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じゅんじゅんホームページ

ダムリハ。

2021.09.16 02:57

昨日はダムダム団リハスタ。



世界を遮断し思考や言語が詩的になるのは心に即している証であり良いことだが、行き過ぎるとドラマティックの勢いで敗亡に飛び込むことも否定出来ない。

スーパーのレジの店員さんより踏み込んだ俗世との関わりを定期的に挟むべきだ、と改めて思う。

仕事を辞めて1年9ヶ月。

こんなに人と意思の疎通が必要不可欠でない生活をしていると、そのうち言葉もなにもかも通じなくなってしまうのではないかとたまに思う。

ただでさえテレビや世情の類いをスルーしている私だ。

現役女学生時代にクラス内で飛び交うキムタクの月9ドラマについての感想大会にもついていけなかった私だ。

仕事という、嫌でも擦り合わせが必要な項目を取り除いたら、現世に存命しつつ、世間とは異なった異形のなにかに相成ってしまうのではないか。

でもよく思い返してみたら、中学1年生の夏から卒業まで不登校の引きこもりだった。

今より行動範囲も限られていたし、常に罪悪感と寄り添い、生きる楽しみも特に無かったあの2年半を乗り越えているのだから大丈夫なのでは、と思い直す。

自分の歴においての不幸比べは、あながち悪いものではないなと笑う。

ひとりで"笑う"という所作が滲み出てくるときは、自分に余裕があるときだ。

だからどうということもないが、自己の状態を自覚する癖というのは、付けていて損は無い。

全ては、自分をうまく操縦してゆくため。

私は時折、自分が巨大な宇宙に於けるひとつの細胞的存在なのではないかと考える。

生まれては消え、そのひとつひとつは微々たるが、すべてが消失してしまえば、宇宙そのものが消えてしまうような、どうでもよいとは言い切れない存在なのでは無いかと思う事がある。

シュレディンガーの猫を見るように、観測によって現実が成立するという量子論の考えをもってすれば、死とはリタイヤではなく、世界を見捨てて、自分の魂だけが登っていくことなのかもしれない。

わからない。

思ったもん勝ち、というところもある。

大いにある。




リハは、来週2本あるライブのセットリストを中心に。

新曲『スナイプ』の要所アレンジ変更もした。

イントロを聴いてあれこれなんだったっけ?とか、ここでいくんだっけ?と感じても、気付けば的確に反応し唄い出す身体に、自ずとダムダム団のボーカルたらしめているではないかとニヤつく。

そういう余計なことを考えている時に限って間違えたり噛んだりして、私もまだまだだですなと襟を正す。

鏡越しに、自分のギターのミスに対してちがうちがうと苦笑いするジンさんと、それをチラ見して密かに笑みを浮かべる鈴木さんやじみちゃんを見て、少し気持ちが楽になる。

ストレッチで30秒近いドローインという深呼吸を取り入れているせいか、焦って息をするというのが減った気がした。

ダムダム団加入してから1年ほどの苦行とレベルアップに比べたら屁でもないけれども。

"無邪気とは真逆の意味での世界観を振り翳して得意げに語るお前の頭を割れば何が出るやら"という歌詞を自分で唄って、あーと思った。

もっと、ふざけんなよと吐いていいんだよな本来、と思った。

菩薩に言われた、

「じゅんじゅんは、全員殺せばいいんだよ。」

という言葉を思い出した。

本当にそうだ。

陰キャだから無理だけれども。

鈴木さんのど滑りMCも気持ちが良いくらいになんだかなあという感じで、リハでうまくいくと本番ダメ法則でいけばめっちゃ面白いこと言うんじゃないだろうかと心する。

私は本番、笑っちゃいけないからね。



リハ後、前日じみちゃんのお誕生日だったのでおめでとうの名目で乾杯。

じみちゃんと私が同い年の9日間が終わった。

ひとつしか違わないから、あんまり関係ないかもだけれども。

ひとりだと良くない方へ暴発しそうで止めていたお酒を、久しぶりに呑んだ。

秋ビールを飲みそびれてしまうなと思っていたが、コンビニに1缶だけ残っていたプレモルの秋限定ビールを呑んだ。

美味しかった。

心の土壌を耕したつもりでいても、やはりパーソナルスペースを超えたら、関与も管理も出来る筈がないし、それは驕りでもあって。

あらゆる手法を用いたからといって、本来の意図や意思が伝わっているか否かは、わからない。

わかってほしいしわかりたいからと照らし合わせを厳密にすればするほど、擦れ違って、合わせようとすれば幾らでも、不和が行く手を遮って通してくれない。

そういう部分をふわっとさせておくという根本原理が備わっているダムダム団は、本当にありがたい。

サンクチュアリかな。

鈴木さんに言わせると、

「みんなそれぞれ傷付いてきたから。」

らしい。

先月から、漠然とした不安や齟齬に恐怖を覚え、底無しのような発狂の仕方をしている。

昨夜は、それがなかった。

お酒を呑んで、私だけがたくさん喋って、ワーワー言って、怒鳴ったりもした。

みんな相槌を打って聞いてくれた。

心がすこし軽くなった。

バンドメンバーは家族みたいなものとよく言うが、私は同じ船に乗っている人という感覚がする。

どこまで行くかわからない宇宙船に同乗しているような感覚が、すごくする。

安寧であるか否かという設問が浮かぶのも甚だしいほど、誰のためでもなくそれぞれがそれぞれの味方で、だから船は、小さいけれども沈没することなく進む。

ここは、ここでだけは、精査していない言語を吐いてもいいんだとわかった。

唄とおんなじで、みんなきちんと心を掬って感じてくれる。

一番心身がきつかった一昨年の暮れ頃は、

「私の愚痴に、関係のないみんなを付き合わせるなんて悪い。」

と口籠っていた。

この場所を失くしたら私は、ギリギリの自分を吐露する場所がなくなってしまうし、その最後の砦を疑い、戸惑うというのは、かなり重度の病状であり予兆であるとわかった。

すごく大切なことがわかった。

本当に、扱い辛い身体と心だ。




鈴木さんジンさんと高円寺駅で分かれて、気付けば商店街のシャッターの降りた店舗前で大の字になっていた。

めちゃくちゃに酔っていたし、めちゃくちゃに泣いていた。

イヤホンからは大音量の音楽が流れていて、自分以外のなにかが視界に入って目をやると、知らないお兄さんが向かいの自販機でペットボトルの水を買って置いて去っていった。

やはり宇宙の細胞のひとつなんだなと謎の確信をして、さらに泣いた。

すこし頑張って帰路を進み、裏の路地でまた座り込んで泣いた。

「お水、買ってきましょうか?」

と、子供の補助席を取り付けた自転車に乗ったお兄さんが声を掛けてきた。

大丈夫です本当にありがとうございますと返すと、気をつけてくださいね、と言って走り去った。

ここがリアルスラム街だったら、殺されてレイプされたあとミンチにされて公園のブランコに乗せられているところだなそれも悪くないがと、何度目かわからない想像をする。

優しさが痛くて、また泣きじゃくる。

ファミリーマートでねぎとろと缶ビールを買った。

久しぶりに、食べたい、という気持ちだけで食べ物を買った。

泣きながら缶ビールを呑み、醤油をたぷたぷにかけたねぎとろを食べた。

泣くと涙袋が、プチ整形されたんですねというレベルに膨れ上がる。

今の世の中の女の子は、なんで目の下になめくじを飼いたがるのだろう。

日焼けサロンに通う女子の方が、はるかに理解出来る。

私は涙袋という言葉を知る前からこの部分が好きじゃないし、なんなら二重も好きじゃない。

大好きだった彼も、最終的には私ではなく一重の彼女を選んだし、くっきりはっきりと言えば聞こえは良いが、ずっとそばに置くには厚かましさが拭えないよなと思う。

私は自分の顔が嫌いじゃないけれど好きでもないと言ったら父親に、

「じゃあお前は、一重になる整形手術があったら受けるのか?」

と笑いながら問われて、この人は本当にクソジジイ以外の何者でもないんだなと思った。

心が万全になるまで、あの人とは接触したくない。

デーモンコアでしかない。

臨界、突破したくない。

スラム街でミンチにされるのは悪くないが、そういう心の殺され方は、望んでいない。

大丈夫。

まだすこし生きたい。

大丈夫。