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Okinawa 沖縄 #2 Day 132 (06/09/21) 旧小禄村 (1) Oroku Hamlet 小禄集落

2021.09.07 14:03

旧小禄村 小禄集落 (おろく、ウルク)

今日から新しい間切を周り始める。琉球王統時代から明治にかけて小禄間切といわれた地域で、現在は那覇市の一部になっている。



小禄間切 旧小禄村

小禄間切は明治の廃藩置県後暫くして小禄村となった。那覇市南西部の半島状の部分にあり、北部には国場川が流れ、在日米軍基地である那覇港湾施設 (那覇軍港) が置かれている。また、陸上自衛隊の那覇駐屯地、航空自衛隊の那覇基地もある。那覇空港があり、沖縄県の空の玄関としての役割を持ち、そこを起点に沖縄都市モノレール線、本島内各会社の路線バス、高速バスが通り、沖縄本島の交通の要所となっている。小禄村の変遷については以下の通り。

那覇市に編入されたが、小禄集落は那覇住民にとっては田舎者として、下に見られていた。今では明治橋ができて、那覇中心部とは近い地域となったが、かつては那覇港、漫湖で那覇からは遮断された地域だった。明治橋が出来た後も、川向こうは那覇であって那覇ではないと揶揄されていた。

小禄地区は、戦後、大嶺、鏡水、赤嶺、金城、安次嶺、当間 が100%軍用地に接収され、高良、宇栄原、田原、小禄も住宅地以外の田畑を接収され、全体としては、総面積の83%の土地が接収された。そのため、大嶺、鏡水、金城、安次嶺、当聞の5つの字は、新しい住宅地を求めて「新部落建設期成会」を結成し、苦労を重ねて、現在の新部落を誕生させ、土地は旧字面積比で割当てられ、単位は門中であった。小禄地区の自治会は、同郷 (旧字) 出身者およびその分家によって構成され、会員が必ずしも同一地域に居住しているとは限らない、いわゆる郷友会の性格をもつ郷友会型自治会になっている。郷友会型自治会への加入は親戚の推薦、郷友会、厳選等によって制限を行っており、自治会への加入率が極めて低い。これは沖縄の各集落にも少なからず共通する。これは郷友会型自治会の様に、出身地や門中中心の組織の意味合いが強く、他地域からの転入者にとっては、あまり快いものではない事も一つの要因だ。もう一つの要因は自治会への参加を強く求めず、自由意志に任せているケースが多いこともある。自治会加入率は本土都府県ではいずれも75 ~ 95%だが、沖縄の自治会加入率は20 ~ 40%と極めて低い。沖縄本土復帰後、軍用地に接収されていた各村が元に戻ったかというとそうではなく、軍用地であったほとんどの土地が、自衛隊、海上保安庁、那覇空港となり、戦前の村の形には戻らなかった。これは今まで巡った集落では無い事だ。他集落では軍用地となっても一部で、返還後は村に戻ってきている。この小禄のケースはその地域の部落民には酷なことだ。ただ、国主導ではなく各字が自治会を結成し、新部落という新しい生活環境を作り上げたことには、たくましさを感じる。それと、この時代、沖縄の社会は、まだまだ、村や門中が社会組織の基盤にあったことが判る。これは本土とは異なる点だ。


旧小禄村 小禄集落 (おろく、ウルク)

小禄集落は琉球王統時代は小禄間切に属し、その中心地として間切番所が置かれていた。小禄集落の村立ての時期は定かでないが、集落には七 (ナナ) ハロージと云って、いつの時代かは定かではないが首里から移ってきたとされる有力七門中 (崎山、内間、思い、殿内、照屋、大里、呑殿内) があり、この門中が村の指導的役割を担っていたとも考えられている。この七 (ナナ) ハロージが移り住む前から集落はあったとされるが、先住者が誰であったかは不明だ。現在では集落内には45もの門中が存在している。古くから小禄に住んでいる人は、ウルクンチュ (小禄の人、小禄人) と呼ばれ、門中意識が強い。特に年配者は、ウルクムニー(小禄喋り) と呼ばれる独特のイントネーションで話すそうだ。先にも述べたが、戦後、小禄村の広い部分が米軍基地として接収されていたが、小禄集落はその対象外となり、今でも昔の村の区画縄張りが残り、多くの拝所が残っている。また、小禄集落住民は伝統文化習慣に対しては関心が高く、文化財の整備保護活動が他の集落に比べて活発である様に感じた。


小禄集落の人口はやはり旧小禄村の中では一番多い。2020年末の人口は18,000と一つの町としてはかなり多い方だ。那覇中心地までも数キロの距離でゆいレールも通り、商業地も多く利便性は高い。最近の人口の増減は小康状態だが世帯数は伸び続けている。沖縄でも人気エリアだ。

民家分布の変遷図を見ると、1919年 (大正8年) には昔からの集落の外側には民家はほとんどない。多分、この状態は戦前まで続いていたと思われる。小禄が発展し始めるのは、米軍が那覇と小禄を橋で結び往来が便利になってから、そして米軍基地関係の仕事を求めて人が集まった事、南部に大規模な集合団地が造られた事も大きな要因だ。1919年 (大正8年) 当時及び戦後の人口が判れば、その発展度合いがもう少しはっきりするだろう。

小禄字誌も発行されているのだが、図書館が休館中で、詳しく調べる事ができず、インターネット上で知り得る範囲で、この集落を巡った。「歴史散歩マップ 小禄まーい」という簡単な文化財パンフレットが見つかり、これを中心に巡った。またその他、文化財を紹介している資料や、街角の案内板も参考にした。(図書館再開後、調べなおし修正追記予定)


小禄集落訪問ログ



小禄自治会館

まずは公民館に向かう。公民館は立派な建物で1983年に建てられたそうだ。この場所に村屋があったのかどうかは分からない。他の資料では南公民館と呼ばれていたので、以前からあったのだろう。小禄は比較的大きな集落なので、北側にも公民館があったようだ。(この後にハワイ会館という施設を見つけたが、そこが、以前の公民館だった) 敷地内の広場もかなり広い。隣には小禄老人福祉センターと小禄児童館もあり、それもかなり立派な建物だ。他の集落に比べて立派過ぎる。公民館の前には胸像が置かれているが、特に気にしていなかったのだが、この後、もう一度出会うことになった。


小禄星空公園

小禄自治会館の隣の丘陵上部に1996年の区画整理の際につくられた公園に寄ってみた。

公園の斜面には多くの門中墓があり、その中でも大きな墓として松下門中 (写真左) と上仲門門中の当世墓 (トゥーシバカ) があった。


真玉嶽 (マダンウタキ、前ヌ御嶽 メーヌウタキ) 

小禄星空公園の一部が御嶽になっている。真玉嶽 (マダンウタキ) と呼ばれている御嶽で、ウマヌファ (午の方、南方) の神を祀っていると伝わっている。古くは前ヌ御嶽 (メーヌウタキ) 又は前ヌマタバと呼ばれ、小禄地区にある小禄の殿と後ヌカニマンと共に、小禄の主要な拝所となっている。いつ頃から存在したのかは明確では無いが、文献では清朝 康熙52年 (尚敬王 1713年) の琉球国由来記に「真玉嶽 神名 (イビナー) トモヨセノ御イベ」と記載されている。トモヨセとは「諸々のものが寄ってくる」という意味で、「ヨセ」というのがついているところは海に面している場所である事が多いので、真玉御嶽も周辺まで入江が深く入り込んでいた海に浮かぶ島であ ったのではないかと考えられている。当時の様子を表す地図などは無当たらなかったが、1700年ごろが分かるものがあった。この後に訪れる予定のガーナ森は島だった。その下側の海岸線がこの近くまで来ている。これを見ると小禄集落は当時は海岸線の集落だった事がわかる。この入江は後に何度も埋め立てられて、今ではそれを想像することもできないぐらいになっている。

真玉御嶽は海の彼方にあるというニライカナイを祀っている。アマミキヨが定住の地としたミントンの神も共同拝所に祀られている。現在の真玉御嶽は1980年 (昭和55年) に完成、1981年 (昭和56年) に拝所を移転している。1999年に更に整備されたのが現在の姿。

入り口階段の下には嶽クサイカー (ウティンダウカー  落平御井泉) がある。ここで身を清めて御願に向かったのだろう。

階段を登った所に火ヌ神があり御三物 (ウミチムン) を祀っている。御三物 (ウミチムン) は

火ヌ神の象徴の竈を形にした三つの石の事だが、この拝所にはこの三つの石は置かれていない。

1982年 (昭和57年) にはこの真玉御嶽へ集落内にあった井泉の神を移設している。移設して祀られている神の井泉は、ターガー、入川蔵のカー、ビンガー、島田ガー、アモーシルガー、浜ガーガー、仲上原の前ヌカー、前内間小カー、ナカシ小カー、クシンカーガー、後原ヒージャー小、その他諸々のカー等。この拝所は1999年に再度整備され、当初の位置から、現在の共同拝所になり、香炉が並んでいる。左から大里アジシー、中ヌ玉御殿 (七世入り込みヌ神)、居神 (崎山ヌ神)、根神 (村井神、嶽井神、崎山/殿内/思いヌ三様神)、威部ヌ神、殿内/与儀/思いヌ神/南山クダイヌ神、才ヌ神、天孫子ヌ神、ミントゥンヌ神アギウファーウンナヌ神の九つの拝所となっている。

共同拝所の奥にはウナジキバと呼ばれる拝所がある。ウナジキバが何を表しているのかは分からずじまい。

公民館の広場に朱色の鳥居があり、そこから上に登ると、1981年 (昭和56年) に建てられた小禄神社がある。第二次世界大戦の犠牲となった小禄出身者770名を祀っている。1999年 (平成11年) に小禄神社を平和記念堂へ名称変更し、後にここにあった770柱の慰霊は平和記念公園に移されている。

この真玉御嶽、星空公園、公民館、老人福祉センターの下には沖縄戦で日本軍が構築した全長約300メートルの壕があったそうだ。入口は3カ所あり、その内1カ所はトーチカだった。調査では壕内は米軍の攻撃で火炎放射で焼かれレンガ色になっていたそうで、黒炭状になった20数体の遺骨や、遺品が見つかっている。


アモールシガー

真玉嶽 (メーヌウタキ) のすぐ近くにアモールシガーと呼ばれる井泉跡がある。戦前のムラガー (共同井戸) で、水質がよく、水量も豊富であったため、干ばつには、 小禄集落だけではなく、遠く宇栄原集落からも水を汲みにきていた。 農業用水にも使われていた。かつては小禄には、18箇所の井泉があったが、その大部分は沖縄戦により破壊されたが、アモールシガーは、破損を免れた数少ない井泉の1つ。現在、この辺りは住宅地になっているが、かつては真玉嶽 (メーヌウタキ) からこのアモールシガーにかけては傾斜地で、匂配のある段々畑に行ってなっていたそうだ。


島田井泉 (シマダガー)

アモールシガーの北にもう一つ井戸跡がある。この辺りは島田原 (シマダバル) という地域で戦前は畑地帯だった。住民が農作業を終えた後、この井戸によりに農機具や体を洗っていた。旱魃時には飲料以外の生活用水にも使われていた。


井戸跡 (名称不明)

アモールシガーから7号線を少し北に登った所、東の住宅街の中に井泉跡があった。詳細は不明だが、小さな祠もあり、拝所として御願されているようだ。


崎山 (サチャマ) 拝所

小禄公民館から北に進んだ所に立派な神屋があった。崎山 (サチャマ) 拝所と呼ばれ、小禄集落の村元 (ムラムトゥ) とされる崎山 (サチャマ) 門中の神屋だ。小禄集落の鎮守の神様として、集落住民に崇められている。祭壇には多くの香炉が並んでいる。神屋は民家建物の一部となっている。崎山 (サチャマ) 門中の子孫が住んでいるのだろう。神屋の前に祠があり、火之神を祀っている。祠の中には御三物 (ウミチムン) が置かれている。(写真下)


崎山之井泉 (サチャマヌカー)

神屋の前の道路沿いに崎山之井泉 (サチャマヌカー) がある。ミーガーとも呼ばれ、村井泉 (ムラガー) だった。

崎山之井泉 (サチャマヌカー) の前の道の向かいにも拝所があった。この拝所の情報は見つからなかった。崎山 (サチャマ) 拝所と関係があるのだろうか?


神道 (カミミチ)

崎山 (サチャマ) 拝所から更に北に進んだ民家の間に石畳の坂道が残っていた。村で保存しているのだろう。この道は小禄集落の神道 (カミミチ) の一部だそうだ。神道は神人 (カミンチュ) が御嶽や殿に御願に向かう際に通る道。


呑殿内 (ヌンドゥンチ)

神道 (カミミチ) 沿いに、琉球王統時代に公儀ノロ制の元、小禄ノロを出していた照屋家の呑殿内 (ヌンドゥンチ) 門中の屋敷跡がある。呑殿内門中は小禄集落の七 (ナナ) ハロージと呼ばれる有力七門中の一つ。大きな家で、神アシャギと呼ばれる神屋が玄関横に建てられている。火の神を祀っている。神屋の前は広場になっており、ここで御願をするのだろう。広場にも小さな祠が置かれている。


ヌールガー跡

呑殿内 (ヌンドゥンチ) の前に井泉跡がある。水は無く、形式保存されている。呑殿内 (ヌンドゥンチ) を拝む前に身を清めた井泉なのだろうか?


ハワイ会館 (旧公民館)

石畳の神道 (カミミチ) を登った所にハワイ会館と看板が出ている建物が目に付いた。沖縄では多くの移民が海外に渡って行ったので、その関係で建てられいるのだろうが、他の集落ではこのような施設は無かったので少し興味が湧いた。調べると、戦前、小禄からハワイへ移り住む人が多く、沖縄戦後の小禄を心配したハワイ在住の小禄出身者が、1952年に焦土と化した小禄の復興のために小禄小学校の図書館と小禄と田原の公民館の建設資金として1万ドルが贈られたそうだ。ハワイでは、一時期、小禄出身移民の経営するレストランが76店舗 (沖縄系は250軒もある) もあったそうだ。建てられた図書館は後に小禄小学校の職員室として使用され、小学校校舎の建て替えの際に取り壊された。同じく援助で建てられた小禄公民館も老朽化し大改修を行い、ハワイの小禄字人会の援助を感謝し「字小禄ハワイ会館」と名付けた。それがこの建物だ。中を覗くと祭りで使う旗頭などが置かれている。小禄の青年部が旗頭の修理などで利用しているそうだ。

全国的にも沖縄は海外移民が多い県で移民数はトップになる。二位が東京都だが人口比だとダントツで移民数が多い。沖縄の移民は明治32年 (1899年) にハワイへ27名が移住した事から始まる。その当時の沖縄が非常に貧しかったことが主たる理由だが、地割制の廃止で土地の自由売却が認められたことや徴兵忌避等、当時の社会環境が、移民に拍車をかけた。

移住先での暮らしは過酷だったが、そのような状況の中においても、稼いだお金を沖縄の家族へ送金しその家計を支えたり、戦後焼け野原となった沖縄にいち早く救援物資を送ったりと、苦しむ沖縄の人々を救ってきたのは、この移住者の方々だったと言う。この故郷や一族の繋がりは、本土に比べ格段と強い。中国人の華僑の繋がりと通じるものがあるかも知れない。沖縄の門中という概念が根底にあるのだろう。

明治32年から昭和13年の移住者数は72,134名で、昭和15年当時の沖縄県の人口の約12%が移住した計算になる。戦前はハワイへの移住が最も多く、フィリピン、ブラジル、ペルーが続きこの4カ国で移民の86%を占めている。戦後は少し傾向が変わり、ブラジルがトップ、次いでアルゼンチン、ボリビアでこの3カ国で移民全体の95%になっている。この3カ国の移民はいわゆる「呼び寄せ移民」が中心だった。


高良隣徳顕彰碑

ハワイ会館の前の広場に高良隣徳先生顕彰碑なる物が建っていた。いつもはこのような顕彰碑は素通りするのだが、小禄自治会館にも胸像が置かれていた事を思い出した。二つも銅像がある事が興味を刺激した。インターネットで調べると、高良隣徳は1872年 (明治5年) に小禄間切小禄に生まれ、県立第二中学校 (現在の那覇高校の前進) 校長をへて、第5代県会議長を務めた教育者、政治家で1919年 (大正8年) に没すとあった。顕彰碑には「教育によるに非ずんば未来永劫他と並行するを期すべからず」と叫び、教育立県に全力を尽くし、当時の官僚の独断的植民地視に抗して県政に参画し県民福祉の為に活躍したとあり、顕彰碑の意味が少し分かる。

何があったのかが気になり、更に調べると、旧制ニ中の同窓会サイトで、詳しく当時の様子が載っていた。明治時代の沖縄は琉球王国が廃藩置県で消滅し、沖縄県として日本に組み込まれた時代、県令も本土から派遣され、植民地の様な対応も多くあった時代だ。政府は沖縄県民の生活向上よりは、沖縄を早期に日本政府の完全な統制下にする事に重点が置かれていた。本土から来た役人達は教育の世界でも、非論理的な事を繰り返し失敗をするが、反省は無く、それを正当化し、益々負のスパイラルに進むのだがそれにも気付かない。(現在の日本政府や国会議員とよく似ている。) 沖縄の教育者にとって、特にこの高良には沖縄の課題が教育にあると認識していたので、なんとか変革を行いたいとの気持ちから、行動を起こし、亡くなるまで続けた人だった。

那覇高校の始まりは1910年 (明治43年) に前年の県制施行後の第一回通常県議会での「中学校分校設置計画」に基づいて沖縄県立中学校分校として首里城北殿に開校する。翌年には中頭郡内に校舎を建築し沖縄中学分校を首里城内から中頭郡に移転する計画だった。明治44年に県立中学校を沖縄県立第一中学校 (後の首里高校) と改称し、同時に分校を沖縄県立第二中学校 (後の那覇高校) と命名、初代校長には1899年 (明治32年) からこの分校で教鞭をとっていた高良隣徳が任命された。やがて移転先の中頭郡の場所が問題となる。当初は浦添の安謝 (那覇から約10km)となっており、那覇、首里からに通学も可能だったが、これが覆り、嘉手納 (那覇から約25km) となった。これでは首里、那覇からの通学が困難という事で高良隣徳主導で反対運動が起こるも決定は覆らず移転。この結果、受験者が激減し、なおかつ中途退学者が激増し、生徒の8-9割が学校を去ってしまった。高良隣徳はこの危機的状況打開に奮闘するも、体を壊し校長を退職する。県がとった対策はニ中廃校案だった。生徒数が10分の一という事象のみを見て、当初の目的と問題の原因は無視したものだった。既に退職していた高良隣徳は激怒し、活発にニ中存続を訴え続け、世論を得て廃校は免れる。ただ、生徒数を減らし、ニ中敷地内に農学校を移転させ、二つの学校を運営することになった。これが次の大問題を起こすことになる。ニ中と農学校の対立で、度々衝突が起こり、ニ中生徒は農学校との物理的分離を求めストライキを起こし、登校拒否に出た。その後、色々と駆け引きが行われたが、生徒の殆どが無期停学となり、ニ中は実質上休校状態が続く。高良は大正5年の県会議員の島尻郡補欠選挙に立侯補し当選。当選後直ぐにニ中の那覇移転を訴える。大正6年にニ中と農学校の分離と二中の那覇移転案を提出し、15対13の僅差で可決され、二年後の大正8年に那覇の城岳に無事移転が完了。(城岳には沖縄戦で犠牲になったニ中健児の塔があったのを思い出した) その1ヶ月後に、高良は47歳の若さで息を引き取った。高良の人生は二中を通し、沖縄の教育に捧げた生涯だった。この経緯を知るとこの顕彰碑の見方が違ってくる。多くの顕彰碑にはこの様な深い生き様があるのだろう。(写真左は校長就任時で39才、右写真 沖縄青年会卒業生送別会の時、2列目真ん中で24才)


拝所

ハワイ会館の苗にある細い路地の片隅に拝所があった。少し大きめのコンクリートの祠がある。何を祀っているのかはわからない。小禄集落には案内書にも載っていない拝所がいくつもある。(この後にも幾つかの名称不詳の拝所に出くわす)


ビンガー

呑殿内 (ヌンドゥンチ) の北東の路地を登った奥にビンガーと呼ばれる井戸跡がある。その途中にも名称不明だが拝所となっている井戸跡のあった。(写真左上) 現在はビンガーには水は無く、水場だったのだろう場所はコンクリートで固められ、その中に井戸を形取ったものが設置されている。蓋に給水栓の様な物がつけられているので、まだこの下には水があるのかもしれない。この様な形に変わった後もしばらくは使われていたのだろう。


賓頭盧 (ビジュン)

ハワイ会館の横の道を森口公園に登る途中に空き地があり、そこには幾つもの祠が建っている。入り口に賓頭盧 (ビジュン) と書かれている。部落によって、ビッチリー、ビジュルとも呼ばれる神様だ。 この集落にも賓頭盧 (ビジュン) が祀られている。ビジュンはインド仏教の十六羅漢の筆頭のピンドーラ・バーラドヴァージャ (賓頭盧跋羅堕闍) の事で、中国から伝わり、沖縄ではチュクイムジュクイ (作物) の神様となっている。(本土ではこの像を撫でると病気が治るとされている) 

賓頭盧 (ビジュン) の周りには幾つもの石造拝所が建っている。これは小禄集落の七つの有力門中の七ハロージの拝所。この石造拝所は独特の形をしている。三角形の屋根の様な形をしている。家形の祠は他の集落でも見ることはあるのだが、ここ小禄のものは独特だ。


森口公園

賓頭盧 (ビジュン) から、坂道を登ると森口公園がある。この公園は小禄集落の聖域であった場所で、住民は祭事のときにしか足を踏み入れない場所だった。公園内には、カニマン御嶽 (小禄グスク) と小禄の殿がある。この二つの拝所が、この公園の中心でそれを囲む様に遊歩道がある。散歩には気持ちの良い場所だ。


カミンガー

森口公園の入り口にカミンガーという井泉跡がある。今は花壇になっているが、その中に祠が建てられていた。


殿 (トゥヌ、トゥン)

森口公園に入ると丘がある。この丘の上が殿 (トゥン) になっている。この向こうにある小禄の御嶽に対しての殿になっている。(写真は小禄の御嶽から見た所)

殿は広場になっておりその中心に目立つ赤瓦の祠になっている殿 (トゥン) が置かれている。何故かは分からないが、祠の中には多数の貝殻が置かれていた。

殿の前方には崎山根神 (サチャマニーガン) の祠が建っている。崎山 (サチャマ) 門中は小禄集落で七 (ナナ) ハロージと呼ばれた有力七門中の一つで、村元 (ムラムトゥ) だった。根神 (ニーガン) と書かれているいるので、昔はノロを排出していた。ある資料ではこの崎山門中は絶えてしまったと書かれていた。先に訪れた崎山拝所は崎山門中の分家が管理しているのかも知れない。崎山門中が絶えて後、ノロは同じ七 (ナナ) ハロージの呑殿内門中に移ったのかも知れない。 (七ハロージ = 崎山、内間、思い、殿内、照屋、大里、呑殿内) 

一般の住民が入れるのはこの殿迄で、この先の小禄の御嶽は男子禁制で神人 (カミンチュ) だけが入る事が許されていた。ここに各門中の代表者が集まり、御願を行ったのだろう。

殿の周り、広場を囲む様に幾つもの祠が建てられている。門中の名前が記載されていた祠は安座名/新米須門中、思い門中、大里門中、沢岻門中、照屋門中、東門門中、崎山/殿内/照屋/思い門中の七つある。

これ以外にも名が記載されていないものも多数あった。

この殿に関連した井泉が二つある。殿への南側と北側のそれぞれの階段下にあった。どちらも殿のグサイガーと呼ばれている。北側のグサイカー (西) は簡単に見つけた。形式保存の拝所になっており、井戸自体は埋没している。

グサイカー (南) は見つからず、後日 (9/11) もう一度訪れた。草が生え放題だったので、今回は鎌を持参して来た。草をかき分け見つけ、持ってきた鎌で周りの草を刈ってようやく井戸跡が見えてきた。拝所巡りではそこを御願する時期以外は草が生え放題になっている。それで、最近は鎌を持参し、草を刈って写真を撮っている。集落内を歩く時は、なるべく鎌が目立たない様にしている。集落では部外者はすぐに分かり目立つ。鎌などを持ち歩いていると警察に通報されてしまう。最近は物騒な事件も報道されているので、不審者に間違われない様に注意はしているのだが、やはり人から見ると、ちょっと怪しくは見えるだろう。


小禄の御嶽 (ウロクヌウタキ)

殿の北側、高約42m~50mの石灰岩丘陵上に森が見える。その森全体が小禄の御嶽 (ウロクヌウタキ) となっている。琉球国由来記には小禄ノ嶽 (神名ミキョチャマベノ御イベ) と記載されている。

御嶽は本来は村に1つとなっている。それは村の鎮守だからで、訪問した集落には複数あるケースもあった。それは以前は村が複数あり、それが合併して一つの村になったが、御嶽はそのまま残っている場合と、時代とともに、御嶽、殿、神屋、拝所の区別が曖昧になり、いつしか、本来御嶽では無い拝所を部落で御嶽と呼ぶ様になった場合がある。小禄では先程訪れた真玉御嶽 (前之御嶽 メーヌウタキ) とこの小禄の御嶽に二つある。小禄の御嶽はここではカニマン御嶽、または後之御嶽 (クシヌウタキ) と呼ばれている。小禄の場合は先に述べたケースのいずれでもなく、真玉御嶽はニライカナイの神を祀り、こちらの小禄御嶽は村の守り神を祀っていると言われており、性格が異なっている。それで二つの御嶽が存在しているそうだ。

この小禄の御嶽は小禄グスクとも言われている。中山王の察度の弟の泰期 (タイチ) が小禄按司 (泰期金満按司) としてここを居城とし、南山を監視していたと伝わっている。ここからは、那覇港も臨め、港に寄港する貿易船の往来が手に取るようにわかる。また、首里城方面も開けており、察度王統にとっては重要な拠点で、信頼していた弟の泰期 (タイチ) にここを守らせたのは納得がいく。城壁は明治時代に崩されてしまいグスクの遺構は残っていない。

泰期 (タイチ) は察度の異母兄弟だったというのが通説で、察度の父の奥間大親と天女との間に生まれたのが察度で、天女が去った後に後妻に迎えた又吉家の娘との間に泰期が生まれた。泰期 (タイチ) の名の由来ははっきりとはしないのだが、鍛冶屋で作る太刀 (たち) から来ているとの説がある。泰期の一族は鍛冶屋ともされて、これが泰期を金満と称し、金満は鍛冶屋の守り神になった。

兄の察度が中山王と君臨した時代には、明より来貢の催促があり、この時 (1372年) に察度の使者として明国へ渡り進貢したのが泰期だった。これが琉球と明との公式な外交関係の始まりだ。それ以降10年の間に5回も明国へ渡って進貢し、琉球の経済の大いに貢献をした。サトウキビを持ち帰り製糖法を伝えたのも泰期といわれている。察度は交易で鉄を大量に輸入し、農民に道具を分け与えたと伝わっているので、これは泰期が主導した事だったのだろう。東南アジアに及ぶ大交易による黄金時代を築き上げたとして、「商売の神様」ともされ、読谷村の残波岬の灯台近くには銅像が立てられている。


アミタボーリガー

御嶽に入ると直ぐのところに拝所がある。右側にアミタボーリガーの井泉跡がある。アミタボーリとは「雨給われ、雨乞い」を意味する。雨乞いに関わる拝所は、多くの集落にある。ノロが雨乞いの儀式を行った場所になる。この場所で雨乞いが行われたかは書かれていないが、この井戸がその儀式に関わっていたか、この近くで雨乞いの儀式が行われていたと推測できる。井戸の近くの小さな祠は七ハロージの一つの大里門中の拝所だそうだ。

アミタボーリガーの側の林の中に古墓がある。


火之神 (ヒヌカン)

御嶽へ入る道は幾つかある。昔から全ての道が存在していたのかどうかわからないのだが、その一つの道の脇に火之神 (ヒヌカン) があった。


嶽グサイガー

火之神 (ヒヌカン) がある階段を降りた所から小禄集落の北側と隣りの田原集落に通じる道があり、拝所が見えている。嶽グサイガーの井泉跡の拝所で、小禄の御嶽と対になっている井泉だった。この道沿いにも多くの門中墓 (当世墓 現在使われている墓) がある。


金満 (カニマン) ミテン

アミタボーリガーから奥へは細長い広場になっており、突き当たりに小高い丘がある。その丘の麓に金満 (カニマン) ミテンの拝所がある。香炉が三つ置かれているが、それぞれが何を祀っているのかは不明。ここは古墓と思われる。泰期は国頭奥間の鍛冶屋 (カンジャヤー) で、鍛冶屋の始祖だと伝わっている。そこから鍛冶屋のことを金満と呼ぶようになった。鍛冶屋では農機具を製造し、この地域の農業の発展に貢献した。沖縄では鉄が産出されず、鍛冶技術は中国から伝わった。泰期は幾度も明に渡っているので、その際に鍛冶の技術を持ち帰った可能性はある。この付近には鍛冶屋が住んでいたとのいい伝えもある。その鍛冶屋の子孫は隣村の田原に移り住み鍛冶屋を続けていた。この子孫は堀川鍛冶と呼ばれ、現在でも祭祀を行っている。この金満 (カニマン) ミテンも泰期にまつわる拝所なのだろう。

金満 (カニマン) ミテンがある丘の周りには幾つもの古墓がある。

この場所だけで無く、小禄御嶽にある丘陵斜面は墓だらけだ。森の中央の丘を取り囲んでいる斜面に幾つもの古墓が残っている。御嶽は古代その初期の段階では集合埋葬地だったとされる。個人墓ではなく、その地の空いたところに、思い思いで埋葬していた様で、誰の墓かを識別する事は困難だった。

この墓群の中にウナジキバと書かれた拝所があった。今日はじめに訪れた真玉御嶽にもウナジキバの拝所があった。このウナジキバが何を意味して、何を祀っているのかは判らずじまい。ただ、二つの御嶽に共通してあるので、小禄集落にとり重要な拝所だろう。


お通し所 (ウトゥーシドゥクル)

金満 (カニマン) ミテンの横の階段を登ると、頂上にお通し (ウトゥーシ 遥拝所) が置かれている。どこへのお通しなのかは調べてもわからなかった。

お通し所 (ウトゥーシドゥクル) の背後にも道があり、それを進むと古墓の拝所があり、丘の下に通じている。御願の際には拝所を巡るルートが決まっている。この道はお通し所 (ウトゥーシドゥクル) を拝んだ後に帰る道だったのかもしれない。


バンヌカー

森口公園がある丘陵の西南の麓に井戸跡がある。バンヌカーと呼ばれている。詳細は見つからなかった。

バンヌカーの奥、丘陵の斜面に多くの門中墓が並んでいる。どれも立派な当世墓だ。

小禄の御嶽の北の丘陵の斜面にも多くの門中墓がある。写真はその中の大型の墓。

更にこの丘陵の東側斜面にも多くの門中墓があった。この丘陵自体が昔からの聖域になっていた。


後原樋川小 (クシバルヒーザーガーグヮー)

次にこの森口公園の東側、かつて小禄集落の中心地を巡る。集落の北の端には現在ゆいレールが走っている。この場所から文化財を見ていく。ゆいレールが走る221号那覇内環状線の脇に後原樋川小 (クシバルヒーザーガーグヮー) があり、綺麗に造り換えられている。

小禄集落の共同井戸で、近年まで豊富な水が流れ落ちていたそうだ。今は造り変えられて、井戸の脇から水が流れている。ここが昔の水の樋があった位置だ。


ナカミチの裏道

後原樋川小 (クシバルヒーザーガーグヮー) の後に階段がある。自転車を担いで登ると、細い道が通っている。この道はナカミチの裏道で、集落中心を走る中道 (ナカミチ) と並行に走っている。石垣が所々に残っている。


中道 (ナカミチ)

ナカミチの裏道を自転車を押して歩いた後は、中道に出る。ナカミチの裏道は中道 (ナカミチ) よりは少し高い場所にあり、裏道から中道には細い路地 (スージー) で結ばれている。集落は小禄の御嶽のある森口公園の丘陵地の東斜面から、かつての海岸線の平地に広がっていた。中道は目抜き通りだったので少しは広い道路だ。この道は真玉橋から豊見城を通り那覇港に向かう真珠道の一部だった。


九班之井泉 (キュウハンヌカー) 

中道を221号那覇内環状線から南に進むと九班之井泉と呼ばれる井戸跡があるそうだが、見つけられなかった。後日訪れて駐車している車と壁の隙間に隠れていたのを見つける。小禄集落には戦前までは九班まであり(現在は十班)、班によって使用する井戸が異なっていた。小禄のナカミチ沿いにあるが既に井戸はなく、駐車場の奥に車の間に小さなコンクリートの祠と井戸を表わすパイプがあり、拝所となっている。 

九班之井泉の近くの空き地に拝所があった。多分ここに住んでいた家の拝所だったのだろう。


班之井泉 (ハンヌカー)

更に南に進んだ所にも井泉跡がある。班之井泉 (ハンヌカー) と案内書にはあったのだが、どの班に属するのかは分からなかった。


ミーガーモー、川原の印部石 (シルビイシ、ハル石)

班之井泉 (ハンヌカー) の前の中道の反対側には小禄村のアシビナー (遊び庭) だったミーガー毛 (モー) がある。ここは、地域の人が集まって話し合いをしたり、祭りの時に出し物を披露したりする集会所のような憩いの場。若い男女が集まって、三線を弾いたり、おしゃべりをしたりでいわゆる「出会いの場」でもあった。ここには琉球王統時代の1735年~1759年にかけて両先島を除く沖縄島と周辺離島で行われた検地 (乾隆大御支配=元文検地) の際に測量の図根点として使用した原石 (ハルイシ) が置かれている。この原石は印部石 (シルビイシ、シルビグヮー) 、主に土手の上に置かれたので印部土手石 (シルビドテイシ、ドゥティグヮー) と呼ばれていた。印部石の破損は土地領域の混乱を招くため、その保護の為、地方 (じかた) 役人は年に二度の点検が義務づけられていた。廃藩置県後も保護されてきたが、1899年~1903年 (明治32年~36年) の土地整理で、そのほとんどが消失。印部石には土手の所在・原名 (ハルナー) と、順序を示す記号が、カタカナ、ひらがな、または変体がなで大きく彫られている。ここに置かれた印部石には「ユ」の文字が刻まれている。1737-50年に造られた。もともとはこの場所にあったのではなく、刻まれた文字によると川原から移設されている。「ユ、川原」と書かれている。この原石は祠の中に納められ拝所になっている。祠の傍に丸い石が二つ置かれている。これはこのアシビナー (遊び庭) で力自慢を競った力石 (差石) だ。


後之川井泉 (クシンカーガー)

ミーガーモーから少し南に進むと先程訪れた森口公園の入り口に通じる細い路地が西側にある。この道の脇に後之井泉 (クシンカー) と呼ばれる井泉がある。この井戸はかつてはノロが殿 (トゥン) や小禄の御嶽に赴く際に使用した専用の井戸で、村の人は使用することは出来なかったそうだ。

中道は小禄の御嶽のある丘陵の中腹を走っており、かつての海岸線に向かっていくつもの下り坂や下り階段が枝のように出ている。

坂道を下ると大通りに出る。7号線 奥武山米須線で、ここがかつての海岸線だった。これより東は何回かに分けて埋め立てられて、現在は住宅街になっている。

海岸線の変遷を説明した案内板が以前訪れた奥武山公園にあった。わかりやすい資料になっている。これによるとこの辺りは戦前までは海だったことが分かる。


ウシヌシンカー

中道の九班之井泉から、坂道を下った所の住宅街の奥にウシヌシンカーがある。詳細は掲載されていない。


ガーナームイ (鵞鳥森・鵝森)

かつての海岸線だった7号線 奥武山米須線より東は戦後埋め立てられ現在は鏡原 (きょうはら) 町にとなっている。小禄地区には含まれていないのだが、昔は小禄集落の前に広がる漫湖で、その西の沖に浮かぶ小さな島がこのガーナームイだった。ガーナムイは漢字では鵞鳥森・鵝森と書くのだが、昔は鵞鳥が住んでおり、その鳴き声から名がついたとか、沖縄方言でガーナーはたんこぶという意味で、島の形から名がついたとも言われている。この湖上に浮かぶガーナ森の姿は那覇八景の一つに数えられる程、風光明媚な所で、中国からの冊封使は鶴頭山 (かくとうざん) と呼んでいた。ガーナムイは地域ではクジラ山とも呼ばれている。下の写真を見れば、その理由が分かる。

このガーナ森にまつわる昔話が小禄集落や近隣集落に幾つか伝わっている。いずれもガーナ森の尻尾を石で動けなくしたというもの。島だった時の写真を見ると確かに小島から尻尾が出ている。昔話はこの形から造られたのだろう。

  • ガーナー森は湖面に住み、しばしばヒナラシ森へ喧嘩を仕掛けていた。身動きが出来ないヒナラシ森も地域住民も困っていた。様子を見ていた神様はある日、怒って天からガーナー森の尾に石を数個落として動けなくした。その後、ガーナー森は息絶え小島となった。ヒナラシ森 (真玉橋集落のヒララス杜 [御獄] のこと) は、地域住民の守護神である神を祀る神聖な場所となった。
  • ガーナー森は、夜になると漫湖から陸地へ上がり、集落の家畜や人を襲うので村人は困っていた。それを見ていた神様は、ある日天から石を投げ、ガーナー森の尻尾を漫湖に押し付けた。これでガーナー森は湖から動けなくなった。村人たちは神様に感謝し、また、ガーナー森を見張る意味もかねて、集落内に石獅子を立てた。
  • 琉球王朝尚敬王の時代、このあたりに暴れ者の巨大な怪物が出没して周辺の村人を困らせていました。 怪物は北に向って来て、真玉橋、嘉数、根差部の集落を喰らおうと集落に被害が及びそうになったとき、天の神様が怪物を退治するために岩を落します。 とても大きい怪物は、それでも一つ目の岩ではとめる事ができず、二つ、三つと落とすと尻尾にあたり、ようやく動きを止める事ができました。(昔の写真には尻尾にあたるところに岩が三つ四つ見えている) それでも口から魔風を吹きだし暴風などで付近の人達に迷惑をかけ続け、これに困った真玉橋周辺の人達はこれを防ぐためにシーサーをつくり集落の端に祀りました。 これが今でも残る真玉橋のイリヌシーサーです。それ以来怪物の魔風による被害も収まって、以前のように平和に暮らせたそうです。そして、月日がたつとやがて怪物は現在のガーナムイと呼ばれる森になりました。


現在のガーナムイは住宅地の中の小さな雑木林の小山として残っている。

林の中への入り口があり、そこから中に入ると山の頂上への急な登り階段がある。かなり急でロープが張られ、これをつたって登る。小山は土砂崩れが所々に見られて、この道以外は危険なので立ち入り禁止になっていた。頂上には二つの拝所が置かれている。こちらを向いているのは仁天屋船ひ久姫神の御嶽で、琉球神道の龍神の天火龍大御神 (あますいりゅうおおかみ) の長女で申の干支の龍神。

肝心のガーナー森御嶽神はその奥にあった。


浜川井泉 (ハマカーガー)

ウシヌシンカーから7号線 奥武山米須線を南に行く。道路の側の駐車場の一画に香炉が置かれている。ここはかつては浜川井泉 (ハマカーガー) と呼ばれる井戸があった。ここも昔は海岸近くで、名前もそれから来ているのだろう。


小禄馬場跡

7号線 奥武山米須線を更に南に進むと、かつては小禄馬場だった交差点に出る。馬場跡は近年整備されてちょっとした休憩所となっている。馬場がどの方向に伸びていたのかは書かれていないのだが、多分道幅が広い7号線ではないだろうか?


小禄の橋口 (端口)

現在の県道7号線から東側の現在小禄1丁目付近は湿地帯でヰ田 (ゐーだ) と呼ばれる畑で畳の材料の藺草栽培が盛んだった。琉球のヰは普通のイグサが丸い断片なのに比べて三角で丈夫だので好評だった。小禄はこのヰの代消費地の那覇が近いこともあり藺草栽培は盛況であった。小禄馬場跡の近くには泉原から小川が流れてきており、橋口と呼ばれる石橋がかかっていた。大正の頃までは、ここまでくり舟が入って来て農耕にも使用されたそうだ。


前道 (メーミチ) 

小禄馬場跡から西に向かって前道 (メーミチ) が走っている。この場所がかつての小禄集落の玄関口だった。先ほどの小禄の「橋口」は小禄の「端口」ともよばれていたのは、ここが集落の東と南の端だったということだろう。前道 (メーミチ) の真ん中付近は道幅が広くなっている。ここは村の広場として使われていた。先に訪れた崎山の拝所の近くだ。広場には自治会館がもう一つあった。

この広場では小禄の大綱引きが行われる。


袋中寺

前道 (メーミチ) を西に進むと袋中寺という仏教寺院がある。「袋中」というのが気になった。それは豊見城の平良集落 (金武之御井/金武御墓) を訪れた際に沖縄のエイサーの起源と考えられている浄土念仏に旋律をつけた念仏歌を考案し布教に務めた袋中上人ゆかりの地を思い出したからだ。この寺も 袋中上人と関係があるのではと思った次第。調べると、やはり浄土宗のお寺で、琉球に1603年から3年間滞在し (尚寧王の時代) 浄土宗を広めた袋中上人を寺の名前にしている。袋中上人がここに寺を建てていたわけではないが、袋中上人が再興した京都の檀王法林寺の住職が、昭和12年に袋中上人顕彰のために那覇市に檀王別院袋中寺を創建したが、太平洋戦争で焼失。その後、昭和47年に沖縄返還を機に沖縄での浄土宗の再建を計画し、昭和50年に昔から小禄浄土と呼ぱれる程に浄土宗への信仰が強かった小禄の地を選び現在の袋中寺が建てられた。


ターガー

袋中寺から坂を登った所で前道が途切れる。そこに井戸跡がある。ターガーと呼ばれている。この井戸跡の詳細は見つからなかった。


小禄間切番所跡

ターガーの向かいには小禄間切番所跡の案内板が立てられている。この場所に番所があったのだ。この番所は琉球王国時代の1673年に小禄 (おろく)、金城 (かなぐすく)、儀間 (ぎま)、大嶺 (おおみね)、当間 (とうま)、安次嶺 (あしみね)、赤嶺 (あかみね)、宇栄原(うえばる)、高良 (たから)、具志宮城 (ぐしみやぐすく)、具志 (ぐし) の11の村を合わせ小禄間切が誕生してから、1908年 (明治41) にかけて、間切の行政を管轄していた。間切番所では地頭代 (ジトゥーデー) 以下の間切役人が、村々の耕作状況や年貢収納などの監督・指導を行った。1879年 (明治12年) の沖縄県設置後、1899年 (明治32年) の沖縄県間切島吏員規定により、番所は役場、間切役人は間切長・書記などと改称され、さらに1908年 (明治41年) の沖縄県及島嶼町村制の施行により、間切は町村、村は字となり、小禄間切は小禄村となった。小禄間切番所は、その後も間切役場・村役場庁舎として使用されたが、1912年 (大正元年) に安次嶺へ移転、沖縄戦後は高良に新築され、1953年 (昭和28年) に那覇市との合併で、那覇市小禄支所庁舎となった。番所跡の片隅に小さな祠の拝所があった。番所と関係があるのかは不明。


マヘ原の印部石 (シルビイシ、ハル石)

小禄間切番所跡の裏の民家の庭に印部石 (シルビイシ、ハル石) が置かれている。1737-50年に造られた。もともとはこの場所にあったのではなく移設されている。「ヨ まへ原」と書かれている。



上之井泉 (ウィーヌカー、一班之井泉)

小禄間切番所跡から北に向う。住宅の外れに井戸跡がある。上之井泉 (ウィーヌカー) と呼ばれ、小禄の一班が使用していた井戸。


アシビナー跡

更に北に向かい森口公園方面への道路に広場がある。昔はこのような広い道路ではなく、狭い路地だったのだがそこに広い広場が置かれていた。ここは小禄集落に幾つかあったアシビナー跡の一つ。



小禄里主所火之神

アシビナー跡の北側は昔ながらの路地が残っている。石畳の道が保存されている。石畳路の途中には井戸跡もあった。

石畳に囲まれた所に小禄里主所火之神のアシャゲが建っている。入り口はアシビナーから綺麗に刈りこまれた芝生道だ。奥にあるアシャゲは腰をかがめて入れるくらいの背の低いもの。中には霊石が祀られ、かつて人々が小禄の安全と繁栄を祈っていた。


黄金森 (クガニムイ) クサイ井泉 (カー)

アシビナーの西側の住宅地の中に井戸跡がある。黄金森 (クガニムイ) クサイ井泉 (カー) と案内書ではなっている。名から判断すると、黄金森 (クガニムイ) という拝所に付属する井泉となるのだが、肝心の黄金森 (クガニムイ) の拝所は案内書には出ていない。この辺りにあったのだろうか? (アtで調べるとこの近くに黄金森 (クガニムイ) の御嶽が田原集落内にあることが判った)

黄金森 (クガニムイ) クサイ井泉 (カー) の近くにもう一つ井戸跡がある。案内書には掲載されていないのだが、御願の際の注意書きが置かれているので、村としての拝所になっているのだろう。



小禄集落は文化財保護に力を入れているせいか、多くの文化財を公開している。全部は一日では回り終わらず。2日間にわたって見学した。


参考文献

  • 小禄村誌 (1992 小禄村誌発刊委員会)
  • 歴史散歩マップ 小禄まーい (1991 那覇市教育委員会文化課)
  • ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
  • 沖縄県那覇市の住民組織について-自治会 研究ノート その 1 (1994 総合都市研究第53号)