作左(さくざ)が叱(しか)る
宝永6年(1709年)に書かれた『武野燭談』(ぶやしょくだん)という本がある(全30巻)。徳川家康公から5代将軍綱吉公までの歴代将軍、御三家、老中、旗本、諸大名及びその家臣のエピソードを集めた本だ。
恥ずかしながら、崩し字は読めないのだが、幸いなことに国立国会図書館デジタルコレクションには活字になった『武野燭談』があるので、ぼちぼち読んでいたら、法制執務に関する面白いエピソードがあったので(『武野燭談』第十)、ご紹介しようと思う。
主人公は、戦国武将の本多重次(ほんだ しげつぐ)だ。徳川四天王の本多忠勝は、超有名だが、本多重次は、マイナーすぎて名前をご存知の方はほとんどいないと思う。斯(か)く言う私も知らなかった。笑
通称は作左衛門(さくざえもん)で、徳川家康の家臣団の中でも、「鬼作左(おにさくざ)」と呼ばれるほどの勇猛果敢な武将だったそうだ。戦さで片目・片足・手指に怪我を負ったそうだから、人相風体(にんそうふうてい)も恐ろしかったことだろう。
しかも、家康に対しても、歯に衣(きぬ)着せずに諫言(かんげん。いさめること。)するほど剛毅(ごうき)だったらしい。
しかし、本多重次の名前を知らなくても、日本一短い手紙「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥(こ)やせ」ならば、ご存知の方も多いのではあるまいか。
この手紙こそが天正3年(1575年)長篠の合戦の陣中から「鬼作左」が妻に宛てた手紙だ。ここにいう「お仙」は、嫡男(ちゃくなん)仙千代(のちの本多成重)のことで、陣中にあっても、幼き我が子のことを心配する子煩悩(こぼんのう)な心根(こころね)の優しい男だったことが窺(うかが)える。
家康は、この「鬼作左」を三河国(みかわのくに)の奉行に任じた。気性が荒い頑固一徹の武骨者「鬼作左」に果たして奉行が務まるのかと周囲が心配していたら、決して乱暴狼藉を働くこともなく、公平無私で迅速に事務処理を行い、行政手腕を発揮したそうだ。家康の人を見る目の確かさを物語るエピソードだ。
『武野燭談』には、「鬼作左」が奉行を務めていたときの逸話が載っている。
本多作左衛門(ほんださくざえもん)は、下(か)の情(じょう。しもじもの事情、庶民の実情のことで「下情(かじょう)」という。)を能(よ)く考へ(え)知りたる者なり。三州(さんしゅう。三河国の別名。)にして、壁書(へきしょ。板や紙に書いて壁に貼り付けた法令のこと。)の條々(じょうじょう。一つひとつの条項のこと。)を定めらるゝ(る)に、百姓(ひゃくせい)ども一向(いっこう)これを用ひ(い)ず、いかゞ(が)せんと各〻(おのおの)相議(あいぎ)せられけるに、作左衛門重次(さくざえもんしげつぐ)申しけるは、「土民(どみん。土着の住民のこと。)はいろはをだに(「をだに」は、否定の文中で「〜さえも〜しない」の意を表す。)聢々(しかじか。分かりきったことを省略する際に用いる「かくかくしかじか」のしかじか。)知らざるところへ、堅(かた)き文言(もんごん)に古祕(こび。ふるび)たる詞(ことば)を以(もっ)て、高札(こうさつ)を立てられたれば、何といふ(う)事を知らざる故(ゆえ)なり。教(おし)へ様(よう)こそあらめ。我(われ)に任(まか)せられよ」といひ(い)て、如何(いか)にもまめに、いろはにて何々(なになに)の事と書きて、之(これ)に背(そむ)くと作左(さくざ)がしかる、と書加(かきくわ)へて出(いだ)せしより、國中(くにじゅう)必至(ひっし。必然のこと。)と法令を背(そむ)かざりしとぞ。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/948833/91
三河国の人々は、法令に違反したら「鬼作左」に酷(ひど)い目に遭(あ)わされると恐怖しただろうが、作左は、決して恐怖支配をしようとしたのではない。
学のない庶民にも分かる平易な言葉で平仮名を用いて法令の内容を書き直していることから、法令の内容を理解させて守らせようとしたのだ。
「鬼作左」と恐れられていることを逆手(さかて)に取って、「之に背くと作左がしかる」と書き加えたのは、作左のお茶目な一面を表していると理解すべきだろう。
また、「之に背くと作左が厳しく仕置き(処罰すること。)する」ではなく、親が子を叱るが如く「之に背くと作左がしかる」と書いたところに、作左の慈愛が窺える。