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月光のソナタ。

2021.09.15 05:08

昨晩、ベートーベンの月光を聴いた。

有名な第1楽章は何度も耳にしたことがあったが、最後まで聴いたのは初めてであった。

ベッドに横になり、常夜灯を眺めながら、イヤホンから流れてくる音に愕然とした。

なんだこれは。

とんでもないじゃないか。

冒頭の悲哀と打って変わって朗らかな第2楽章、その後捲し立てるように迫り来る第3楽章。

特に、このラストへ向かって畳み掛けるような第3楽章が、ものすごい。

第2章の頭を聴いては第1章に巻き戻していたが、途中面倒になって聴き流していたら、第3章が流れてきて耳を疑った。

そのあと全編通して聴いて、改めて驚いた。

退屈な予感がしていた第2章が、こんなにも染み込んでくる。

始まりから終わりまでの完成された流れ。

なんなんだ、これは。


こういう鮮烈の覚え方は、初めてかもしれない。

そもそも、クラシックのソナタを通して最後まで聴いたのが初めてだ。

バッハの無伴奏チェロ組曲も冒頭のプレリュード以降は飛ばしてしまうし、それ以外に聴くクラシックといえば、山田かまちの影響で聴いていたカラヤン指揮の音源。

特にわかりやすいカノンを繰り返し聴く程度。

かなり昔にクラシックの公演に行く機会があったが、半分以上が眠気と、同じ体勢で座り続ける辛さとの戦いだった。

クラシック音楽に興味が無いわけではないが、やはり取っ付きづらく、退屈な印象が強い。


月光を聴いて感じたのは、鮮やかで生々しいピアノの音。

いままさに釣り上げて血を抜いて捌いた魚を口にした時の、弾力のある肉のような、鮮度。

生きの良い音がする。

絵画もそうだが、一見色褪せて感じられる古典の作品でも、自分の周波数が少しでも合致すると、運命の糸がピンと強く引かれるように、全てが鮮やかに心の中に蘇る。

時を経て劣化し色褪せた姿に自分の目が惑わされただけであって、作品自体は、いつまでも変わることなく人の心を打つエネルギーを放出し続けている。

それが名作と呼ばれる由縁でもあると思う。

古ぼけさせるのも、殺すのも、そして鮮やかに蘇らせるのも、自分の感性次第。

過敏になっている今だからこそ、心にストレートに響いてきたのかもしれない。

素晴らしい。




芸術は、生きるために必要不可欠だと強く感じた。

人の心を震わせるために、アーティストはつねに感性を奮っているべきだ。

考えることをやめるな。

感じることをやめるな。

どんなに苦しくても、止めてはいけない。

それら全てが作品の純度に直結する。

みっともないことばかりだが、素晴らしい作品に触れた瞬間、すべてを忘れてしまう。

なにをもってしてアーティストであるのか、わからない。

私は自分がアーティストだともミュージシャンだとも思っていないし、だからといってアーティストないしミュージシャンなのかと問われれば、そういうことをしていると応える。

そういう器を、職を目指す人もたくさんいるし、それは悪いことではない。

逆に周りの人々に、目標や志しを、確固たる何かを明確に示せない自分が、申し訳なくなったりもする。

でも、同じ土俵にのぼる必要はない。

私は、画家がしたいわけではないし、シンガーソングライターになりたいわけでもなくて、ただ描きたくて描いて、演りたいから演っている。

理由はそれぞれ違うけれど、逃れることのできない人間がそのスタートラインに立ち、残るは純度を極めるだけなのだと思う。

すべては、心震わせるなにかのために。


敬々さんが青森に帰られる前、

「我々は詩人だから」

と仰っていて、会話の途中の、たったそれだけの言葉が驚くほどすっと入ってきて、感動した。

この方は詩人だ、と本気で感じたし、出逢えたことを光栄に思った。

池田省一さんのライブを拝見した時にも、似たような感覚を覚えた。

うまくは言えないが、私は、活動歴とか代表作がどうとかそんなことはどうでもよくて、ひとり心を耕して耕してきた人の言葉やその他多くの部分に、畏敬の念が止まない。

自分もそうでありたい。



小さな街で、看板娘として生きるのは無理だと思った。

そこでは幸せも喜びも約束されていたし、うまくやれるだけの器量もそれなりにあった。

それでも無理だという確信があった。

だから看板を担いだまま出てきた。

自分で店を開くことは出来ないし、どこかにとどまるのは違うから、看板を背負ったまま歩いてきたし、多分ずっと歩いていく。

正しいかどうか、間違いかどうかは、後の自分が決める。

頭ではわかっていても不安ばかりが胸にあるから、笑える時には笑っていたい。

「あなたは笑顔を浮かべながら障壁を築くところがあるから、無理に笑う必要はないんだよ。」

と改めて言い聞かせる。

その上で、笑える時には笑っていたい。