館の中庭に森鴎外の「旧居邸」が残っていることを知りました。そして、ホテルの方にことわって、ホテルの内部からですが、その鴎外荘を見学したのです。

 友人たちと、70歳という年齢をなかなか自覚できない私たちということもあったのでしょうか、漱石が亡くなったのは49歳のことであり、もっと長生きしていたはずの鴎外でも60歳であったと話していたのです。ですから、坂の途中にある電柱に、偶然、鴎外旧邸の案内板をみつけて本当にびっくりしました。

 先日、その「水月ホテル鴎外荘」が、本年5月末をもって閉じられるとの記事を読みました。新型コロナウイルスで売り上げが前年の約1割になり、このまま長引いて倒産してしまうと旧邸の維持費も捻出できなくなる、旅館の経営より旧邸を守ることが私たちの使命と考えるからだとありました。

 同ホテルHPの「閉館のお知らせ」には、鴎外がこの旧邸で処女作の『舞姫』を発表し、ここから無縁坂を登り、不忍池を回り帰ってきたことが後の『雁』の舞台になったとあり、「その鴎外荘を残していく為に五月末で閉館することを決断いたしました」と記されています。

  「森鴎外旧居邸↑」の案内板(上野池之端) [2019.5.15撮影、次も同じ]

  森鴎外旧居邸(水月ホテル鴎外荘の中庭)  

◈間の文化からー長谷川櫂の連載「隣は何をする人ぞ」ー

 これはもとより予言でもなんでもなかったのですが、当ブログの「新年の挨拶 2020」で、「信仰がある」とはいえない私が当たり前のように正月に神社を参拝した事実に続けて、長谷川櫂がこの国のもっとも基本的な掟だという「間の文化」のことに言及しました。つまり、ものともの、人と人との間隔である「間」というものが「さまざまな神仏の共存する土台になっている」のだと、長谷川は理解しているわけです。

 そして、「間の文化」は<夏をむねとすべし>で貫かれており、それは「挨拶の仕方」にもあらわれているというのです。つまり外国人は「互いに抱き合ったり、手を握りあったり、キスをしたりする」のに対し、日本人は「遠くから、あるいは少し離れてお辞儀するだけ」だと述べ、その理由を次のとおり説明しているのです。

 「 なぜなら、この高温多湿の国では体を触れ合うこと自体が暑苦しいから

  である。とくに夏には肌がべたべたしているので、そんな人同士が挨拶の

  たびに体を触れあっていたのでは皮膚病や伝染病を感染しやすい。それを

  防ぐためにも互いに体は触れあわず、離れたままでお辞儀することになっ

  たにちがいない。」

 以上、断片的ですが、お気づきではありませんか。そうです、新型コロナウイルス感染症との関連です。感染の拡大において、国や地域ごとの「生活習慣」の違いが何がしか反映しているのではないかと指摘されることがありますが、「間の文化」には、こうした習慣をもつ日本人には、感染症対策に資する生活習慣が初めから備わっているのではないかということです。

 もちろん、これでは不十分だとなりますから、政府のように「新しい生活様式」を呼びかけることになるのでしょうが、こうした「間の文化」をもたない生活習慣の国や地域の人びとは日本人以上に大変だということになります。

 さて、長谷川櫂は、岩波の月刊PR誌『図書』で、昨年10月号から「隣は何をする人ぞ」という連載を開始し、直近の5月号で第8回となります。

 その前年の2018年に皮膚癌が発見され、3度の切除手術を行ったという長谷川は、「癌を宣告されたことは死そして生について、あらためて考える絶好の時間を私にもたらした」とし、今回の連載はそのアウトプットだということになります。前月の4月号、連載第7回「誰も自分の死を知らない」において、次のように述べています。

 「 この連載はここまで正岡子規、夏目漱石の生と死を通して明治、大正の

  時代の空気について書いてきた。このまま谷崎潤一郎、太宰治、三島由紀

  夫とたどりながら戦前から戦後へつづく昭和の空気について書くつもり

  だったが、それではあまりに重苦しい。そこで今回から少し見方を変えて

  死の思索をつづけたい。」

 そして、今私たちの使っている日本語のルーツが、大和言葉か中国語かで、すなわち漢字が訓読みか音読みかでいろんなことがわかる、「死もその一つである」とします。

 例示として、訓である「恋」と音である「愛」の関係や、植物では日本列島に自生していた「桜」や「松」と渡来植物である「梅」の関係をあげています。本論から外れますが、前者の「恋」と「愛」について、「日本には愛が存在しなかった」という刺激的な文章を綴っていますので、メモを残します。

 「 男も女もあれほど恋の達人であり猛者であったのに、一方、愛となると

  日本人ほど疎い人びとも少ない。友愛、博愛、愛国、愛社、人類愛、家族

  愛、夫婦愛でさえどこかかしこまって、やけによそよそしい。何やら人に

  押し付けられている感じがする。その理由はこの国にはもともと愛などな

  かったからである。」

 さらにダメ押しするような文章を続けています。

 「 愛という言葉がなかったということは愛という言葉で表わす実体もまた

  なかったということである。王朝中世の歌人たちがあれほど恋に執したの

  に、愛が一度も歌に詠まれなかったのはその一例にすぎない。古代のこの

  欠落が長く尾を引いて日本人はいまだに愛の意味がよくわからないのでは

  ないか。」

 

 では、本論である「死」のことです。梅と同じく大和言葉のような顔をしているが、「死」は漢字の音であり、「死」も「死ぬ」も大和言葉にはない、「まず死という漢字が中国から伝わり、そこから死ぬという動詞が生まれた」のだとし、次のように想像をとばしています。

 「 ここから想像すれば、死という漢字が伝わる以前の日本人は死を知らな

  かったことになる。もちろん日本人も死ぬ。しかし死という現象を漢字の

  死が表わしているようなものとしては理解していなかったのではない

  か。」

 だから、「漢字の死に相当する大和言葉には「なくなる」「ゆく」「みまかる」」という言葉があるけれど、これらには「漢字の死にあたる厳粛な断絶の響きがない」のであり、「あくまである場所から別の場所へのゆるやかな移動」なのだと断じています。そして、最後に、次号に向け、こんな問いを導いています。

 「 つまり古代の日本人は漢字の死のようには死ななかった。では古代の死

  はどのようなものだったのか。」

 こうした問いをうけた今月号、5月号連載第8回では「『おくのほそ道』の宗教地図」のタイトルで、古代の、仏教以前の日本人の死生観に迫っています。「おくの細道」の全行程150日、2400㎞の途中に立ち寄ったお寺を拾っていくと、鎌倉仏教と平安仏教という二つの宗教圏が「同心円状に広がっている」ことがわかり、そのさらにその外側には仏教伝来以前の宗教圏の名残りがみられるとし、次のとおり説明を加えています。

 「 近くの里の人がなくなると、亡骸を岩の窪みに納めて波や風が清めるのに任せた。
  のちに仏教が広まると、この風葬の跡が仏道の修行場となった。」

 だから芭蕉の尋ねた松島や立石寺には、それぞれ海辺と山の岩場に、古代の風葬、のちに修行場の痕跡が残されていることを指摘しています。そして、古代において風葬された人の魂は、仏教でいう「西方の極楽や地下の地獄にはゆかない」で、「そこにとどまって懐かしい子孫や里人の暮らしを見守りつづける」とし、次のとおり古代人の死生観を綴っています。

 「 人は命を失うと、魂はすみやかに里から渚や山へ移行する。そうした死

  生観がかつて日本の島々にはあった。」

 こうした論考を通して、以下のような抽象性の高いテーゼを、長谷川は2011年の東日本大震災直後に起きた東電福島第一原子力発電所の事故と関係づけて、冒頭で言葉にしています。

 「 新しい言葉の誕生によって世界が変わる。いいかえれば、世界は言葉で

  できている。」

 ですから、前月号と今月号で展開された「四世紀あるいはそれより前、文字のなかった倭の国に中国から漢字がもたらされたとき」、「世界の組み換えが次々と起こったはず」であり、「その一つに死があった」というわけです。そして、当時の倭人たちが「なくなる」「ゆく」「みまかる」という言葉で表わしていた人の最期と、「死という漢字の意味する命の断絶」とは明らかに異質であったとしています。

 こうして中国から渡来した死という漢字が、それまでの人の最期について「連続」から「断絶」へと変わったとき、世界が変わったということを、長谷川は自らの癌体験を根っ子において論じたのであろうということができます。

 ここでは、長谷川の論旨をノートすることだけでとどめておくことにします。というより、それはそういうことなのであろうという以上に、長谷川の論考を批評する言葉を私がもたないためではありますが、それでも、ここであえてノートしておこうとしたのは、それだけインパクトをうけたということにほかなりません。

 この連載「隣は何をする人ぞ」が、どこへ向かうのか、楽しみです。

◈「一つの旅の終わりに」ー阿部昭『単純な生活』の終着からー

 直近のブログで途中下車して紹介したりした阿部昭の『単純な生活』に再乗車していましたが、やっと終点に着きました。

 むかしならといって笑われそうですが、2日ほどあれば読み通していたであろう小説を、コロナ情報に右往左往しながら少しずつ読んできました。昨日読んだことをすぐに忘れてしまう今の私には、こんなストーリー性のない小説の方がふさわしいのかもしれません。

 今からふりかえると、早すぎた晩年ともいえる、50歳を前にした阿部昭の連載長編小説は、凝縮した言葉で構築した短編小説を中核においてきた阿部にとって冒険でもあったといえます。この機会に、阿部の後期の作品を読みかえしていきたいと思っています、ぼちぼちと、忘れる前に。

 ラストからふたつの目の項、「百二」で、阿部は、この連載の二年半をふりかえり総括しています。そして、この期間を何によって生きたかといえば、「おそらく当人以外には取るにも足りない些細な事柄、笑止なくらいこまごましい、もろもろの事物の力によって生きた」のであると綴っています。そして、その事物、つまり小説のコンテンツを列記していますので、長々しくなりますが引用しておきます。

 「 ーーかれのみすぼらしい猫どもや引地川べりの家鴨たちの行状、岡崎の

  八丁味噌や水団の味、鎌倉行のバスの窓から見る海やフランスの田園風

  景、西日をよける葭簀や食べ過ぎる枝豆、「かわいそうなぞう」の話や

  『にんじん』の挿絵、それからまた、新婚時代の日光の思い出、Y君二世

  の誕生、LG君のパリからの手紙、小さな雑貨屋さんの小母さん、Mが

  拾ってくれたバルト海の小石、昔の中学の先生の水彩画、妻の癌ノイロー

  ゼ、等々。」

 かくして、「まことに、事物の助けなくしては、われわれは一日として生きられず、一行とて書くことができない」、こんな感慨を吐露して締めくくっています。

 前稿(「雲間に密やかな光をさがしてー阿部昭『単純な生活』からの途中下車ー」)には、前記の太字で示したエピソードを紹介しました。

 そして、「贅沢な自粛」を自認し、この変化の少ない暮らしを「単純な生活」とは呼べまいかと思ったりする私としては、阿部の言葉に共感するところが大きいのです。

 屋上屋になりますが、そのあたりのことをもう少し書かせてください。

 連載の2年半を終えるにあたって、狭い行動半径で身辺の記録のみが多かったけれど、人生を旅する者として「紙の上のそれであれ、一つの旅の終わりに」あるような心境でいる、と阿部は述べています。そして、「では、単純な生活とはなにか、何であったというのか」という、もう一度、書き始めたときの自問に戻っています。

 こんな生活であっても、本当のところは「単純のようであっても単純なものではなかった」、「むしろ世間並みに複雑怪奇と呼ぶほうがふさわしいものかもしれない」と感じている阿部は、「しかし、それでも」と、次の文章を書きつけています。

 「 しかし、それでも単純な生活というものはあるにちがいない。そういう

  言葉がある以上は、それをこの目で見たいという願う気持ちがあって不思

  議はない。そこで私は苦しまぎれに、はなはだ横着にして陳腐な言い草な

  がら、「どこを探すまでもない、それはわれわれの心の中にあるのだ」と

  答えて退散したいと考えている。」

 阿部の言いたいことは何か、「細部にこそ真実は宿る」ということか、やはり阿部にとってこの2年半においても「到底数え切れぬそれらのデテールの一切が、作者の生活には必要であった」と述懐しているのです。この鑑賞の対象ではない人生を生きるということは、それぞれの人生を旅することであり、そこに文学の源泉があるし、書くことの不思議もあるのではないかと、阿部は言いたいのでしょうか。

 ここで私が言葉にしておくとすれば、実生活という複雑怪奇な現実との乖離はいつも存在するけれども、心のありようとして、いうなれば心に大切なことを見失わないという芯をもって、「単純な生活」を希求することが、阿部の「心の中にあるのだ」とする「単純な生活」ということではないのかと思ったりしているのです。今は、阿部の『単純な生活』を読んで、「単純な生活」とはそのようなことではないかと感じています。 

 また後戻りするようですが、「六十六」の冒頭に、「心臓の故障という思わぬ事故で、この二た月、読者の皆さんにご無沙汰してしまいました」とありました。短期の入院生活もあり、ここで一息ついて、作家暮らしを離れて、連載を休載したのでしょう。

 病院のベッドの上で、阿部は、「つくづく考えた」とあります。「筆一本の暮らしになって今年でちょうど十年」、寡作、非流行の作家でも「なにやかや必要に迫られて書いているうちには心臓がおかしくなるのか……そもそも言葉というものが、心臓に、悪いのか」と自問します。そして、「作家生活」という四字を反芻しながら、「心臓の問題ではなく、心の問題」ではなかったかと気づいたことを記しています。 

 鵠沼に一軒しかない古本屋で中桐雅夫の『会社の人事』という詩集を買い求めたのだそうです。そして冒頭の「やせた心」という詩を「正しく自分の事として」読んで、次のように思ったのです。

 「 お医者さんも私に上手には説明できなかった私の病気について、この詩

  はかくも言葉少なに、しかも余すところなく答えてくれている!「やせた

  心」というのこそ、現在の私の本当の病名にちがいないと、そう思ったの

  です!」

 めずらしく阿部は「!」を二回使っていますが、次の文章を続けています。

 「 私はこの詩人よりはずっと年下である。老い先もまだそれほど短いとは

  言えない。しかし、だから、私の心が彼の心よりやせていないという保証

  はない。その反対でしょう。人類はだんだん年をとっていくのだから、誰

  の心も、いよいよますます、痩せ細って行っても不思議はないのではない

  でしょうか。少なくとも、いまはそう思いたくなる時代ではありません

  か。」

 病気と縁遠かったという阿部が、病気の診断をうけて、こんなふうにも思ったのだなと、私は申し上げるしかありませんが、阿部があと8年ほどしか生かされていなかったという事実を知っている今となっては、まことに残念だなという気持ちをかみしめるだけです。

 仕事から完全に離れてすぐに、私は、当ブログに「«仕事をする人»をみるとー旅の写真<仕事>編ー」を書いていますが、その中で阿部と同じく中桐雅夫の「やせた心」を引用して、この詩と「当時も今も」共振していることを告白しています。

 ご大層というしかありませんが、仕事は「自分の生きる証としての<信仰>のようなものだったかもしれない」、そういう自分に呆れ、否定さえしている自分を自覚しながらも「働いている、仕事しているという動詞の価値への信頼を失うことができなかった」とも記しています。

 自己美化というほかありませんが、今となっては膨大に費やされた自分の時間(「自分の時間」とは何でしょう)を全否定することがおそろしかったともいえるのかなと思っています。

 それから4年をへた現在、阿部の印象的なフレーズ「一切が歳月という慈悲に和らげられて、古ぼけた写真のように、淡々しく、なつかしく思えるだけですが」に近いような心境になってきたみたいなのですが。

 ここで阿部の『単純な生活』とお別れし、追記しておくことにします。

 『毎日新聞』5月8日付夕刊に、作家の山崎ナオコーラを取材した藤原章生記者の署名入り記事「「無理に働かない」広まる予感」が掲載されていました。その記事に、私が名前しか知らなかった山崎ナオコーラの発言として書かれたものを、長文ですが、引用しておきます。

 「 家にいても仕事ができるし、会議もオンラインで十分。ハンコ押す意味

  って何?とか、必要のない飲み会ばかりだったねとか、わかってきました

  よね。小さな世界にいても遠くにつながると実感したから、外へ外へでは

  なく、内へ内へと頑張る人が増える気がします。」

 「 コロナの影響で働かなくても堂々としていればいいという考えが広まる

  と思う。『稼がないと』『同僚に迷惑がかかる』と思って休めなかった人

  も、根っこには『働かないと社会人じゃない』という思い込みがあると思

  う。お金を稼ぐのが人間だという考えです。でも、コロナで価値観が変わ

  り、前より休みやすい社会になると思うし、働く働かないで線引きする考

  えも薄まるのではないでしょうか。」

 きっと私の心の奥底には「働いているのが人間だ」という意識が刷り込まれていたし、なおそこから自由になっていませんが、コロナはそうした既成概念をゆさぶることになるのかを注視しておこうと思います。それが人間の自由とか多様性を広げる方向であれば、なおのことすばらしいのですが。

◈個人としての記憶をもつことー閻連科のメッセージからー

 昨日(5/14)、全都道府県に対して発出されていた緊急事態宣言が、39県で解除されました。まだ関係文書を読んでいないので不明な点が多くありますが、ほんの1週間前の宣言の延長にあわせて「出口戦略」という言葉が先行して独り歩きし、政府を早期解除へ追い込んだ(「追い込んでもらった」という意識かもしれません)という図式ととらえています。ですから、専門家というより、政治側に重心の傾いた判断であるように受けとめています。

 万事に対策の遅れが指摘されてきましたが、今回の解除だけは性急な印象があります(当ブログでも紹介した宮沢孝幸京大准教授に触発され、私自身は自粛推進派ではありませんが)。ここで書く必要はありませんが、心もたないことを思い知った医療体制の再構築をはじめ、前途が多難であることは申し上げるまでもありません。

 中国の武漢は1月23日から4月8日までの76日間も封鎖されていましたが、NHKBS1で『封鎖都市・武漢 76日間 市民の記録』が放送されました。封鎖期間中に、武漢在住でインターネットで日記を公開して反響を呼んだ郭晶という29歳の女性と、武漢の市民の声を伝えつづけた北京のネットラジオ『故事FM』が主に登場していますが、昨年末の12月30日にいち早くコロナウイルス(タイプは調査中)による肺炎の発症について警鐘をならした眼科医である李文亮(1986-2020)についてもふれていました。

 この情報のネットでの掲載行為を「インターネット上で虚偽の内容を掲載した」として、1月3日に公安当局から訓戒処分を受け、その後も武漢中心病院でコロナ対応に当たっていたのですが、自身も感染し、ついに2月6日に亡くなりました。そして、3月5日、中国政府から烈士として表彰されたという方です。

 この「李文亮」の名前も登場する文書に、といってもオンライン講義の原稿だそうですが、心を揺さぶられました。北京在住の作家である閻連科(1958-)は、2月下旬(原稿は2月20日付)に教鞭をとる香港科技大学の大学院生らに北京から最初のオンライン講義をしたのですが、中国では転載と削除が繰り返されたと報告されている「論争的文書」だそうです。

 日本語翻訳文は、『ニューズウィーク』3月10日号に掲載されたものをネットで読むことができました(2020.4.3「ニューズウィーク日本版オフィシャルサイト【特別寄稿】」)。閻連科による別の文書や方方の武漢日記を含め、別途の機会に設けて紹介することとし、今回は原稿の最後の方の部分だけをメモするにとどめます。

 この「この厄災の経験を「記憶する人」であれ」とタイトルされた文書において、閻連科は、自らと同じく文系で「生涯にわたって言葉を頼りに、現実と、記憶と付き合っていく」であろう学生たちに対し、新型肺炎をいかに記憶していくのか、個人の記憶力を鍛えよ、そしてその記憶力によって生み出した個人の記憶を大切にせよ、と強く呼びかけています。

 最終項「警笛を聞き取れる人に」から引用します。最初は、個人の記憶が集団である国家や民族の記憶に包摂されてしまう、変えられてしまう危険性を指摘しているところです。

 「 言葉を記憶することにおいて、幾千万人もの個人の記憶はさておき、集

  団の記憶、国家の記憶および民族の記憶は、歴史の上ではいつも、我々個

  人の記憶力と記憶を覆い隠し、変えてしまうものです。今日において、

  今、新型肺炎がまだまだ記憶として固まっていないこのとき、われわれの

  周囲では、既に高らかにたたえ、躍起になって祝う銅鑼と太鼓が鳴り響い

  ています。まさにこの点において、諸君に、新型肺炎という災禍を経験し

  た諸君に、記憶力に優れた人になってほしいのです。記憶力で記憶を生み

  出せる人に。」

 この文書の日付である2月20日は武漢が封鎖されてから1ヵ月足らずの時期であったということを確認しておきましょう。そして、近い将来の国家宣伝を予測しつつ、次の文章を続けています。

 「 予測可能な近い将来、銅鑼や太鼓の音を鳴り響かせ、詩文が飛び交い、

  「新型コロナウイルスという国家の戦争」に勝利したと大騒ぎして高らか

  にたたえる声が上がるとき、諸君にはそんな空疎な歌を高らかに歌う物書

  きではなく、ただ個人としての記憶を持つ嘘偽りのない人間でいてほし

  い。

   至る所で盛大な演出が繰り広げられるとき、舞台の上の役者でも朗読者

  でもなく、その舞台に拍手する人でもなく、舞台から最も遠いところに

  立って、黙ってそのパフォーマンスを見つめながら熱い涙に目を潤ませ

  る、やりきれない思いを抱く人でいてほしい。」

 最後に「李文亮」にも登場してもらって、ライティングを学ぶ学生に向け、次のメッセージを発しています。

 「 李文亮のような「警笛を吹く人(警鐘を鳴らす人、告発者)」になれない

  のなら、われわれは笛の音を聞き取れる人になろう。

   大声で話せないのなら、耳元でささやく人になろう。ささやく人になれ

  ないのなら、記憶力のある、記憶のある沈黙者になろう。われわれはこの

  新型肺炎の事の起こり、ほしいままの略奪と蔓延、近くもたらされるであ

  ろう「戦争の勝利」と称される万人の合唱の中で、少し離れたところに

  黙って立ち、心の中に墓標を持つ人になろう。消し難い烙印を覚えている

  人になろう。いつかこの記憶を、個人の記憶として後世の人々に伝えられ

  る人になろう。」

 断片的な引用は危険ですが、こんな閻連科のメッセージをどのように読まれますか、あああの情報統制の中国のことだからという感想でしょうか、それとも私たちにも通ずる普遍的な警鐘として感じられましたでしょうか。私は、両方の気持ちで読んだのです。そして、胸に迫ったということです。

 藤原辰史の「パンデミックを生きる指針」を読んで以来の「文の力」を感じました。

 最後に、その藤原辰史の文書を中心据えた当ブログ(2020.4.24「同じ時間を生きている私たち、そして人類ー藤原辰史「パンデミックを生きる指針」などを通して拾遺できた言葉から―(2・完)」)の冒頭に引用したパオロ・ジョルダーノの文章をそのまま再引用したいのです。「新しいステージ」という合唱が始まっている今、もとより自分に向けてではありますが、本稿を読んでいただいた方にも、もう一度届けておきたいからです。

 「 すべてが終わった時、本当に僕たちは以前とまったく同じ世界を再現し

  たいのだろうか。」

 「 コロナウイルスの「過ぎたあと」、そのうちに復興が始まるだろう。だ

  から僕らは、今からもう、よく考えておくべきだ。いったい何に元どおり

  になってほしくないのかを。」